第24話
「言えなかった理由もわかるだろう? あいつは自分の名前さえ知らないんだ。それでどうやって言える? 自分の宮にいても、あいつはそれを理解しないのに」
「陛下のご容態は?」
感情がすべて消えたような虚ろな声だった。
苦い表情でディアスはかぶりを振る。
机の上で両手を組み、組んだ両手を額に当てて、呻くように答えた。
「はっきり言って良くないよ。あのバカ。リュースに逢っても思い出さなかったんだ」
「……皇子」
病身の皇子が受けた衝撃が気になった。
あれほど父上に心酔した皇子だ。
どれほどの衝撃を受けただろう?
「原因不明の高熱が不定期に続いてるし、食欲が低下して痩せてきてる。
侍医も事態を重く診てるみたいだ。しばらく様子をみて、大丈夫そうだったら隠してるつもりだったんだ。
無闇に心配をかけたくなかったし、リュシオンに負担を与えたくなかったから」
「今わたしに話されたということは、できなくなったということですね」
無言で頷くディアスに、アリステアは無意識に細い息を吐いた。
つまりそれだけリュシオンの容態が悪いということだ。
すべてを伏せて表沙汰にしないまま終わらせることができないほど。
「リオンクール大雪山で起きた事故らしい」
不意に顔をあげたディアスに、秘書官が抑えた声で「大雪山?」と繰り返した。
「リュースから聞いただけだから、はっきりした状況はわからないんだけど。
事故に巻き込まれた相手を助けようとして、とっさに相手を全身で庇ったんだろうな。自分が力を封印していることも放ってさ」
「陛下らしいことですね」
苦々しい声だった。
それが良いことだと思っているわけではないのだろう。
アリステアの声には、許しがたい怒りがあった。
おそらく事故の原因を招いた公爵家の者に対して。
こういうときには秘書官は冷酷だ。
神帝のためだけに動く臣下だから、相手が公爵家でも容赦はしないだろう。
わかっているから言いたくなかったのだが。
「調べて裏を取ったわけでもないし、リュシオン本人も後でだれかに説明されたって言ったらしいから、どこまで信憑性があるのかは謎なんだけど」
「はい?」
「相手を救おうとして自分を楯にしたんだろうな。リュシオンは一方的にケガを負ったらしい。それもたぶん大ケガをね」
「……大ケガ?」
今にも公爵家に怒鳴り込みそうな怒気を感じ、ディアスは何度か息を飲み下した。
「熱くならずに聞いてくれよ?」
ムスッとしたまま返事は返らなかったが、ディアスはとりあえず信じることにした。
信じないとこれ以上説明できなくなるから。
秘書官は怒らせると人格が変わるらしい。
アリステアでこうなら、ジェノールだったらどうなるんだろう?
「なんかすごく言いにくくなってきたけど」
「続けてください」
思わず「はい」と頷きそうになって、我に返ったディアスが渋面で唸った。
秘書官に飲まれてどうするのか。
「事故から1週間あいつの意識はなかったそうだ」
わざと不機嫌そうにそう言うと、一瞬だけ空白の間が空いた。
「……それほどの大ケガを?」
血の気がなくなって蒼白になったアリステアに、ディアスは不安そうな眼を向ける。
(大丈夫かな、こいつ?)
「意識が戻ったときには、リュシオンはすべてを忘れていた。大雑把な状況説明はこんなものかな」
ため息で締めくくった説明に、アリステアもため息で応じる。
見上げてきたディアスの深い蒼い瞳と出逢い、アリステアは苦い笑みを返した。
「それで如何なさるおつもりですか、祖王陛下。すべてを表沙汰にせず、伏せておくのは不可能とご判断なされたのでしょう?」
「まあね。まだ公にする気はないけど、俺ひとりで内密に片付けるのは、そろそろ限界だなって思ってる」
すべてを伏せて動くには、ディアスは目立ちすぎた。
協力者がいなければ内密には動けない。
ディアスが秘書官に打ち明けた意図はそこにあった。
「どうやら急いで原因究明が必要らしい」
「はい」
「事故の状況、そのときの背景、すべて徹底的に調べあげてくれ。些細なことも余さずに。
リュシオンが1週間も意識不明に陥った。俺は祖王としてそれが納得できない。
どんなふうに事故が起きたのか、どのていどの規模の事故だったのか。
リュシオンがどのていどの傷を負ったのか。すべて事細やかに調べあげるんだ」
「必ず」
「最悪の場合、公爵家への報復は俺が決める。アリステアは手を出すな」
「……承知致しました。では御前失礼致します」
ひやりと背筋が冷たくなる声だった。
怒りに氷水をかけられたような錯覚に、アリステアはぞっとした。
もしかしたら1番腹に据えかねているのは、ディアスなのかもしれない。
ふとそんな気がした。
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