君が私を嫌いになるまで

神凪

私のできること

 その日は、雨が降っていた。

 差し押さえられた家の前でぽつんと一人の男の子が立っていた。両親が事故死した頃の私と同じように見えて、放っておけなかった。


「君。その、一応聞くけど両親は?」

「……知らない」


 かわいそうだと思った。だけど、私には彼を助ける義理はない。それなのに、なぜか言ってしまった。


「なら、うちにおいでよ。不自由だけど、生活くらいはどうにか」


 このときの私に余裕なんてなかった。年齢としては高校生だけどまともな生活と呼べるものではなく、いくつもバイトを掛け持ちしてようやくだった。

 私とこの子が違ったのは、私には両親の資産が残っていたことだ。この子には何も無い。


「君、いくつ?」

「中三」

「三つ下か」


 返答はなかったがどうやら着いてくるらしく、私が歩き始めると後を着いてきた。

 私の目線くらいまでの少年は、私の方を見ようとはしない。


「私は白川雪音しらかわゆきね。君は?」

あおい

「葵。よろしく」

「……よろしく。雪音」


 こうして私たちの新しい生活が始まった。






 一年が経った。

 葵を迎えてからは当然昼間のアルバイトの掛け持ちではやっていけなくなっていった。だから夜勤も入れることにした。

 葵を高校に入れることにした。身体がちぎれそうになりながらモデルやらバイトやらをして、どうにか葵を養うことができた。


「ただいま」

「おかえり。無理にバイトなんてしなくていいんだよ」


 葵は最近、帰りが遅い。友人と遊んで遅くなるとかなら構わないが、どうにも最近小遣いを渡そうとすると『いらない』と言うのだ。


「バイトなんかしてない」

「そっか。手、洗ってきて」

「もう洗った」

「そっか」


 私は未だに、葵の笑った顔を見たことがない。それどころか両親への恨み言もなければ、勉強の愚痴もなかった。

 葵の感情を、あまりちゃんと見れたことがない。


「ハンバーグだよ」

「ああ。いただきます」

「うん。いただきます」


 食事の間は二人とも黙ってしまう。葵は私のことを見ない。でも、私は葵のことを見てしまう。


「……また俺の方が多い」

「言ってるでしょ。お腹空かないんだって。それに、そろそろ出ないとだし」


 夜勤の仕事だってある。それだけしても不自由な生活なのだから、葵が食べればいい。

 でも、葵はこういう扱いを唯一露骨に嫌がる。


「んじゃ、いってきます。洗い物はいつも通り置いといてくれたらいいから」


 そう言い残して、私は部屋を出た。

 勤務先は遠くはない。作業も単調なものだ。


「……どうしたものかな」


 生活はだんだん安定してきた。貧乏だけど、私は幸せではあった。

 だけど、葵は違う。

 誰に何を言えばいいのかがわからないのだ。きっと元々優しい子だったのだろうから。

 人生を楽しむというのが無理でも、喜びを見つけてほしい。親に怒ることが無理なら、私に怒りをぶつければいい。

 どこにぶつければいいのかわからないものは、全部私にぶつけてくれればいいのだ。私を嫌いになってくれればいいのだ。それが、葵にこんな生活をさせてしまった私の罪滅ぼし。

 仕事を終えて帰宅する。日はすっかり変わってしまっていて、明かりは消えていた。

 たくさん寝て、たくさん笑ってほしい。彼女でも作って、楽しく過ごしてほしい。


「雪音……?」

「……またこんなところで寝て。部屋で寝なさいって」

「……おかえり。おやすみ」

「ただいま。おやすみ」


 それを言うためにここにいたのだろうか。

 洗い物は綺麗になっていて、衣類も丁寧に畳まれていた。私の下着だけは放置だったけれど。


「ほっといていいって言ってるのに、まったく……ん?」


 テーブルの上には一冊のノートとペン。私はこんなものは使わないので、葵が置いていったものだろう。


「勉強、頑張ってるじゃん」


 ノートを捲る。だが、そこに書いてあったのは予想もしていなかった内容だった。


『親が消えた。明日にはこの家も差し押さえられるらしい。クソだ』

『白川雪音という女に拾われた。正直怖い。なんだこいつ』

『雪音も両親がいないらしい。大切にされなかった俺とは違って、仲が良かったらしい。かわいそうだから一緒にいようと思う』


 かわいそうなのは私じゃない。周りから見れば愛されなかった葵の方がずっとかわいそうだ。

 そんなことを考えながら、ページを捲る。


『高校に入るらしい。たしかに、雪音を支えるなら中卒は無理だ』

『雪音が夜に出歩くようになった。頼むから無理をしないでくれ』

『バイトを始めてみた。が、すごいストレスが溜まる。やっぱり雪音が心配だ』

「バイト、してんじゃん」


 ページを捲る。捲る。捲る。

 それから先はずっと、私のことを心配していた。食べていないのが心配だとか、夜勤をやめてほしいとか、自分の食事も少なくていいとか、そんなことばかり。

 また、ページを捲る。


『最近わかってきた。雪音はもしかしたら、俺の感情のはけ口になろうとしているのかもしれない』

『雪音がまた量を増やしてきたから、頑張って本気で嫌そうな顔をしてみたら、嬉しそうにした。予想は当たりらしい』

『わかった。俺は雪音を嫌いになろう』


 ページを捲る。嫌いになると言っておいて、また私の心配をしていた。

 友人を家に連れてこようとしたこともあったらしい。でも、私に迷惑がかかると思ってやめたそうだ。友人ができていてよかった。あの無愛想さは誤解されてしまうかもしれない。

 まだまだページを捲る。人の日記を読むのは、少しだけ罪悪感がある。


『俺には恩を仇で返すというのはできないらしい』

『雪音に守られてばかりだ。いつかじゃなくて今なにかしてあげたいのに、俺には何もできない』

『雪音を嫌いになることなんて俺にはできない』

「……なんで。嫌いになってよ」


 そうじゃなきゃ、まるで私が正しいことをしたみたいじゃないか。不自由な暮らしをさせてきた私が正しいはずなんてないのに。

 悔しさと嬉しさが混ざって気分が悪い。それでもページを捲る。


『おはようと言えなかった。ごめん』

『おやすみを言えなかった。寝落ちした』

『いってらっしゃいと言ってやれなかった。起きたらもういなかった』

「……っ!」


 私は、そんなことを考えたこともなかった。

 私にとっては当たり前だったのだ。おはようと言えることが、おやすみと言えることが。いってらっしゃいと笑ってやれることが。でも、葵にとっては違った。

 葵にとっては、私が全てなんだ。


「ごめん、ごめんね、葵」


 悔しくて、涙が出た。嬉しくて、涙が出た。

 出かける前に一声かければよかった。そうすれば、おはようもいってらっしゃいも、葵は言えた。

 寝る前に起こして少しだけ話でもすればよかった。そうすれば、おやすみと言えた。

 なにより、その言葉が葵にとってどれだけ大きいものかに、私が気づけなかった。


「雪音」

「……あ、葵!?」

「それ、ちょうだい。俺の」


 葵が指さしたのは、私の手中のノート。少しだけ、私の涙で滲んでしまった。


「ご、ごめん! こんなに読むつもり……」

「いいよ。いいんだよ」


 葵に抱きしめられた。抱きしめられた私の頭が、葵の胸に当たった。

 知らなかった。こんなにも成長していたことを。肩幅も広くなって、腕もがっちりしてきていた。

 突き放すまでが責任だと思っていた。嫌われるまでが贖罪だと思っていた。だけど、違ったのかもしれない。


「大きいね……うん、大きいよ、葵」

「そうだよ。あんたが自分の身を削って俺を育ててくれた」


 育てられたのだろうか。

 母親になれると思ったことは無いし、なろうと思ったことも無い。私は葵にとってなにか都合の良い存在であれたらそれでよかった。


「だから、無理をしないでくれ。日記を読んだならわかるだろ、俺は恩を仇で返すのは嫌だ」

「……どういうこと」

「俺があんたを支える。それまで、傍にいてくれ」

「……うん」


 その日、私は初めて葵の願いを聞いた。





 それから数年が経った。葵が大学を卒業した頃からだんだんと立場は変わって、私は家から出ることも少なくなっていった。


「雪音。起きろ」

「起きてるっての…………ん、おはよぉ……」

「おはよう」


 朝食の準備をする。量は二人とも均等にして。


「いただきます」

「ほい。いただきます」


 食事のときはやっぱり無言。でも、私はそれでいい。葵は私を見ない。私は葵を見つめる。


「じゃあ、行ってくるよ。早めに帰れるかわからないから寝てろ」

「いやでーす」

「急に鬱陶しいなあんた」


 君がやってたことだけどな、なんて思いながら、私は笑って言った。


「いってらっしゃい」

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