第25話

「そうか。わたしの夢にもフィオリナが出てきたよ」


『……え』


 事情を知っている者が一斉に驚いた声を上げた。


 それはランドールにとって妃が夢に出てきたということだ。


 だが、わざわざフィオリナが、と注釈するということは、きっと彼女はフィオリナとして夢に出てきたのだ。


 残酷だなとみんなは思う。


 夢ですら昔の妃には逢えないなんて。


 事実を知るマリンは口を挟まない。


 またランドールも彼に確かめようとはしなかった。


 彼にとってあの夢は現実だった。


 嘘か誠かなんてどうでもいいのだ。


 彼にとってあの夢は現実だから、今更どちらなのかと問い詰める気にもならない。


「フィオリナは……変わらない」


 その一言がなにを意味するのか。


 透はわかってやれない。


 でも、彼が穏やかな顔をしているから、母さんが夢に出てきたことはよかったのだと、そう思うことにした。


「そっか。よかったな、ランドール」


「ああ。そう……思うよ」


 噛み締めるように彼はそう言った。





 食事を終えて透が立ち去ろうとしたとき、ランドールから声が掛けられた。


「トール」


「なに?」


 立ち止まり振り返る。


 他の人々も立ち止まっていたが、ランドールは透だけを見ている。


「酒を処分しようと思うんだが手伝ってくれないか?」


「えっ!?」


 透が素っ頓狂な声を上げる。


 それは周りの者も同じだった。


 声こそ上げていないが目を丸くしている。


 そのくらい最近のランドールは酒に溺れていたから。


 それを自分から処分すると言い出すなんて信じられない。


「どうして急に?」


「ビクトリアに叱られるからだ」


 堂々と言うランドールにどうやら夢の中で彼女に叱られたらしいと、事情を知る者は受け取った。


 いや。


 本当に夢だったのだろうか?


 相手は戦女神フィオリナだ。


 夢と見せ掛けて現実の可能性もある。


 視線がマリンに集中したが、彼はなにも言わなかった。


「だが、他の者に任せると止めそうだし、自分ひとりでやると幾つかは隠しそうだ」


「ラ~ン~ド~ル~」


 非常に判別しづらいが、どうやら彼の名を呼んでいるらしいと周囲は判断した。


 透は本心から呆れていた。


「ビクトリアと同じ顔が手伝っていたら、さすがに悪さのしようもないからな」


「あのなー。そんなところで俺の顔を利用するなよっ!!」


 呆れる透にアスベルとルーイから声が掛かった。


「悪いが手伝ってやってくれ、トール」


「父様が悪さしないように見張っていてよ、トールさん」


「しょうがないなあ。行くぞ、ランドール!!」


 先頭に立って歩き出した透の後を彼は無言でついていった。





 ガチャガチャと音を立てて透が酒を処分していく。


 その手際は見事なくらいで、隠していた酒まで、次々と見つけ出しすべて処分した。


「こんなところにまで隠すなよっ!!」


 透が手の届きにくい場所に隠してある酒を取ろうと頑張っている。


 が、彼は男としては小さいので、どうやっても腕の長さが足りない。


 届かなくて四苦八苦しているのを見て、ランドールが近付いていった。


 彼は今まですることがなかったのだ。


 捨てようと決意していても、いざ捨てようてするとどうしても躊躇ってしまう。



 それを繰り返していると透が、もう手伝わなくていいから座ってろ、と怒鳴ったのである。


 お陰で自分から言い出したのに役立たずなままだった。


 だから、彼を手伝おうと彼の背後から腕を伸ばす。


「ランドール?」


 透がチラリと視線を向けてくる。


 同じ場所に手を伸ばしているから、彼を背後から抱くような形になる。


 ドキリとした。


 ビクトリアと同じ顔が見上げてくる。


 よく見てみると彼は瞳も髪も微妙に彼女とは違うが、陽の光に照らされると全く同じ色になるのだと気付く。


 目眩がする。


 その目眩を堪えようと腕を伸ばした。


「よく見付けたな、あれを。あれは周囲に止められたときの予備だったのだが」


「そんなことするなっ!!」


 文句を言う唇も彼女と同じ形だと気付く。


 彼は男というより少女に近い。


 そういえばビクトリアが彼の年齢くらいの頃、初めてキスをしたのだ。


 不意打ちでキスをして彼女に責められたのを覚えている。


 あれは婚約も整っていない頃のことだった。


 ランドールがまだ自分の気持ちは片想いだと思っていた頃の出来事。


 酒の瓶に手が届く。


 しっかりと掴む。


 その動作もなんだか夢の中の出来事のようで、酒を引き出すまでの間、じっと彼の項を見ていた。


 ほっそりとした項が覗いている。


「あっ。やっと出てきたっ。これで捨てられるー」


 透がホッとしたように言う。


 その瞬間、彼が微笑んだのが目に入ってきた。


 ビクトリアと同じその笑顔。


 気付いたら折角引き出した酒から手を離していた。


「えっ!? ちょっと待ってっ!! 割れるっ!!」


 透が慌てて手を伸ばそうとする。


 その手首を掴んで強引に振り向かせた。


 透は驚いたような顔をしている。


 足下で酒の瓶が割れて酒が絨毯に染みていく。


 それを感じながら目を閉じる。


 透はただ目を見開いていた。






 キス……されてる。


 その現実がなかなか受け入れられない。


 触れるだけのキス。


 でも、それは長かった。


 透が現実を把握するほどの時間があった。


 透の男としては細い腰に彼の腕が回っている。


 もう一方の腕は髪を押さえつけていた。


 透を上向かせるために。


 そうされないとキスできないという現実に透が気付く。


 身長差がありすぎて彼が屈むだけでは、透にはキスしづらいのだと。


 我に返って両腕で彼の胸を押した。


 だが、分厚い胸板はビクともしない。


 透の抵抗はあっという間に封じられる。


「酔ってるのか、ランドール!!」


 やっとのことで唇を離してそう言った。


 それがまずかった。


 叫んでいたから唇が開いた状態で、また唇を奪われる。


 すぐに口腔内になにかが忍んできた。


 それが彼の舌なのだと舌を奪われて絡ませられてから気付いた。


「んっ……」


 長く深いディープキス。


 正真正銘初めてのキス。


 頭……頭がクラクラする。


 キスってこんなにスゴいものなのか?


 頭がポーッとなっとなにも考えられない。


 完全に酔っていたかもしれない。


 彼に与えられるキスに。


 初心者の透にはすこし刺激が強かった。


「んっ」


 唇が離れる瞬間、透は気が遠くなるのを感じていた。


 抱いてくれる腕に身を委ねる。


「ランドール?」


 囁くように名を呼ぶ。


 ハッと息を呑む気配がした。


 もしかして無意識だったのだろうか。


 本当に酔っていた?


 そこまでが透の限界だった。


 糸が切れたように意識を失い崩れ落ちる。


 それを慌ててランドールが抱き留めた。


「トール?」


 名を呼んでも彼は目を開けない。


「わたしは今……なにを……」


 その呟きはだれの耳にも入らなかった。





「全く。もうちょっと行き過ぎた行動だったら止めてたんだけど」


 マリンは自室でそんなことを呟く。


 透の行動からは目を離さないマリンである。


 当然だが彼の身に起きたことはすべて知っている。


 相手がランドールだったから敢えて見逃したが。


 それに……あまり認めたくないし複雑な気分にもなるが、この彼の行動はフィオリナも認めている。


 ランドールの気持ちが透に傾いていることなど、フィオリナもそしてマリンも知っていたからだ。


 それに彼がこうすることは昨夜の時点で、フィオリナにだってわかっていたはずだ。


 昨夜フィオリナは彼に逢いにきた。


 マリンはそれに気付いたが、やはり夫婦の問題だったので知らないフリをした。


 そこでなにがあったのか、マリンは大体知っている。


 あの切ない別れ。


 それによってなにを彼が得たのか。


「まあ完全に酔って人違いしたって感じだったけどね。さっきのは」


 透にとってはとんだ災難である。


 酔いの残っていたランドールは完全に透をビクトリアと、フィオリナと間違えた。


 だから、素直に行動に出ることができたのだ。


 まだ完全に自分の気持ちを認めていない彼である。


 それで昨夜の今朝でこういう行動に出るとは思えないから。


「トール様も気の毒にね。お母上と間違えられてっていうのはショックだろうから」


 苦い気分で呟いて、また透の様子を透視した。







 コクリとなにかが喉を通った。


 熱く焼けつく感覚に噎せる。


 涙を浮かべながら目を開く間近からランドールが心配そうに覗き込んでいた。


「ランドール?」


 透は寝台に寝ているようだった。


 いつの間に?


「なんか口の中に変な味がー」


 透が思いっきり変な顔をする。


「まさか……酔ってるのか? 現実を把握しているか? いや。把握されると困るのはわたしなのだが」


「苦いー。苦いー」


 透は頻りにそう繰り返す。


「気付けに一口飲ませただけだぞ? どれだけ弱いんだ?」


「う~。気分悪いからもっかい寝る」


「ちょっと待てっ!! せめて謝らせてくれっ!!」


「謝る? なにを?」


 透の目はトロンとしている。


 半分寝ているみたいだがこの際無視だ。


 今謝らないときっと自分を許せなくなるから。


「その……さっきは悪かった。そなたがあまりにビクトリアに似ているから、酔っていたこともあって、つい、間違えた」


 そう言われた瞬間、透の脳裏にフラッシュバックする。


 彼にキスされたシーンが。


 目が据わる。


「間違えた? 母さんと?」


「うっ。済まない。昨夜久し振りに再会したばかりで、気持ちが高ぶっていたというか」


「酷いよー」


 透が寝台にうつ伏せた。


 さめざめと泣きはじめる。


「トール!?」


 たちまちランドールは慌て出した。


 泣き上戸?


 そんな言葉が脳裏を過るが今は無視だ。


 どう言って泣き止ませようか。


「酷いよー。母さんと間違えられてキスされるなんてサイテーだあ」


「いや。だから、それはっ」


「俺初めてだったのにー」


「え? 口付けも経験がなかったのか?」


「わー。また酷いこと言われてるー」


 透がごねる。


 ランドールはどう扱えばいいのか迷ったが、うつ伏せたその髪を撫でた。


 自分は寝台に腰掛けて。


「こんなことを言っても意味はないだろうが、本当に済まなかった。今度は間違えないようにするから。ビクトリアはビクトリアでトールはトールだ。そのことは意識しておくから」


「今度なんてないよー」


 サラリと言われてランドールがショックを受ける。


(いや。何故ショックを受けているのだ。わたしは? この状況だ。そう言われるのも無理はないのに)


「も、寝る」


 一言だけ言うと透は目を閉じたようだった。


 顔を覗き込む。


 赤い顔でうつ伏せて眠っていた。


 苦笑する。


 その体勢では辛いだろうとすこし抱えあげて上を向かせる。


 腕の中の身体は細く頼りない。


 寝かせてから呟いた。


「これで同性とはな。すこし細すぎないか?」


 だが、この細く小さな身体に途方もない力を秘めているのだ。


 その瞳が真紅になることはあるのだろうか。


 開いた瞳が真紅だったら。


 そう考えてキレイだろうなと思った。


 そういえば……と今頃気付く。


 昨夜逢ったビクトリアも真紅の瞳だった、と。


「父上?」


「アスベル?」


 ギクッとして振り向いた。


 第一王子アスベルが怪訝そうな顔で立っている。


「遅いので様子を見にきたんですが、トールは?」


「あ、ああ。寝ている」


「は?」


 呆れた声をあげたアスベルが近付いてくる。


 そうして寝台を覗き込むと父親に責める瞳を向けた。


「さてはトールに飲ませましたね、父上?」


「いやっ。わざと飲ませたわけではないっ!!」


「だったらどうしてトールは酔って寝てるんですかっ!?」


 詰め寄られてつい口が滑った。


「気付けに一口飲ませただけで他意はないっ!!」


「気付け? どういう意味ですか?」


 慌てて口を閉じる。


「父上?」


 じっと見詰めてくる色の違う瞳。


 あまりに注視されて誤魔化すのは諦めた。


「いや……さっきは酔っていただろう?」


「まあ一目見てわかるくらいは酔ってましたね、確かに」


「それで……あまりに彼がビクトリアに似ているものだから、彼が妃に見えて」


「まさか……襲ったんですか、トールをっ!?」


「襲ってないっ!! 無意識にキスしただけだっ!! 誓ってそれ以上のことはないっ!!」


 焦る父親を王子はじっと睨む。


 そうして「はあー」と長いため息を吐いた。


「アスベル?」


「それでトールが気絶して気付けに酒を飲ませたと」


「まあそうだ」


「おれもついてくるんでしたよ」


「……」


「それで父上を止められたかどうか自信はありませんが、ふたりきりより事故を防ぎやすかったと思いますから」


「……そうかもしれないな」


 確かにアスベルが居たら間違えて行動を起こしても、きっと止めてくれただろう。


 そうしたらこんな間違いは起こさずに済んだ。


「トール。ショックを受けていたでしょう?」


「母親に間違えられて初めての口付けを奪われたとたいそうショックを受けていたな」


「初めて? それはまあショックだったでしょうね。しかも動機は母親と間違えてだし」


「そう責めてくれるな。肩身が狭い」


「ここはおれがついてますから、父上は執務に戻ってください」


「だが」


「トールが目覚めるまでどのくらい掛かるかわかりませんし、それに目覚めて父上の顔を見たら、ショックがぶり返しても可哀想でしょう?」


「わかった。そうさせてもらうとしよう。よく面倒をみてやってほしい。いいな?」


「はい」


 出ていく父親の背中を見送って、アスベルはため息を漏らす。


 父はわかっているのだろうか。


 自分が起こした行動が、どれほどの問題行動かということを。


 透は本来エドが想いを通わせるべき相手だ。


 これでは父が横から手を出したことになってしまう。


「エドに打ち明けるべきなのかな。父上には要注意って……でもなあ」


 思わず深い悩みに落ちる。


 透が母に似ていることがすべての原因だ。


 それが厄介な事態を招きそうで、アスベルの顔は曇るのだった。

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