むかしのはなし
直木美久
第1話
5月1日
環奈の幼稚園が落ち着いたところで、パートの募集が目に入った。幼稚園の裏にある小さな弁当屋だ。中を軽く覗くとおばあさんがひとりカウンターに座っていた。優しそうな人だった。
ここならお迎えギリギリまで働ける。
電話をしたら明日面接に来てくださいと言われた。のんびりした優しそうな声だった。
5月3日
面接も受かり、早速今日から仕事。
裏に並んだお惣菜をお弁当箱に詰めてレジを打つ。混む時間でも一人でこなせる程度だ。
帰り、残ったお惣菜も少し分けてもらった。いい仕事が見つかってよかった。
6月10日
雨ばかり。環奈が風邪をひいたので、パートはお休み。隆さんはうつされたら大変と実家。熱を出した環奈は可哀想だけど、少し気が楽。
なんて。ちゃんと日記は管理しとかないとな。
6月15日
隆さんのご機嫌が悪くて、引っ叩かれて左頬が腫れたから、今日はマスク。
「風邪気味」のお弁当の売り子さんて。でも「顔面腫らした」よりはマシかな?
オーナー武田さんは私にゆず茶を出してくれた。カウンターでひっそり、顔を隠しながら飲む。美味しくて、涙が出た。
7月30日
週3日は預かり保育にお願いしてパート。ごめんね、環奈。
私が子供の頃は夏休みはずっとお母さんと一緒だった。両親二人とも亡くしてもう5年。帰る場所がないって、辛い。
弁当屋はずいぶん慣れた。常連さんも覚えた。場所柄か、お年寄りが多い。半分はお喋り目的なんだろう。店内は狭いから二人も入ればスペースが無くなる。
他にはサラリーマンの常連が3人。あとは営業マンや、大工さん。カツ弁当が人気。
私のお気に入りは筑前煮。環奈は煮かぼちゃ。
隆さんは、お惣菜が増えたことに怒ってる。殆ど私の手料理しか食べてくれないから、夕飯作りが大変。2日連続で出したものも食べないし、一人分作るのって面倒。お惣菜も食べてくれー!
8月20日
身体中があざだらけで、最近は環奈は一人でお風呂。服を着たまま洗ってやるのも大変。夏でまだよかった。
環奈の長風呂をただ見てるだけなのもストレス。一緒に入れれば時短になるのに。
最近、すごくイライラする。
8月31日
思わず環奈を叩いた。泣き声が耳から離れない。こんなお母さんで、ごめん。隆さんは「女子供は叩いて教育するものだ」と言う。
そんなことない。そんなの間違ってる。
でも、段々それに私は影響されてはいないか。私は頭がおかしくなってきてるんじゃないだろうか。殴られるたび、一つずつ、暴力に対する抵抗が薄れていく。環奈、お母さんどうしよう。
9月3日
鼻の骨が折れた。病院ではさりげなくDVシェルターのチラシを渡される。転んだと言ったのに、やっぱりわかるものなんだろう。
逃げて、その後どうやって生きるのか。想像つかない。怖い。
9月10日
パート帰り、お迎えまで1時間あった。だから少し歩こうと思った。気づいたら駅前にいて、辺りは暗くて、何度も幼稚園から電話が鳴った。取らないといけないことはわかっていた。でも、できなかった。いつも通りの1日だった。私の右手には武田さんが持たせてくれたお惣菜のビニール。でも、持って帰ったらまた怒られるのかな。
環奈ごめんね、と思いながら、どうしてか切符を買っていた。駅のホームに立ち、ただどんどん過ぎていく電車を見てた。何台見送ったか覚えてない。
「あの」と肩をつかまれた。見上げたら常連のサラリーマンの内の一人だった。
真剣な表情に、自分の意識が戻ってくるのを感じた。
大丈夫ですか、と彼が言う。肩に置かれた手が、熱いと感じた。大きな手は怖い。私はその場に泣き崩れた。
ベンチで座る。携帯が激しく鳴っていた。
「幼稚園…お子さんですか?」
と聞かれ、少し落ち着いた私は申し訳なくて恥ずかしくて、それでも小さく頷いた。
彼は私の鳴り続ける電話に勝手に出て、私が今体調を崩して駅のホームで休んでいると言った。
「やめて」と私は彼の手から携帯をむしり取る。
「もう大丈夫ですから、すぐに行きます」
夫に連絡が行ったらどうしよう。
見ると時間は7時だった。良かった、延長時間ギリギリだ。閉園前だから夫にまだ電話はいってないだろう。
「余計なことして、すみません。でも少し休まれた方が」
その言葉を遮って私は、
「あなたに何がわかるっていうんですか!?」
と怒鳴ってしまった。
お迎えにいく。環奈は泣いていた。お惣菜しか出ない夕飯を見て、夫は外に食べに行った。
9月11日
今日あったことは忘れたくないから、きちんと全部書いておこうと思う。
彼はいつも通りやってきた。私は俯いたまま謝ると、彼は、
「仕事終わられる頃店の前で待ってます」
と言った。
すぐに別のお客さんが来て、彼は逃げるように行ってしまったので、私は途方に暮れた。
私にとってここは安全な世界だった。武田さんは優しいし、お惣菜は美味しいし、実家にいるみたいに、穏やかな空気でいつも包まれていた。
脅されるんだろうか、あの人に。
目の前がぐるぐる回って、変な汗がいっぱい出た。
でも私はやっぱり逃げる場所もなくて、絶望的な気分で仕事を終えた。店の前の通りに彼はいた。
申し訳なさそうに謝り、どこか公園でも行こうと誘われる。私は身を強ばらせて、彼の後をついて行った。
私だけベンチに座らせ、買ってあったらしいコーヒーの缶をポケットから出して渡してくれた。
辺りはまだ明るく、小学生が走り回っていた。誰か知り合いに見られたらどうしようと、そればかり考えていた。
喉がカラカラだったけど、コーヒーを開ける気にはなれなかった。
「怖がらせてしまってるみたいで、すみません」
「いえ」
「ずっと、気になってたんです。その、変な意味ではなく。大丈夫かと。昨日ホームでお見かけして、様子がおかしかったので、しばらく見てました。通過する急行電車のアナウンスで、あなたがフラフラと前に出て行ったので、思わず肩を掴んでしまいました。ごめんなさい」
「………いえ」
「無理に何か聞き出す気はありません。話してくれればもちろん嬉しいですが、無理してほしくないです。でも、いつでも話を聞くくらいはできる人間がここにいるってことは、覚えておいてください」
真っ直ぐな目で、彼はそう言った。そして周りをチラリと見回してから、私にメモを手渡す。手渡す時に一歩近づき、渡したらまたすぐ離れた。その距離感は、私を安心させた。
「何かあったらいつでも電話してください」
頭を軽く下げる彼を、私はただ見ていた。
いつも、カウンター越しにチラリと顔を見るだけで、こんなにじっくり「見る」という行為をしたのは初めてだった。
眉毛がくっきり吊り上がっていて、しかし目は細く、垂れていた。隆さんより少し背は高いくらいだろう、中肉中背。スーツだけど、いつもネクタイはしていない。水色のシャツは少し皺があったし、スーツもくたびれていて、もう少し年齢が上のようにも感じられたが、多分私とあまり変わらないだろう。
「じゃぁ、また弁当買いに行きます」
彼はうつむきがちにその場を離れようとした。
「あの」
気付いたら、声を掛けていた。
「ありがとうございます」
と言った瞬間何かが壊れた。涙が噴き出してきた。泣き声はあげまいと、私は必死で喉を締め、唇を震わせた。彼は傷ついたような顔をして、私を見ていた。顔を隠したかったが、ちょっとでも動いたら嗚咽がもれると思った。昨日のように、声を上げて泣いてしまう。だから私は顔を上げたまま、涙と鼻水を、しばらく滝のように流すしかなかった。
「ごめんなさい、もう大丈夫。行ってください」
ようやく動ける程度に落ち着き、鞄からハンカチを漁ろうとした私に、彼はすかさずティッシュを渡してくれた。長い時間が経った気がしたが、ほんの数十秒かもしれない。
私は手渡された電話番号を鞄にしまい、立ち上がる。
「また、ご来店お待ちしてます」
そうして別れた。私は、彼の名前も知らない。
9月13日
彼は伊藤さんと言うらしい、今日来た時に教えてくれた。私も初めて「菅野です」と名乗った。なんだか変な感じだ。
9月24日
伊藤さんは最近昼の週3回に加え、夕方閉店前にも一度来るようになった。一人暮らしだから夕飯も買うのが楽だと言う。
10月29日
長話をすることはないけれど、伊藤さんとは会うたびに二言三言話すようになり、それだけでも相手のことを知ることができるとわかった。もう少し常連さんには声を掛けようかと思うようになった。最近、調子がいい。家の中は相変わらずだけど、私の世界はそこだけじゃないと思う。
3月10日
伊藤さんは、北海道に転勤になった。先月その話を聞いていたけど、改めて、本当にもう会えないんだと思うと胸が苦しかった。
「これが最後の買い物です」
そう言って、伊藤さんはしばらく黙って俯いた。
寂しくなります。その一言を、私はただ口の中に溜めるだけだった。言うべき言葉が、言っていい言葉が、何一つ見つからない。
伊藤さんは顔を上げ、
「お元気で」
と手を差し出した。
私は少し背伸びして、カウンター越しに握手をした。
これでいい。
私たちは弁当屋の店員と客で、ほんの少し挨拶するだけの関係だ。でもどうしてこんなに胸が潰れそうに苦しいんだろう。
伊藤さんが去った後、私は鞄を抱き抱えて、トイレで泣いた。鞄の中には、一度もかけることがなかった電話番号が、入っている。
遺品整理をしていたら、その日記を見つけた。
実父の記憶は微かにあるが、その程度のものだ。私にとっての家族は母だけ。
ドラマなら私は伊藤環奈になっているところだろうが、残念ながらそうではない。でも、わかる。お母さんなんてやってたら、そんな暇はないのだ。
日記には伊藤さんの電話番号が挟まれたままだ。
「おかーさん。それなーに?」
娘のユキが舌ったらずな声でそう聞いた。
「おばあちゃんの思い出ボックス整理してたの」
ナスときゅうりに割り箸を刺して、ユキが遊んでいる。
むかしのはなし 直木美久 @ca-auth-kimi
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