引っ越し荷物は片付かない

海堂 岬

第1話

「あら、こんなものがでてきたわ」

また、母親が手を止めた。


「母さん。今度は何?」

私は実家に何をしに来ているのか。何度目かになる問いを、心の中に飲み込んだ。さっき口にして痛い目にあったのだ。人は学習する。


「ほら、あんた達の小さい頃の日記」

私は母の言葉に白目を向いた。

「母さん、そんなもの、とってあったの」

「え、まじ」

隣の部屋の押入れに頭を突っ込んでいた弟が、慌てて這い出てきた。

「あったのよ。ほら。捨てるはずないから、どこに行ったかと思っていたけど、ここに仕舞ってたのね」


 母が手にしていたのは、地味なノートだった。子供が使うようなものではない。私は、子供の頃は日記を書いていた。それが出てきたのではないらしい。よかった。焦った。


「それ?」

弟も同じことを思ったのだろう。拍子抜けして突っ立っている。


「そう。ほら」

母はノートを広げ、日付を指差した。見慣れた母の字で、二十年近く前の日付が書かれていた。


「みかこが昼寝からおきてくるなり、夢の内容を話しだした。怪獣がきたの、お空を飛んだのよ。ちーちゃんがね、ハイハイで。次々と話がとんで書くのがおいつかない。内容もわからない。楽しかったらしい。ひとしきり喋って、ずり這いするちーちゃんを、積み木を両手に持ったまま、四つん這いで追いかけている。積み木で遊ぶか、四つん這いで遊ぶか、どちらかにすればいいのに」


 日記を音読した母は、ノートを抱き締めた。

「懐かしいわねぇ」

母は微笑み、私と弟は顔を見合わせた。一切全く何も覚えていない。


 私は、背が伸びて、私を追い越してしまった弟も、小さな頃があったのだ。

「ちーちゃん」

私にとっては思いでたっぷりの懐かしい呼び方なのに、弟は顔をしかめた。

「真理子の前では言うなよ」

幼い頃の愛称が、どうやら恥ずかしいらしい。真理子さんは、私の義理の妹だ。やっと私に、なかなか可愛い妹ができた。むさ苦しくなってしまった弟だが、女性を見る目は悪くなかった。姉の私が厳しく育ててやった結果である。


 真理子さんの、男の趣味はわからない。なぜ、弟の強烈に似合わない髭面を許すのか。私は髭は、剃るべきだと思う。まぁ、もう私の言うことを聞く弟ではない。良いことだ。妻の言うことをききなさい。


「真理子さんの前には、言わないわよ、ちー・ちゃ・ん」

「もー、姉ちゃん」

どこか甘えた口調の弟に私は笑った。


「ほら、あんたたち、手が止まっているわよ」

私達が手をとめるきっかけとなった、母の言葉に、私と弟は顔を見合わせた。私達の手を止めたのは、誰だろうか。


「懐かしいわねぇ」

私達の手を止めた犯人の手は動いている。ノートをめくっているだけだ。引っ越しを前に片付け始めたはずの部屋は、全く何も片付いていない。


「この分じゃ、いつ終わるやら。早めに始めてよかったね。姉さん」

そういえば、こいつは、気がついたら、弟は、勝手に私の呼び方を変えていた。小さい頃は、姉ちゃん、姉ちゃんと、ついてきたのに。

「そうね。ちーちゃん」

「姉ちゃん!」

とっさに幼いころの呼び方に戻った弟に私は満足する。あとで、母には日記を見せてもらおう。私達の覚えていない、私達の小さな頃の話が、書いてあるのだろう。


「今日もまた喧嘩だ。二人は仲が良いのか悪いのかわからない」

母がまた、日記を読み上げ始めた。


「もう、母さん」

「母さんの引っ越しなのに」

私と弟の言葉は止まった。母はノートを片手に、こちらをみてニヤニヤ笑っている。


「今日の日記に書く内容が決まったわ」

「もう、母さん」

 私と弟の声が綺麗に揃った。


 父が亡くなって三年経った。母一人にこの家は広すぎる。引っ越すなら元気なうちに引っ越して、新しい生活に慣れたほうが良い。そう家族で相談して決めた引っ越しだ。


 父が病気になったとき、母は日記を書かなくなった。書けなくなった。

「孫に見せていい内容にしといてよ」

元ちーちゃんが、昔可愛かった弟が、母に文句をつけている。


 母がまた、日記を書く気になってくれてよかった。

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引っ越し荷物は片付かない 海堂 岬 @KaidoMisaki

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