第30話
聖宮は奇妙な静寂に包まれていた。
緊張を孕んだ恐怖にも似た沈黙に支配され。
異変の中心はここしばらくディアスがじゃれている客人の寝室だった。
その正体を知っているのは、聖宮では侍医と3人の子供たちだけだ。
だから、だれもこの張り詰めた雰囲気の意味を悟れない。
ディアスが関心を寄せて保護している客人。
その正体は7代神帝リュシオンその人である。
声を出すことすら憚られる沈黙が支配する寝室。
耳をつくのは苦しげな喘ぎだけだ。
それも途切れがちな。
枕元に立ち尽くすことしかできない、自分の無力さに打ちのめされても、これが動かしがたい現実だった。
きつく唇を引き結んだディアスを前にして、侍医は悔しさを噛む。
自分の手に負えない現実を前に。
「本当に申し訳ございません」
深々と頭を下げる侍医にディアスはかぶりを振ってみせる。
ただじっと寝台の上のリュシオンを見詰めて。
王宮で突然、昏倒してからリュシオンの意識は丸2日戻らない。
際限なくあがる熱が、リュシオンの体力を奪い衰弱がひどくなる。
原因さえわかっていれば、ディアスが力を使い、癒すことは可能かもしれない。
だが、肝心の原因がわからない。
何故、熱が下がらないのか?
何故、意識が戻らないのか?
あらゆる手を尽くして調べても、原因らしい原因が見つからない。
執務を中断して付き添っていられる時間にも限りがある。
こんなときも身代わりをして、平気な顔をしなければいけない。
それがなによりも辛かった。
リュシオンが気掛かりで平気なフリなんてできないのに。
「ディアス陛下……」
気遣うように名を呼ぶ声は、ただひとり事実を知り、胸に秘めてくれている秘書官だ。
振り向かずにディアスは眼を閉じる。
決意を言葉にする前に気持ちを固めるように。
「アリステア」
「はい」
耳に馴染んだ秘書官の声。
ゆっくり瞳を開いたディアスが、切れるような鋭さを込め、視線を向ける。
初めてみる不敗の英雄の気迫に、アリステアは知らず呼吸を止めた。
「俺は公爵家を許せないかもしれない」
「祖王陛下」
ためらいがちに呼んだのは、秘書官ではなく侍医だった。
秘書官は同意もしなかったが、反論もしなかった。
言わずにいられないディアスの気持ちを知り尽くしていたから。
「リュシオンは死なない。そんなことはわかってる。だけど、もしなにか後遺症でも残ったら、小さな傷ひとつでもこいつに残したら、俺は容赦しない。公爵家だろうと構うものか。リュシオンが止めても、潰してやる」
祖王の狂気の気迫に侍医は声も出なかった。
これほど情け容赦ないディアスなど見たこともない。
こんなに冷酷になれる人だったのか。
不敗の英雄と呼ばれた覇王とは。
「なにをやった……っ」
身体の底の方から絞り出すような、そんな声にアリステアが痛ましい顔で眼を逸らす。
とてもディアスをみていられなかった。
握りしめた拳が爪で傷ついて血が流れても頓着しない彼を。
「あの事故のときにこいつになにをやったんだっ!?」
吐き捨てても状況は変わらない。
わかっているのに止まらない。
もう……気が狂いそうだ。
事故の状況はすべて調べた。
調べられる範囲は、すべての権力を使っても徹底的に調べた。
だが、わからなかったのだ。
なにがこれほどリュシオンを追い詰めたのか、どうしても掴めなかった。
ディアスが隅から隅まで報告書を調べても、原因だと思われる情報がなかったのである。
どこをどう探っても、リュシオンがこんな状態に陥る原因は見つからなかった。
報告書に漏れはなかったか?
なにか……。
冷静になって考えようとするのだが、リュシオンの苦しげな息遣いを感じるだけで、理性が感情に負ける。
「どうしてっ」
悲痛な声が響いて部屋にいた者たちが、ハッとしたようにディアスをみた。
瞳に涙さえ浮かべて、ディアスが小机に拳を叩きつけた。
いやな音がして机に亀裂が入る。
「こんなときに思い出さなきゃいけないんだっ!? こいつが死にかけたときのことなんてっ!!」
冷静になろうとする端から浮かぶ土気色の顔。
折れてしまいそうなほど細かった痛々しい小さいリュシオンの姿。
吐き出された痛みを、すべて悟ってやれる者はいない。
だが、アリステアは知っていた。
父親から聞いて知っていたのだ。
リュシオンが死期を迎えるそのときに、傍にいて見とる立場にあったのはディアスだと。
彼がその段階から無理やりリュシオンを蘇生させたのだと聞いた。
臨死寸前のリュシオンを知っているから、ディアスはこれほど苦しむ。
たぶん問題のその場面でも、同じ恐怖と痛みに耐えて、必死になって彼を生き返らせたのだろう。
失いかけたそのときに出逢ったから、彼はこれほどまでにリュシオンを慈しむ。
きらわれていることを知っていてなお。
素直じゃないリュシオンは、まだきらっているフリ、恨んでいるフリをしているけれど、本音は違うとアリステアはとっくに気づいている。
これほど深く愛されて、まだキライでいられるほど、リュシオンは冷たくなれない。
「大丈夫ですよ、ディアス陛下」
陳腐な慰めの言葉。
だけど、これしか言えなかった。
このときのアリステアには。
無言で何度も頷くディアスに、他の言葉は言えなかったから。
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