第8話
こっそり侍医に指示して皇家の秘薬を飲ませたディアスは、寝台の上でリュシオンが熟睡しているのを確かめた。
頬を軽く叩いても起きない。
しっかり効いているようである。
ディアスが調合した睡眠薬が。
「どうだ? 記憶は戻りそうか? こいつの」
診察を終えて手を洗っていた侍医が、柔らかな笑みを浮かべ、複雑な顔で首を振る。
顔色を変えたディアスに慌てて付け足した。
「記憶というものはとても繊細なものですから、戻るとも戻らないとも言いかねます。こればかりはなんとも。お役に立てなくて申し訳ございません、ディアス陛下」
凝縮する侍医に気にするなと、かぶりを振ってみせて、ディアスは難しい顔でうなる。
「ところで先ほど処方されたお薬はいったい?」
「ん?」
「いえ。陛下のなさることですから、危険なお薬ではないと安心致しておりますが、説明もなかったものですから、少々気になりまして」
「それって危ない薬じゃないかって疑ってるんじゃないか」
祖王の顔に大きく呆れたと書かれて、侍医は気まずくなってうつむいた。
「まあ一言で言えば睡眠薬だよ」
「睡眠薬? 何故そのようなものを?」
解せないと顔に書いた侍医の呟きに、直接は答えずディアスは難しい顔で嘆息をつく。
「俺が手段を講じるあいだ、眠っていてもらおうと思ってさ」
「ディアス陛下?」
「厄介だなあ。今は本人が自分のことわかってないし、おまけに感情も乏しいときてる。相手側に渡すなんて御免だけど、いったいどう言えば納得するんだ、こいつは?」
ぶつぶつとこぼすディアスが、いったいなにを言っているのか、侍医にはまったくわからない。
「あのう。いったいなんのお話ですか?」
おそるおそるといった感じで、問いかけてきた侍医を振り向いて、ディアスが意味ありげに笑った。
「いい事教えてやるけど、他言無用だよ?」
「はあ」
「さっき俺が手渡したのは、皇家の秘薬の睡眠薬だよ」
「どういう意味ですか」
さすがにその一言だけで意味がわかったのか。
侍医の顔色は一瞬で変わっていた。
青ざめて強ばった顔に。
「言葉どおりの意味だって。やっと見つけたと思ったら、あのバカ、記憶を失ってたんだよ」
「まさか」
血の気が引いて真っ白な顔で、侍医が食い入るように寝台の上の少年を凝視する。
「俺をみても名前を聞いても思い出しもしなかった。記憶がなくても別人みたいでも、こいつはリュシオンなんだ」
「外傷は見当たりませんでしたが」
正体がわかると急に不安になったのか。
そそくさともう一度診察を始める侍医をみて、ディアスが苦笑する。
「どうも話によれば、どこかの貴族を助けて、こういう事態になったらしいよ」
「それはまた」
侍医の複雑な顔の意味を、よく知っているディアスは声に出さずに笑う。
助けた相手が神帝で、そのせいで神帝の記憶を喪失させたなんて知ったら、きっと卒倒ものだろう。
知らぬが花といったところか。
「その貴族に連れられて王宮にきたらしいんだ。今頃もしかしたら姿がみえないって慌ててるかもな。向こうにしてみれば、自分たちのせいなんだし」
ディアスが何故難しい顔をしているのか。
すべて察した侍医も顔を曇らせた。
「記憶を喪失した後で、よくして頂いた方々では、どう説得しても陛下に納得して頂くのは至難の技でしょうな」
「ほとんど不可能だよ。変なところでリュシオンは融通がきかないからなあ。さっきも相手の迷惑になると悪いって名前は言わなかったんだ。義理堅いというかなんというか」
複雑なため息をもらし、ディアスが困惑顔を寝台のリュシオンに向ける。
ここにエディスターシャがいれば、リュシオンの記憶はすぐにでも戻せただろう。
彼女はリュシオンの生命線だ。
彼女の存在ひとつでリュシオンは変わる。
いい意味でも悪い意味でも。
記憶を喪失しても、エディスの泣き顔ひとつで、きっとすべてを思い出すことができた。
最愛の妃が自分のことで泣いている現実に耐えられずに。
だが、肝心のエディスターシャはいない。
どうすることもできない。
絶対伴侶を失った皇族は脆い。
生命よりも大切な妃を失って、リュシオンがどれほどの絶望に耐えていたか。
エディスターシャさえリュシオンの元にいたら、こんな事態にはならなかった。
それだけは確かだった。
「先ほど他言無用と申されましたが、それは世継ぎの君や双生児のご兄妹、それに秘書官殿に対しても通用するご命令でしょうか?」
ためらいながらの問いに、侍医を振り向いてディアスは小さく息を吐く。
「わからない。対策を決めかねてるんだ。打ち明ければ安心していられないだろう? どうするべきか悩むところだな、俺としても」
ディアスはディアスで、最善の方法を模索しているのだと、侍医にもわかった。
たしかに秘書官やリュースが事情を知れば、絶対に落ち着いて見守ることなどできないだろう。
それが情緒不安定なリュシオンを追い詰めてしまう可能性はたしかに高い。
記憶喪失になると精神的な負担が強くなるものだから。
「どちらにしろ、この件は早く片をつけないとヤバいな」
「ディアス陛下?」
「長引けば俺にも天変地異を防げなくなる」
ポツリと落ちた祖王の独白に侍医は唖然とした。
皇家の中でも最強の力を所持する英雄王だ。
その彼がこんな弱気な科白を口にするなど、にわかには信じられない。
「ふしぎそうな顔だな。俺が不可能だって口にすることが、そんなに意外か?」
面白そうに揶揄する口調。
人を喰ったような皮肉げな微笑み。
いつもと寸分変わらぬ姿なのに、どこか自分を嘲笑っているようにみえる。
ディアスがそんな言い方をするのは、たしかに珍しかった。
口にした内容も。
「俺にだってできないことはあるよ。別にふしぎなことじゃない」
軽く肩を竦めてディアスはそう言った。
侍医にはなんと答えればいいのかがわからない。
肯定するのも祖王に対して失礼だし、逆に否定するのも気が引ける。
ディアス本人が主張していることだから。
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