第36話




 それからの2週間。


 事情を知っている者は、みな生きた心地がしなかった。


 血をすべて抜き出すまでにかかった日数は、ほぼ一月。


 容態が落ち着くていどに血を抜き出すまでの日数が、2週間。


 1番辛かったのは、その最初の2週間だった。


 日毎にリュシオンの衰弱がひどくなり、寝ずに治療に当たっていたディアスが、細心の注意を払って少量の血を抜き出す。


 その繰り返しで2週間だ。


 まだ満足に動けないリュースも、寝室に戻って休む気にならず、2週間のあいだ長椅子で過ごした。


 2週間が過ぎて、ほんの一瞬、リュシオンの意識が戻ったとき、ディアスが泣いた。


 本心からホッとして寝台にうつ伏せて。


 俯いていた肩が震えていたが、だれも声をかけなかった。


 ディアスの涙はその一度きりだったが、その後もだれも蒸し返そうとしなかった。


 ディアスがリュシオンの危篤状態を目の当たりにするのは、これが初めてではなく二度目なのだ。


 彼の胸中はだれにも推し量れない。


 それほどにディアスにとっては、辛い2週間だったのだから。


 リュシオンの意識がはっきりしてくるのは、このときより更に1ヶ月ほど後のこととなる。





「病人食、不味い……」


 いやそうに呟いたリュシオンを見て、ディアスが肩を竦めた。


 死線をさまようほどひどい状態だったのは、つい昨日のことだというのに、リュシオンのこの呑気さはどうだろう。


 まあ本人には自覚もないのだから無理もないが、回復したばかりで「病人食は不味い」ときた。


 呆れて物が言えない。


「不味くても食べろよ。体力、全然残ってないんだから」


 スプーンを突き出すディアスに、渋々受け取って不味い流動食を口に運ぶ。


 不機嫌そうなその顔も、今はすべてが愛しいだけだ。


 腹も立たないし却って可愛いくらいだ。


 たったひとつだけ残念なことがあったとするなら、輸血と記憶喪失は無関係だったことくらいだろうか。


 輸血のショックかと思っていたが、記憶喪失は正真正銘、事故で頭を打ったせいらしい。


 つまり未だにリュシオンは自分が神帝だと知らないのだ。


 疲れることに。


「そういえばどっちが先に元気になって、散歩に誘えるか、競争しようって言ってたぞ、セインリュースが」


 唐突な科白にスプーンを運ぶ手を休めて、リュシオンが顔をあげた。


「……俺と?」


「絶対に俺の方が先に元気になって、案内する方に回ってやるって豪語してたけど」


「案内する役?」


「つまり負けた方が姫君よろしくエスコートされることになるんだよ。歩けない方を車椅子にでも乗せて案内するって意味だから」


「いつ俺がそんな変な勝負を受けたんだ?」


 絶対にイヤだと顔に書いて、リュシオンがディアスを睨む。


 睨まれたディアスは悪びれず肩を竦めてみせた。


「言ったのはリュースで俺は伝言だよ。言っておくけど、あいつはかなり強引だから、おまえが知らないって言っても、一度言い出したらその通りにするよ」


「……だれかさんにそっくりな性格だな」


 いつか自分で指摘したことを、今度はリュシオンに指摘され、瞬間、面食らって黙り込み、ついでディアスが爆笑した。


 お腹を抱えて笑い転げるディアスを、リュシオンは呆れて眺めた。


 いやに陽気だなと思いながら。





 リュシオンが死線から回復して、ディアスが本格的に動き出したのは、ちょうど一月後のことだった。


 だれもが驚愕したあの朝から1ヶ月半が過ぎていた。


 突然ディアスが行方を眩ませて、秘書官がすべての代行を仰せつかったと言われたとき、3大貴族の面々はそれぞれに抗議の声をあげた。


 なによりもディアスに逢わせろ。この事態の意味を説明しろと。


 だが、事情を知っているはずのアリステアは、厳しい表情を崩さないまま頑として口を割らず、協力を求められたらしい彼の父親のジェノールも、一言も口を割らなかった。


 さすがは秘書官親子だと、だれもが感心し、最後には呆れ返るくらい徹底して。


 ただどちらの顔色も優れないことが彼らを戦慄させた。


 不吉な予感に。


 何故なら四大貴族の面々は全員が知っていたのである。


 7代神帝リュシオンが長期間、行方不明になっていることを。


 ディアスが突然、行方を眩ませて動き出したとなれば、理由はリュシオン以外にはありえない。


 それはだれもが確信していることだった。


 だが、だれに訊ねても埒があかず、ついには侯爵夫人にしてリュシオンの姉姫、クローディアが秘書官親子に直談判にきた。


 しかしクローディアを相手にしても、ふたりはついに口を割らなかった。


 その徹底した沈黙が彼らを怯えさせて1ヶ月半が過ぎたのだ。


 ディアスが彼らを謁見の間に呼び出したのは、沈黙が恐怖に移り変わる頃であった。


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