第1話 異変
7時59分。
じっとりと肌に張り付いてくる制服を引き剥がすようにばたばたとあおいだ。
今朝引いたアイラインが暑さで崩れていないかと、ポケットからビビットカラーのラメで彩られたユニコーンの手鏡を取り出す。
私の名前はフラム。美しい海が有名な、暑く輝かしい夏の季節をかたどった地方『エスターテ』に住む高校二年生。
あと一分ものうちに『嵐』がやってくる。
私にとっての彼らは『嵐』だ。おそらく今のこの一分は、嵐の前の静けさと言うのだろうか。
前髪を直しながら窓越しに校舎の外をちらと見やると、嫌味なほどにさえきった青空の下、しおれかけた中庭の花々が奥から順に、みるみる色を取り戻しては顔を上げていく。
その光景に思わず口元を緩めるものの、手元の教科書が、そんな私を現実へと引き戻す。
はぁーっと大袈裟にため息をつき、仕方なく頬杖をついてはペラペラと適当に教科書を見ている振りをした。
世界に五つある大陸や、それぞれの国を創造した神々の伝説、過去の戦争に関わったという偉人の数々──
そしてその何れもが、今の私にはどうだっていいことだった。
カチッ。時計が8時きっかりを指す。
『嵐』がやってきた。
「はぁーもう最悪!!」
キンキンと甲走ったボーイソプラノが朝のまだぼんやりとした脳天を鋭く突き刺した。
朝の教室が、まるで蜂の巣をつついたかのように一気に賑やかになる。
「テストは一限目だってのに最後のページが未だ覚えられてない! 終わった、僕の夏はもう終わった」
びっしりと付箋の付いた参考書を握りしめて、クラスの人が軽く引くほどに大声で嘆きながら入ってきた小柄な少年。
彼は窓際に座る私に気がつくと、琥珀色の瞳を潤ませながら、ちょこちょこと野うさぎのように駆けより私の隣へ腰掛けた。
「おはよカナエ。 ほらほら、あんたってばいつも真面目なんだし、今回も心配ないって」
そう彼──カナエはいつも、掛け持ちしている図書委員と生徒会の仕事に追われては、事あるごとに仲の良い私に相談してくる。
もちろん締切を破ったことは一度としてなく、それでいて定期テストの勉強も怠らないほどに几帳面。
しかしこの通り、カナエは度を越した神経質を持ち合わせているのだけれど。
長く伸びた前髪の隙間からは、ギョロりと大きな瞳がこちらを覗いている。
「この高二の成績は来年にも響くって先生が。 小さいテストも馬鹿に出来ないよ」
「なに、今日のテストなんて楽勝よ。 範囲はたった三ページなんだから、最初の一ページ覚えたら三十点は取れる」
私が真っ白なノートを彼に見せると、呆れて思わずずり落ちそうになった丸メガネをかけ直し、「フラムのその楽観的な考え方、ある意味羨ましいよ」と言った。
満更でもなく再び教科書へ目を移そうとすると、今度はふわりと甘い香りが私の鼻を掠める。
「あなたの夏は始まったばかりなのよ? それにカナエくんはこれから訪れる秋を導く重要な担い手なんだから」
鈴を転がすような美しい声を振り返ると、ウェーブのかかった桃色の髪の少女がこちらへやってきた。
彼女は私の幼なじみであり、親友のホノカ。
並外れた美しさと慈愛に溢れた彼女は、周りから『春の女神』と呼ばれるほどに、男女ともにクラスを超えて人気が高い。
ホノカは私と目が合うと、「おはようフラムちゃん」と、宝石のペリドットによく似た萌黄色の瞳を細め、こちらに小さく手を振った。
ほんの一部、彼女のお嬢様ぶりを嫌う人もいるが、私はそうは思わない。
一つ一つの言動に嫌味がなく、誰だってその瞳と目が合えば、ついうっとりと見とれてしまう。私もその一人だ。
私たちが和やかな言葉を交わす中、不意にホノカの後ろから「お前らそんなことを話してる暇があるならさっさと教科書に手をつけろ」と無愛想な言葉が私たちを遮る。
夜の海のような群青色の瞳に、おそろいの暗い髪、色っぽい泣き黒子。いかにも面倒くさそうに開かれた切れ長の目はげんなりとこちらを見下ろしている。
「相変わらずニックは冷たいね。 あんたこそクラスじゃ下から数えられるほど世界史苦手って聞いたけど」
にやにやと笑ってニーズヘッグをからかうと、「前期の中間テストで学年最下位を記録したお前にいわれてもねぇ」と渋い顔を浮かべて席に着いた。
──私たち四人は、一見誰が見ても普通の高校生だ。
学校に行き、勉強をし、苦手な科目のテストを受け、仲の良い友達と他愛もない話をする──
だが私たちに課せられたことはそれだけではない。
「そういえばさっき、中庭のお花たちの元気が無かったから、ペチュニアを咲かせてみたの。この教室にはクレマチスが似合うかしら?」
そう言ってホノカは黒板の前へ近づき、両手を広げ足で円を描くようにまわって見せた。彼女の制服のスカートがふわりとやわらかく揺れる。
すると彼女を中心にして、クレマチスのツタがしゅるしゅると部屋の壁を伸びてていき、みるみる鮮やかなすみれ色の花が咲き誇っていく。
クラスメイトからは口々に「綺麗〜!」「さすがは女神様だ」と感嘆の声が上がった。
──そう。私たち四人は、それぞれが特殊な魔法の力を持っている。
この世界では《
先程のホノカの力は、春の季節を導く《植物の魔法》。 この彼女の力によって毎年植物は色とりどりの美しい花を咲かせてきた。
「もうすぐレーディン先生が来るよ。 確か前に、教室ではむやみに魔力を使っちゃ駄目だって言われた気がする」
カナエが不安そうにホノカに尋ねると、「あら、先生もきっとこのお花を気に入るわ」ところころと笑った。
気弱で頼りなく見えるカナエだが、彼も秋の季節を導く《風の魔法》を授かっている『
普段目立つことが苦手なために、あまり人前では力を披露しないものの、彼が風を吹かせることで木々の種を運んだり、渡り鳥の手助けをしたりと重要な役割を担っている。
「ツタ植物は後処理が大変なんだ。今日の掃除当番は俺なんだからさっさと片付けてくれ。 まあ、昼休みで構わないけど」
何となく隙がなく冷淡なニーズヘッグは、冬の季節を導く《氷の魔法》を持っている。
彼の力は雪を降らせることはもちろん、街の片鱗にある湖を凍らせてスケートリンクを作ってあげたりと、いつも子供達からは引っ張りだこな人気者。
するとちょうど担任のレーディン先生がガラガラとドアを開けて入ってきた。
先生もホノカの花の魔法にだいぶ慣れているのか、何食わぬぬ顔で「今日の花はペチュニアか」と呟いた。
そして残る私の力は、夏を導く《炎の魔法》。
炎の力って、なんだか強そうでかっこいいじゃない。
多くの人は私の力を他人事のようにそう言う。
もちろん私の力は、夏を導くのに無くてはならない力とされている。けれど他の三人に比べて私の魔法は街の自然に危険を及ぼしやすく、またその操作が下手だと言われる、所謂四人の中での『落ちこぼれ』だ。
実際、過去に何度か炎の魔法を用いたせいで家が火事になりかけたり、動物を傷つけそうになったことが多々あった。
私はただ先生や家族が言うような、街の人の役に立ちたいと思っている。大人になったら何かしら必要とされるに違いないと信じて、気付いたら今や高校生。
それでも私は神の血を受け継ぐ後継者として、この力を誇りに思っている。
なぜなら魔法を使えるのは、神の血を受け継いでいるとされる四つの季節の家系のみ。
──ただ一人を除いては。
突然教室のドアが凄い勢いでガコンッとあらぬ音を立てて開いた。
沈黙が教室を満たす。
(相変わらずの派手な登場ね)
レーディン先生は彼を一瞥すると、ため息混じりに眉間に皺を寄せて日誌に何かを書き込んでいく。
「はぁ……ラオネ。 何度遅刻をするなと言ったら分かる、今日を合わせて七十二日目だ」
先生とクラスメイトの視線の先には、ひょろりと背の高い一人の少年が立っている。
そう、彼こそがその唯一の例外なのである。
「いや〜レーディン先生、今日は甘くみてよ〜! 今朝なんて転んだ男の子を癒すのに忙しくってさぁ。怪我を治してあげたのに、わんわん泣き出しちゃってそれで」
「言い訳はいい、さっさと支度をすませて席につきなさい。君はその頭のいい脳みそをもっと別の面で活かすべきだ」
しんと静まり返った周りの皆も、先生に倣うようにして彼に冷めた視線を送る。こそこそと何かを耳打ちする声が雑音のように教室内を満たす。
そんなことを気にも留めず、ラオネは無造作に跳ねた栗色の髪をクシャクシャといじりながら皆の机の間をぬっていく。
この通り彼は皆と比べて少し変わっている。だがラオネの不可思議な所は、その強靭なメンタルだけではない。
彼は唯一、神の血を受け継いでいない神の雫なのだ。
『
しかし彼が持つ力は、私たちのものとはかけ離れた異質なものであった。
岩をも砕ける怪力、怪我を治癒する能力、遠くの音や出来事を見透す能力──と、どれも自然とはかけ離れ、尚且つ『再生』と『破壊』の二つの極面を持つ。
街の人々の間では、「本当の正体は破壊神なのではないか」「美少年に化けた死の天使に違いない」などと、あまり良いとは言えない様々な噂が飛び交っている。
また彼がどこに住み、どんな暮らしをしているのかも謎で、先生でさえラオネの両親を見たことはないという。
それから今では、ラオネの過去については『触れてはいけない』という暗黙のルールとなっている。
加えて普段の学校では、遅刻や居眠りはもちろん、サボり常習犯にも関わらず、テストの成績は学年トップを誇るという、なんとも掴みどころのないやつだ。
ラオネが周囲と融けこめていないことは明らかだが、それでも私たち四人は彼が決して悪い人ではないことを知っている。
ラオネは普段から街の子供たちの相手をよくしてあげていて、破壊にも使えるはずの力を上手く遊びに変えている。また彼は怪我をした動物を自身の力を用いて癒したりと、何を取っても良い奴なのだ。
……まぁ、前に一度、授業中に壁を伝って窓から入ってきた時はさすがにちょっと驚いたけれど。
先生の話がひと段落つくと、ちょうど一限目を告げるチャイムがカランカランと鳴り響いた。
はっとして一瞬忘れていたテストの存在を思い出す。まずいと思って教科書の一ページ目を見るが後の祭り。
もう今回くらい三十点でいいや、と思っていったい何度目だろう。
世界史の授業を担当しているストラ先生が小テストを入れた大きな封筒を抱えて入ってきた。
生徒からは「うわ〜来た」「先生さすがに早すぎでしょー」と小声でブーイングが飛び交う。
ストラ先生の長いブロンドの髪は、歩いてきた時にかいた汗なのか頬にぴたりと張り付いていて、その光景がなんだか滑稽に思えた。
前から順に配られたテスト用紙を受け取り、目の前の用紙を裏にする。
「今回のテストは夏休み前最後となるテストです。次回受けるものは期末テストとなるので、今回の範囲は解けて当然と思って下さい。では、始めてください」
ガサアッと一斉に紙を裏返す音が教室内に共鳴した。
私はわざと周りの人よりもワンテンポ遅れて紙をペランとめくった。
当然ってなんだろう。
今ここに書いてある歴史上の出来事だって、本当にあったことなのだろうか。
実際、教科書に乗っている偉人や出来事を目の当たりにした人は、今この世に一人も存在しない。
今授業を受けているこの学校だって、かつての戦争で焼けた跡地だなんて、いくら教科書を見ても実感が湧かない。
まぁ、これはきっと、単に私の想像力が足りないだけなのかもしれないが。これまでそう自分に言い聞かせてきたものの、他の皆は私と違って言われたことをそのまま素直に理解しているんだろうと思うと、再び自分自身がいかにひねくれで落ちこぼれた存在かを痛覚する。
テストは相変わらず空白ばかりで、手を動かすふりをして問題用紙の隙間に落書きをして時間をつぶす。私が黄金で出来たかっこいい諸刃の剣を持ってカナエやホノカを守るという、ありきたりな拙い絵だ。
誰に見せる訳でもないが、どうしたって他の誰と比べても劣らないような特別な才能が私にもあると心のどこかで信じている。
そんなものは何処にもないことだって、知っている。
「明日は生物のレポート提出日なので、皆さん忘れずに持ってくるように。では、日直のクスノキくんよろしく」
「んあっ? ぜ、全員きりーつ」
七時間目に無事爆睡をかましていたクラスのクスノキが慌てて目を擦りながら号令をかける。先生に目をつけられていたらしい。
「さよならー」と窓際の目立たない席で軽く頭を下げると、机の中の教科書やらノートをポンポンと投げ入れるように鞄につめ、演劇部の活動場所である小講堂へと向かう支度をする。
「じゃ、放課後下駄箱のとこで待ち合わせ。演劇頑張って」
立ち上がったカナエが私の肩をぽんと押す。
六時間目に体育の授業があったせいか、運動が苦手なカナエの顔には疲れがだいぶ滲んでいるように見えた。
「うん、ありがと。そういやカナエ、図書委員のしおり作成忘れてないー?」
教室を出る寸前に声を張り上げて言うと、案の定忘れていたのか「うわやばい、最悪だ!」と頭を抱えているのが最後に見えた。
小講堂の中では、いつも通り衣装係や証明担当の打ち合わせでばたばたと慌ただしく生徒が行き交っていた。荷物を適当に端に寄せ、後輩に軽く挨拶をして衣装を手に取る。
私は中学の時から演劇に憧れていた。中でも幼い頃に家族で舞台を見てから、私は演劇の虜になっていた。
そして何より華やかなドレスを着て舞台のヒロインを演じるのが夢だった。煌びやかなメイクに、背の高い王子様と手を取り合いそして──
だがそれはあくまで、小柄で可愛らしい女の子、に限る話。
私は周りの女子と比べても頭一つ分ほど背が高く、とてもフリルの似合うような女の子とは程遠い。それはこの演劇部に入った時に既に決められていた。
私の役割は『男役』だった。最初聞いた時はショックで辞めてやろうかとも考えたが、意外にも女子からは私の演じる『男性』が大好評だったのだ。
もちろんそれに悪い気はしないし、今では堂々と『女子が求める理想の男性』を追求している。これが中々楽しい。
もしかしたら私は、外見だけでなく内面も女性よりも男性の方に向いているのかもしれない。
部活動を終えた帰り道。ギラギラとした日差しが、私たち五人を容赦なく照りつける。
「ねぇ……なんだか頭が痛い。この暑さのせいかな?」
カナエが頭を抑えながら、もう片方の手をひらひらと動かして風の魔法を生み出す。
「無理すんなって〜。でも確かにこの暑さは異常っしょ。ほら夏の妖精さんなんとしかしてよ〜」
ラオネが気だるげに頭の後ろで腕を組むと、何やらこちらを見やってくる。
ムッとしてラオネを睨み、
「ちょっと、それだと私がこの暑さの原因みたいじゃない。っていうか、『│神の
間髪入れずに指摘すると、ラオネは小さく「まぁ、四季なんてとっくにぶっ壊れ始めてるし今更言ったってねぇ」と、いまいちよく分からないことを呟いた。
ホノカに同意を求めようと彼女の方を振り返ると、その視線の先は健気にラオネをじっと見つめていた。
ホノカは一年ほど前からずっと、ラオネに片思いをしている。
一見この二人のどこにそんな共通点があるのかと聞きたくなるが、案外ホノカとラオネは、お互い自己犠牲の心が強いところがよく似ている。細かな気遣いが出来るだけでなく、なんというか、どこか心を許せるような憎めない雰囲気を持ち合わせている。
ホノカが以前、彼女に告白してきた人全員を容赦なく断ってきたのは、言わずもがなラオネの存在があったからで。
それなのになんだろう、ラオネがとにかく『鈍感の極み』の具現化のような人のために、以前あの優柔不断なホノカが勇気を振り絞って放課後ラオネに「付き合って下さい!」と突然告白を切り出した時は、思わず私を含む他三人の目が点になった。
なんとラオネの返事は「それってさ……」と言った後、「いつも五人で一緒に帰ってるんだし、とっくに僕ら皆付き合ってるでしょ?今更なに」と訳の分からない返しをしたために、もう子奴はダメだと一時期ラオネを除く私たち四人の間で話題となった。
それから結局、二人は友達以上の関係には進まずじまい、という感じだ。
それでも私にとっては、幼なじみで双子のように育ってきた片割れであるホノカをいつ彼にとられてしまうのかと、心のどこかではらはらしながら眺めている所がある。
一途な親友の恋を一番に応援するべきだとは了解している。それなのに、やはりホノカを独占していたいという自分の裏側に気付かされるようで見ていて気分が悪かった。
そんなことを微塵とも知らずに、ケラケラと呑気に笑っているラオネを見ていると、こちらまでなんとも歯痒い気持ちが込み上げる。
「まぁまぁ、ともかく今はこれから手伝う仕事のことを考えろ」
先頭を歩くニーズヘッグが自分の頭上にだけはらはらと雪を散らせた。
私たち五人は放課後こうして、街の人々や動物達を助けるボランティアをしている。
「最初は金曜日だし、いつも通り春の方から向かう?」
ホノカがちょんと人差し指を立てる。
一週間かけてではあるものの、ホノカは四つの地方全てをまわらなくてはならなく、季節の花を咲かせたり、木々の病気を治したりしなければならないために、最も忙しい。
私が任されるのは大抵、火力発電所で火をおこす手伝いや、日照時間の短い冬の地方である『イエンス』へ行って陽の光を届けるくらいのものだけれど。
「だな。『プランタン』は山が多いから、早めに終わらせよう」
家々が並ぶ街路を眺めていると当然、隣を歩いていたカナエが視界からふっと消える。
ドサッ。
鈍い音を立てて、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
風が、まるで時が止まったかのようにぴたりと止む。
「カナエ!?」
「おい!大丈夫か!?」
急いでしゃがみこみ体をゆすってみるが、苦しげに唸るだけでぐったりとしていた。
「う…………」
ふと終礼後のカナエの顔色の悪かったことを思い出す。やはり放課後の時から体調を崩していたに違いない。私がもっと早く気づくべきだった。
(こ、こういう時ってどうすれば……)
まるで潮が引くように辺りの音がしんと静まり返る。
ラオネが彼の額に手を当ててみるが、「熱中症ではなさそう。貧血かな」と言った。
目の前で人が倒れたこと自体が生まれて初めてで、こういう時どうすればいいのかと、思考回路がショートを起こしそうになる。
何か私に出来ること、私に出来ること──
「わ、私カナエの家知ってるよ。 ここからそこまで遠くないと思う。カナエは私が連れていくから、皆は先に街の手伝いに行ってて」
そうだ。私ならカナエの家を知っている。
私がなんとかしてカナエを抱きあげようと彼の肩に腕を回そうとすると、「運ぶのはおいらが手伝う。フラムは案内して」と代わりにラオネが軽々とカナエを持ち上げた。
ニーズヘッグもホノカと目でコンタクトを取ると、「俺とホノカのことは気にしなくていいから、気をつけていけよ」と言って頷いてくれた。
私たち三人は足早に、カナエの家がある秋の地方、『メトポーロン』へと向かった。
ラオネの腕の中、まだカナエの意識はない。
形のない、重く黒ずんだ不安が、じんわりと墨汁のように胸の奥を満たしていく感触がした。
『メトポーロン』ではとんがり屋根のカラフルな家が立ち並んでいる。
「ほらあそこ。あの赤い屋根のところがカナエの家」
レンガ造りの家々の間を抜け、私の指さす方へと急ぐ。 家の前に着くと、すぐさまドアベルをからんと鳴らした。
丁寧に植え揃えられたコスモスが咲き誇る庭には、所々にちんまりとかざぐるまが刺さっている。
カナエの家は、去年ホノカと三人でクリスマスパーティをした時に一度訪ねたことがあった。
ガチャりとドアが開いた。
「あらフラムちゃんどうしたの…ってまぁ!」
出てきたカナエのお母さんがギョッとして目を見開いた。
「帰り道にカナエが倒れたんです。それで……」
「えぇ、えぇ。二人とも中へお入り。ほんと、どうもありがとうねぇ……。大丈夫かしら、カナエは私が二階の部屋で様子を見ることにするわ」
カナエのお母さんは、ラオネからカナエを抱き上げ、私たちは玄関へと招かれた。
家の内側は木製で、入ってすぐの靴箱の上には、かわいらしい小さな風車の飾りが置かれている。
「良かったらお礼にお茶でも飲んでいって。私は二階にいるから、娘のイサベラがお茶を入れてくれるわ」
部屋の奥からやってきたカナエの妹、イサベラが「こっちこっち」とリビングへ案内してくれた。
目や髪の色はカナエとよく似ているものの、なんだかイサベラの方がずっとカナエよりも年上に見える。
どこか見た目が中性的なカナエに比べて、妹のほうは体操選手のようにすらりと背が高く、ショートヘアのボブがよく似合っている。
「イサベラちゃん久しぶり。わざわざありがとう」
私が彼女に笑顔を向けると、イサベラは照れくさそうにぺこりと頭を下げ、紅茶をいれにキッチンへと戻って行った。
「へ〜、二人知り合いだったんだ。カナエとはずいぶん前から仲良しな感じなの?」
ラオネはぐるりと部屋を見渡しながらソファに腰かける。
「高校に入ったときくらいからかな。高一の時はクラスも違ったし特に関わりとかは無かったんだけど、図書館で本を探していた時に色々と手伝ってくれて。それがきっかけで今みたいに話すようになったかな。でもカナエって華奢だし、もしかしたら前から体弱かったのかも」
彼の横に腰掛けると、自分から聞いてきたくせにラオネは「ふーん」といかにも興味の無さそうな返事をした。
思わずザラザラとした気持ちが込み上げる。
「なんなの、興味無いわけ? ラオネは人を癒せるんでしょ? なんで倒れたカナエのことは癒さなかったのさ」
すると、ラオネは反抗期の幼子のように口を尖らせて応えた。
「おいらが癒せるのは、あくまで『外傷』さ。だからいくら倒れた人とかを癒したくても気を失った人や、傷ついたガラスの心とかはおいらの専門外なの」
それに、と彼は付け加える。
「今回カナエが倒れたのはおそらく、彼の不調からきたものじゃないよ。もっと、この国全体で起こってることさ」
「どういうこと?」
彼は大袈裟に周りを見渡すと、私の耳元で声をひそめて、
「一週間前、放課後いつもみたいに街を手伝った帰りにニーズヘッグが相談してきたんだよ。『前みたいに自身の冬の力をコントロール出来ない』ってさ。水を雪に転換させるのが今じゃ困難らしい。今日みたいな異常な暑さだって変だ。それに……」
「それに?」
「さっきカナエが倒れた時、一瞬風がぴたりとやんだの、覚えてるか? つまりそういうことだよ」
つまり何よ、という顔でラオネを見ると、これまで一度も見たことのない、ひどく神妙な顔をしてこたえた。
「四季を守っていたはずの『
さらりと恐ろしいことを言われた気がするが、真剣な彼の顔を見るに、ラオネの言うことはいつもより妙にリアリティを感じさせた。
もし本当にそうだったらどうしよう。
つまり今の私たち四人が、この国を終わりへ導くことも、守ることも出来るというのだろうか。
「なんとかしなくちゃ……」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
とはいえ私たちは弱い。言ってもまだ高校生だ。学校の勉強でさえ精一杯な私たちが、一つの島国を動かすことなんて考えたことも無い。
しばしの沈黙。
ラオネの方をこっそり見ると、相変わらず彼はぼーっと何処か遠くを見つめていた。
酸いも甘いも噛み分けたような顔つきのラオネは、どこか人の姿をした面妖のように思えてくる。
何かしら話を切り出そうと必死に頭をフル回転させていると、助け舟を出すかのように、イサベラがトレイに二つの可愛らしいティーカップを乗せて運んできてくれた。
「はいこれ。ゆっくりしていって下さい。私はこれで」
お礼を言いカップを一つ受け取る。私の好きなアールグレイの紅茶だ。
「そういえば、ラオネも力が弱まっているのを感じているの?」
ふと疑問に思ったことだった。なぜならラオネは四季の力を授かってるわけではないからだ。
「おいらの力の影響は今のとこ特にないよ。今朝もピンピンしてるし」
そう言ってラオネは、いまいち筋肉の付いていない細い腕で力こぶをつくる真似をした。
よく見ると、彼の腕には所々に採血の跡のような傷が散らばっている。
そんな彼を見ていると、『彼の過去に触れてはいけない』と分かりつつ尋ねずにはいられなかった。
「そもそもさ、その、なんであんたは神の血を受け継いでいないのにそんな力がいくつも使えるわけ? 本当、ラオネあんたって変わってる」
紅茶をすすりながらダメ元で聞いてみる。彼は誰に何度このことを尋ねられようと、決してその先を話すことが無いことを知っている。
「あはは、なんでだと思う?」
ほら。こうやっていつも適当に笑っては誤魔化す。質問を質問で返してくるのだ。
やっぱり、と諦めて前を向いた時、
「まぁ、強いて言うなら、おいらは『欠陥品』だからね」
最後に呟かれた言葉。
初めて彼から聞いた、答えの続きだった。
平静を装って「そう」と一言答えておく。
その時の私には、ラオネが何を言いたかったのかを理解することは出来なかった。
日の沈みかけた頃、「ただいまー」と玄関を開けると、母は手作りのシナモンドーナツを頬張りながら、迫るような顔つきでお昼頃に海岸で起こったらしい地震のニュース番組を見ていた。
私の母は『海を守る力』を持つ『
私と同じく夏の『
その神秘的な能力とスタイルの良さから昔はよくモテたらしく、少しの間地域のアイドルをしていた事もあるという。母自身は恥ずかしいのか、その事をあまり自分から私には話してくれないけれど、私の父は事ある毎に母の昔話をしたがる。
「海をバックに歌う彼女は、さながら海の女神のようで──」「夏を彩る宝石のような美しさは──」と毎度大袈裟に私に向かって嬉しそうに語る。
確かに父の言う通り、母は今でも周りと比べて綺麗な方だと思う。
童話に出てくるマーメイドのようなサンゴによく似た鮮やかな髪色に、深みのある臙脂色のくりくりとした大きな瞳、絵筆で描いたように濃く長い睫毛。
しかし私にとっては産まれた時から何度も、美しく華やかな母と比べられる自分が恥ずかしくてたまらなかった。
私の髪は父の方に似てマンゴーのような色合いだし、瞳の色は母譲りのはずなのにハツカネズミのように真っ赤で吸血鬼のようで。
せめて母のような、誰にも危害を加えることの無いような力が欲しかった。切実に。
それでも母は、一度として私の力を否定したことは無い。それどころか炎を生み出す私をいつも嬉しそうに抱きしめてくれる。それが子供の私には不思議でならなかった。私には母の気持ちが理解できない。
「あらおかえり。今日は遅かったわね。演劇部忙しそう?」
母はテレビのリモコンを片手に玄関の私を振り返る。
「それが今日さ、帰りにカナエが倒れちゃって。彼の家まで友達と送ったの」
そう言うと母は、驚いた衝撃でもう片方の手に持っていたドーナツを落としかけると、「カナエくんって、あのカナエくん? 丸メガネの」と言った。
「そう。心配だから後でメールしてみる」
私が二階の自分の部屋に鞄を持っていこうとすると、母が「待って」と私を呼び止めた。
「ね、ねぇフラム、実はね、ちょっとあなたに話したいことがあるの」
一瞬私の成績について何か言われるのではと身構えたが、表情から見るにどうやらそういうことではないらしい。
私が部屋着に着替えた後、母はテーブルを挟んだ向かいに腰掛けると堅苦しい表情で言いにくそうに話を切り出した。
「もしかしたら、フラムも気づいているかもしれないけれど、ほら、力のことで……」
「消えかかっている、って話?」
私の言葉に母は丸い瞳をさらにまんまるにして「そう、その話よ」と頷いた。
「今日のお昼に小さな地震があってね。それが海の近くだったから波の様子を見てこようと急いで近くの海まで走ったの。そしたら私の意思とは真逆の、波が荒だって言うことを聞かなくって。サーファーの人達は皆困っていたし、危うく私まで波に飲み込まれるところだったわ」
いつも完璧に力を操作する母が波一つ従えられないだなんて考えられなかった。先程あれだけ真面目にニュースを見ていたのはおそらくこのことだろう。
「カナエくんは大丈夫なのかしら。やっぱりここ最近なんだかおかしいわ。フラム、あなたも気をつけて。何か少しでも異変があったらすぐ私に教えてちょうだい」
いつになく母が心配そうに眉をひそめ、私の手を両手で包んだ。
「分かった」
私が頷くと、母はいつも通りの表情に戻って、優しく微笑んでくれた。
「でもね、安心して。私にとってはフラムが力を持っていようと無かろうと、何も変わらないわ。だから、大丈夫よ」
母の言う「大丈夫」とは何のことか。この国が崩壊しようもんなら大丈夫だなんて笑っていられない。 力が無くなって困るのは母も同じことだ。
それに『フラム』という名前だって炎という意味の『フレイム』から付けられたと父が言っていた。私にとって炎の力というのは危険であろうと無かろうと、この世に性を受けてから切っても切り離せないもう一つの自分に過ぎない。
「そうだね」と笑って誤魔化し、足早に自分の部屋へ行きドアを閉めると、鞄からスマホを取り出して勉強机の椅子に座った。
机の上には、昔から大好きなユニコーンの小さなぬいぐるみや、やたらキラキラとした表紙のシールブックが無造作に飾られている。
他の人にとっては、単に散らかった幼稚で汚い机と思うに違いないが、このくらいのごちゃごちゃしたくらいが私の瞳に最も美しく映る。
不規則に重なった分厚さの違う本、てっぺんに無駄に重い飾りの付いたペン、シールを剥がした跡の残る机の表面──そのどれもが完璧な美しさを演出していた。
美しさの定義は人によって違うが、前にカナエは私の一番お気に入りの、プラスチックで出来た宝石が持ち手に付いたペンを、「そういう文房具って、なんだか夢があっていいよね」と言って肯定してくれた。
私にとってカナエは唯一の理解者だ。
いつだってカナエは私の趣味や考え方を楽しそうに聞いてくれて、否定することなどは一度として無い。それどころかカナエも、男子とはいえ見かけによらずキラキラとした可愛らしいものが好きらしい。今度の彼の誕生日にはこれに近いペンをプレゼントしようか。
「あ、そうじゃんメール」
ふと一瞬忘れていた放課後のことを思い出す。
あの後無事に意識を取り戻しただろうか。
やはり病院に連れていくべきだっただろうか。
頭の中に色々な考えが浮かぶが、ひとまずそれは左に置き、ゆっくりと悩んだ末に文字を打ち込んでいく。
『体調、どう?』
結局送ったのは、その簡潔な一言のみ。
それから一階で母と夕食のビスクを食べ、お風呂にも入ったがカナエからの返信はない。
死んじゃったらどうしよう、などと急に焦ったものの、いやいやそれは流石に、と冷静を取り戻すこと軽く五回。
ベッドに入っても尚、枕元に置いたスマホが気になって何度も何度も手に取る。
(気を失って倒れたんだし、流石に今日は来ないか)
そう自分に言い聞かせ、ようやく身体に布団をかけた時だった。
あれだけ静かだったスマホがピコンと一つ、音を立てた。
慌ててスマホの電源をつけると、一件のカナエからのメールがあった。
『メールありがとう。今は目も覚めて落ち着いています。でも明日は念の為学校休むかも。いつも迷惑ばかりかけて、ごめんね』
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