第2話 遠い蒼空

   Scene#1 防府北基地・体育館


 四月第一週。今期航空学生の入隊式が挙行された。

 式典会場である体育館に移動する前、支給されて何日か経った制服に袖を通した学生たちは、やや緊張の面持ちで、服装や靴の磨き具合を点検していた。星華たちも、女子用の居室で相互に服装を点検して、リボンタイプのネクタイや、制服のほこりの有無に注意を払っていた。

 居室を出ると、廊下の壁に装着してある姿見の前で、星華は入隊式に備えて習った不動の姿勢、そして敬礼の動作を取った。かつて部活で練習したCAの基本姿勢では、両手を自然と前に組み、つま先は拳一つ分だった。表情は常に笑顔でなければならなかった。だが、今は大きく違う。

 ――踵を合わせ、両の脚に隙間ができないようにして、右手は肘から指先まで一直線。

 姿見に写された自らのダークブルーの制服姿は、かつて夢見たCAのそれとは違ったが、こちらはこちらで、十代女子の美的感覚に応えるものだった。

 ――

「国歌斉唱。ご来場の皆様は、ご起立下さい」

 司会のアナウンスが終わると、西部航空音楽隊長が、逆ハの字に両手を振り上げた。それが振り下ろされると同時に、整列した音楽隊の厳粛な演奏が始まり、国歌君が代の歌詞が体育館のなかに満ちる。

「団司令式辞」

 第12飛行教育団司令・神崎鋼二郎一佐が演台の位置に進み、式辞を懐から取り出す。

「――航空自衛隊の主戦闘力たる戦闘機三百六十機余りを初め、固定翼・回転翼航空機合計約四百九十機に搭乗する操縦士の実に七十パーセントは、航空学生出身者です。即ち、ここに集った諸君こそは、二十一世紀の日本の防空の主役となる身です。我が国を巡る安全保障環境が増々厳しさを増すなか、自らの意志でこのような重い責務を担う地位を志願した諸君は、まさしく日本国の至宝であって、敢えて険しい道を選んだ諸君の決意にまず、深甚なる敬意を表するものであります。……」

 式典は進んで、最も重要なパートに差し掛かった。

「入隊学生気を付け」

「気を付け!」

 代表学生の号令が響く。七十五人の学生が起立する足音で、体育館内は大きく揺れた。これから、航空学生の身分を得るための命令が示されるのである。

「航空学生任命。――航空幕僚副長、中央の位置へ」

 背後の壁に、大きな日の丸が掲げられている。儀礼肩章を両肩に装着した空自ナンバーツーの将官が、壇上の演台の位置に立った。

「代表学生前へ」

 選抜試験で首位の男子学生が、列中から学生の中央前へと進む。もう少し玲子の成績がよければ、この役割は彼女のものだったはずである。二位だった令子は、その隣に並んだ。

「敬礼!」

 学生全員が、壇上に向けて挙手の礼をする。航空教育集団司令官が答礼した。

「命課」

 航空幕僚副長が、白手袋をはめた両手で開いた命令書を、ゆっくりと読み上げる。

「命課。陸士長飛田省吾、空士長に任命する。藤堂玲子以下七十四名、二等空士に任命する。航空学生を命ずる」

 命令書を読み上げた航空幕僚副長が、それを演台の上に置いた。

「申告」

「敬礼! 直れ。陸士長飛田省吾、空士長に任命され、航空学生課程の履修を命ぜられました」

「藤堂玲子以下七十四名、二等空士に任命され、航空学生課程の履修を命ぜられました」

 この瞬間、星華を含む七十五名の若者が航空学生となった。星華は、敬礼の瞬間、両膝のうしろを意識して伸ばした。

 ――夢が、いよいよ始まった。わたしの夢が。

 受験を決意してから、問題集と首っ引きになった日々。志願票を提出に行った日。そして、静浜基地で初めて操縦桿スティックを握った日。――初めは暗闇のなかで、遠くに灯る灯を求めて這進むようだった。一次試験に合格し、二次試験に合格し、少しずつ灯が大きくなっていった。そして今、夢は確かな光の筋となって、自分に向けて差し込んで来る。

 続いて、宣誓が行われる。代表学生が、茶色のファイルカバーに挟まれた宣誓文を読み上げた。

「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」

 儀式は、航空学生の歌の斉唱、そして司会の閉式の辞で終わりとなった。

 入隊式に引き続き、飛行場上空で卒業生の操縦する各種航空機が展示飛行を行った。アナウンスは、各航空機の編隊のパイロットの名と部隊を告げる。

 初等練習機T―7、中等練習機T―4、支援戦闘機F―2、輸送機C―1、救難ヘリUH―60J……最後が、F―15J戦闘機だった。

「第305飛行隊、指揮官は航空学生×期、一等空尉黒江康雄、石川県出身です」

 二機のイーグルが、爆音を轟かせながら、基地上空に進入し、地上の観客の前で勇姿を通過させ、そして緩く旋回して翼端からベーパーを引きながら飛び去ってゆく。学生たちは、両目を輝かせ、機体を指さしながら歓声を挙げた。彼らはまだ知らないことだが、たった二機であろうと、フォーメーションを維持して飛行するのは、高い技量を必要とするのだ。

 紅白に飾られた観閲台の上で各編隊に敬礼を送りながら、後輩たちの姿に神崎一佐は、「あの日は、オレもああだったな」という感慨を噛み締めている。やがて、目の前の若者たちも、そのスキルを身に付ける試練に直面し、そして乗り越え、あの蒼空に飛翔する日が来るはずである。

――オレはその時には既にここにいないが、卵からヒヨコには孵してやる。オレの最後の仕事として。

両眼を輝かせていたのは、星華、玲子そしてケイも同じだった。

星華は、見学に行った百里基地で初めてF―15Jのテイクオフを目の当たりにした瞬間を思い返しながら、誓っていた。

「六年後、わたしもパイロットになって、あの空に」

 玲子、そしてケイも同様な思いを抱いていた。

 ――

 記念会食のテーブルに着くと、学生と父兄に基幹隊員が挨拶して回っていた。

「天辺学生のお母さんですか。ここの担任だと思って頂いて結構ですが、区隊長の加藤です」

 白い儀礼肩章を濃紺の第一種制服に装着した加藤二尉は、星華とその母のところにも来た。

「天辺星華の母でございます。娘を、どうかよろしくお願い致します」

 星華の隣で、ベージュ色のスーツ姿の母も挨拶に応じた。

「女子学生の指導には、こちらの内務班長、水野二曹が当たります。航空自衛隊の全女性自衛官の中から、特に選抜された優秀な者です。どうか、ご安心ください」

 加藤に伴われた亜美が、一礼した。まだ、この時点では「魔女」の本性を現していない。

 目の前に並んだ会食のメニューは、鯛の尾頭付きを初め、祝いの場の食事としては世間一般的なものだった。間もなく、会食が始まった。

「はい、いいですねー。では行きまーす」

 入隊式に付随する記念会食が終わってから、午後の課業が始まるまでの間、自由時間が与えられている。星華、玲子、そしてケイの三名の女子学生は、神崎一佐の予想したとおり、マスコミ各社の記者たちに包囲されていた。

「なぜ、パイロットになろうと思ったのですか?」

「訓練には、着いていけそうですか?」

「将来、どんな飛行機に乗りたいですか?」

 等々、多くは予め予想できた質問だった。最後の質問に、玲子は明確に、

「戦闘機に乗りたいです」

 という答えを返した。ケイは、

「輸送機です。国際貢献とか、平時に一番活躍するのは輸送機だから」

 と、独特な主張を述べた。

「戦闘機に乗ってみたいと思いますけど、でも――まだ分かりません」

 照れを隠しながら、星華は最後に答えた。

 あらかた質問やTVカメラの録画が終わった後で、週刊誌の腕章をつけたカメラマンが三人に撮影を求めてきた。

「どうも、週刊文秋のカメラマン、平島と申します。ちょっと、お三方に撮影をお願いします」

 手にしたデジタル一眼レフカメラの他、何台もカメラを首からぶら下げている。最初はなにげなく応じた星華たちだったが、カメラマンの平島は直ぐに三人をペースに乗せてしまった。最初は三人まとめて、次は一人一人、バックに展示用の飛行機やら記念碑やらを入れた構図でポーズを求め、シャッターを切る。星華やケイだけでなく、玲子までまんざらでもない表情で、何枚ものカットに収まった。

「はい、それじゃ、ありがとうございましたー。五月になったら、うちの雑誌のグラビアに載るので、お楽しみにー」

 マスコミへのサービスタイムは終わった。駅へ向かう父兄を乗せたバスが出る時刻が来た。

「じゃあ、お母さん。心配しないで」

 真新しい制服に身を包んだ娘の別れの言葉に、母は少しだけだが心配の気持ちを残しているようだった。

「――ええ、そうね。頑張りなさい」

「大丈夫。友達もできたし、一人じゃないから」

 ケイの両親は、来なかった。聞いたところでは、現在アメリカにいるという。玲子も、母親だけが来ていた。この母にして、この娘ありと思わせるような凛とした感じの女性だった。心配している素振りは見られない。学生たちが敬礼で見送るなか、バスは発車した。

 その一時間後。洗礼とも呼ぶべき儀式が始まる。

 ――もう、お客さんは終わりだぞ。

 という宣告、「対面式」である。

 隊舎前に、新入の後任期学生全員が整列を命ぜられた。服装は紺色の冬制服ではなく、緑色の作業服に作業帽、そして編上靴である。

「いいか、お前ら!」

 既に一年間を航空学生として消化し、空士長の階級章を装着した先任期学生が、横隊に整列した新入後任期学生相手に叫ぶ、というより怒鳴る。

「お前たちの階級は二士だが、ただの二士じゃない! 航空学生だ! 六年後には三等空尉で、幹部自衛官になるんだ。妥協は絶対許されんぞ、分かっとんか!」

 団司令が聞いたら、「真に結構だ」といいそうな台詞だった。

「はい!」

 声を合わせて、新入学生が答える。星華も、思い切り声を出した(積りだった)。

「声が小せえー!」

「はいぃっ!」

 女子高でこんな受け答えを求められた経験は、もちろんない。ここまでで、星華は既に縮み上がってしまった。――その他の同期も、似たり寄ったりだったが。続いて隊舎内に移動し、自己紹介の時間が待っていた。一般の学校ならばクラスに相当する区隊の教場に移動を命ぜられ、整列させられた。

「今から、相互に自己紹介を実施する。俺たちの期がまずやるから、新入学生は同じ要領でやってみろ」

 と告げられる。そして、次に新入学生たちの耳に入って来たのが、これまで聞いたことのないような大声だった。真似しろといわれても、頭のなかは真っ白になってしまって、足がガクガクしてくる。先任期学生の自己紹介はあっという間に終わり、後任期学生の番になった。

 先任期は、列の最右翼最前列にいた新入学生に狙いを定め、「お前からやって見せろ」と命じた。

「はい、仲村学生!」

 と答えたが、まずそれに対して先任期は素早く彼の周囲を取り巻き、

「なんだ、そりゃ、その対応要領はぁー!」

「脇が甘いんだ、脇が!」

「なんじゃ! その声はぁー!」

 とたちまち集中砲火を浴びる始末だった。

 一人一人新入学生が自己紹介すると、

「聞こえん!」

「小さい!」

「やり直し!」

 の嵐である。着隊から一週間、本日の午前中まで、手取り足取り、丁寧さすら感じられた指導をしてくれた先任期たちの凄まじい変貌ぶりに、唖然とすると同時にいい知れぬ恐怖まで感じていた。――もっとも、去年は彼ら先任期学生たちも、同じように怒鳴りあげられる立場にあったのだが、もちろんそんなことは、今の星華たちに考えの及ぶところではない。

 女子学生のなかでは一番前列に並んだため、星華は女子の標的第一号となった。

「天辺二士! 神奈川県出身……」

 仮に大学の新歓コンパの会場なら、男たちの欲望と競争心をいたく刺激したかも知れないセレブな声だったが、ここでは先任期たちの迎撃目標でしかない。

「聞こえんぞ! お前、なめとんかぁ!」

 に始まり、たっぷり三十秒以上の暴風を浴びせられた。女性人権活動家が目の当りにしたら、目を吊り上げて糾弾しそうな光景である。

「次!」

 この時点で心のなかではべそをかいていた星華を放免して、今度は玲子が指名された。先任期たちは、既に「こいつの父親はお偉いさんだ」という情報を得ている。もちろん、それを理由に手加減の必要性を感じるほど、彼らの血は冷たくなかった。

「藤堂二士! 東京都出身! 東京都立西多摩高校卒業!」

 ――私、父も兄も自衛官だから。

 と、玲子は星華に着隊当日に語っていた。本当は、もっと昔から代々この方面の職業に就いていたのだが、そこまではまだいわない。

「ご家族に、一人もいらっしゃらないの?」

 着隊後、案内された居室で、星華の出身地が神奈川県だと知って、玲子は聞いた。この点、彼女も固定観念に囚われていた。一見、神奈川県は自衛隊や米軍が多数の基地等を置いているので、ミリタリーな色彩の濃い土地柄だというイメージがあるが、それは横須賀市や座間市、厚木市とかその周辺に限られている。県北部や西部では、「自衛隊の実物なんか、一度も見たことがない」という住民が大半である。そして、星華と彼女の家族もそういう部類に入っていた。

 外見に似合わずというか、外見以上というか、玲子の声は響き方も音量も、先週まで外部にいた者とは思えないレベルだった。少なくとも「お偉いさんの娘というが、どんな答え方するか、見てやろうじゃないか」という先任期側の期待を上回るものがあった。狼と化してやり直しを命じるつもりだった男たちは、出鼻をくじかれる格好となった。

「山之内二士! アメリカ合衆国ニューヨーク州出身! ジャクソン・ハイスクール卒業!」

 といい切る以前に、ケイの自己紹介も先任期たちの爆撃ターゲットとなった。ケイは、割と思ったことが正直に顔に出る性分なようで、やり直しが三回目に達すると、露骨に不満然とした表情を浮かべた。

「なんだぁ、その顔は!」

 と、男だったら締め上げられたかも知れないが、この点ではケイは性別によって得をしたかも知れない。新入学生は全員腕立て伏せ三〇回を命ぜられて、自己紹介タイムは終わった(三人の女子のなかで、やり終えることができなかったのは、星華だけだった)。

 続いて、入室のやり方の教育が始まる。先任期の居室を上官の執務室に見立てて入り方を習わせるのである。

 一度要領を展示されたあと、新入学生が実際に行わせられる。

「入ります!」

 と発声したあと、入室し、ドアを閉じ、一歩進んで、先任期の位置に向けて方向を小変換し、一礼する。

「やってみろ」

 といわれて実施するが、新入学生はほとんど皆、ここでも罵倒に近い叱責の嵐を浴びることになる。

「声がちいせえ、声が!」

「方向変換のやり方がなってない! やり直せ!」

「両手首を体側から離すな! ピッタリくっ付けろ!」

 ここでも、女子だからといって手加減される――そんな訳は勿論なく、むしろより強い嵐を浴びせられた。まず、玲子が実施させられたが、彼女ですら二回やり直しを命じられた。次が星華だった。精一杯の積りで声を挙げて、ドアを開く。

「入ります!」

「聞こえん!」

 声が小さいと先任期に怒鳴られ、三回やり直し。

 次の回れ右に続くドアの閉鎖で二回、そして先任期に対する敬礼を二回やり直しさせられた時点で匙を投げられ、

「藤堂を呼べ」

 と命じられた。星華に連れられて入室した玲子へ、先任期は命じた。

「お前、こいつに教えてやれ」

 玲子は、「はい、分かりました」と答えて、先任期の代わりを引き受けることになった。

 試練の時間が終わって居室に戻ると、そこは水野二曹の手でありとあらゆる物がぶちまけられていた。これが、星華たちにとっては記念すべき台風の第一撃となった。

 点呼が終わり、消灯ラッパが鳴り響く。激動の一日を終えた新入学生たちは、漸く就寝した。

 ――わたし、ひょっとしたら、とんでもないところへ来たのかも知れない……

 ベッドのなかで、頭まで布団を被って星華は昼間の洗礼を思い返し、自分に誤算があったのかも知れないということを考えていた。しかし、それは彼女の独占物ではなかったのである。程度の差はあれ、新入学生たちは、ほとんど全員が同じことを考えていた。確かな一筋の光に見えた夢が、今また遥か遠くの微かな光に戻ったかのようだった。

 耳学問では知っていた。CAの採用後の初任研修でも、各社共通に「鬼女」あるいは「蛇女」とも称するべき教員インストラクターによる、数か月間の「地獄」が用意されている。そこで、夢多き若い女性の群れは、いきなり泥沼に頭から叩き込まれるような目に遭わされるのである。実は、星華の母・真由里まゆりも、現役時代は初任研修の教員として、あるいは現場のアシスタントパーサーとして、後輩たちから恐怖の目で見られる存在だった。その指導の厳しさに挫折あるいは絶望して、憧れのCA生活に短期間で終止符を打った者は、二人や三人ではない。家庭内では良妻賢母そのものの真由里の、夫や娘が知らなかった別の顔である。だが、この防府北で待ち構えていた地獄は、全然度が違っていた。そして、期間は二年間である。本日の洗礼によって抱いた予感は、翌日からの日々において、ほぼ間違いのない現実と化すのだった。

 ――

 午前六時0600。起床ラッパが基地内に鳴り響く。学生を含む、基地所在の全隊員が起床するのである。航空学生は区隊毎整列し、以上の有無を当直に報告する。

「一区隊総員二十五名、事故なし、現在員二十五名。番号、始め!」

 全区隊が異状の有無を報告し終えたら、間稽古と称して全学生が一体となって三千メートルを走る。

「左、左、左、右、ソーレ!」

「一、ソーレ、二、ソーレ、三、ソーレ、一、二、三、四、一、二、三、四!」

 走り終わると、直ちに居室に戻ってベッド上のシーツ、布団、毛布を整える。そうこうする内に、十分後には朝食時間を告げる次のラッパが鳴る。

「右へならえ! 直れ、右向け右! 前へ進め!」

班毎に縦隊を組んで食堂に直行し、配食の列に並ぶ。星華を含め、新入学生がまず驚いたことは、先任期たちの飯の盛り方だった。普通の家庭にある飯茶碗より一回り以上大きい椀に、山盛りに飯を詰め込み、その上に目玉焼きとかを乗せて掻っ込むのである。これまで、特に将来の進路を考えて日々の食事を自分なりにセーブしていた星華には、当初まったく信じられない食欲だった。――教育が本格的に始まると、直ぐに理解し、他の二人と共に時間を置かずそれに習うようになったが。

「いただきます!」

 と唱和して食べ始めるが、最初の入隊前のように時間をかけてよく噛んで――という食べ方は、数日で返上した。先を争うように主食、副食、味噌汁を片付け、盆に乗せた食器を返納口に戻し、来た時のように列を作り、隊舎に帰る。

「よい兵士の条件は、食事が早いこと、便所が早いこと、走りが速いこと」という戦前のいい習わしは、現代でも生きているかのようである。

 居室に戻ると、これまた急いで洗面所に駆け込んで洗顔し、続いて身辺整理を行う。こうしないと時間が足りなくなるということは、短期間で学ぶことができた。星華たち女子学生はその上、最小限だがメイクも施す必要があった。

 例えば、当初三人が普通にメイクして朝礼に臨むと、

「男を釣りに来たの? ここでは色気なんか、必要ない!」

 と、水野二曹から叱責され、翌朝は逆に化粧なしで並ぶと、

「色気は必要ないといっただけです。女であることを忘れてはなりません! 腕立て伏せ十! 姿勢を取れ!」

 という具合である。

 次に六時五十分0650から十五分間で、居室を初め、廊下、階段、トイレ、玄関等の受持ち公共場所の清掃を行わなければならない。当直や先任期学生が目を光らせているので、さぼることはできないし、やり損ないがあれば、それが「台風」を呼ぶこともある。

 清掃後は、課業準備である。教材やノート等、教育で使用する物品を準備する他、服装や靴の手入れを行う。朝の時間では、ほとんど唯一のリラックスタイムでもあるが、靴の磨き方一つでも手抜かりがあれば、容儀点検で先任期や助教から指摘されて罰直の理由にされる。

 七時三五分,《0735》から八時までは間稽古であり、前日の教育で難しかった英語の表現とか、基本教練とかの復習を行う。八時0800から課業行進で、隊を組んで群庁舎前まで移動する。そこで朝礼である。朝礼台上の学生隊長・風見二佐に、

「学生隊長に敬礼。」

かしら―、中! 直れ!」

「おはよう!」

「おはようございます!」

 八時一五分0815。国旗掲揚。君が代に合わせてポールに掲揚される国旗日の丸に、全員で挙手の礼で敬礼する。

 航空学生の教育は、心身両面に亘る。八時二十五分0825から始まる午前中の訓育は、主として教育隊によって行われる座学である。その範囲は、

 精神教育:国防の重要性や自衛官の使命と心構え

 服務:自衛官の行動に必要な知識

 人文科学:哲学、倫理学、心理学、歴史

 社会科学:法学、政治学、経済学

 英語:航空英語、口語英語

 自然科学:数学、物理、気象、電子計算機

 航空工学:航空工学に関する課目(実験を含む)

 電子工学:電子工学に関する課目(実験を含む。)

 文章技法:文書作成の知識

 講話:部外講師による。

 行事:基地内外で行われる各種行事に参加

 研修:他の基地や史跡の研修

 ドリル展示:伝統あるドリル隊の演技

 環境整備:生活環境の美化に努めよりよい環境を維持

 ……と、学ぶのが当然と思える分野から、一見パイロットになるにも、飛行機を操縦するにも関係があるとは思えない分野まで含まれている。単にパイロットになるのではなく、幹部自衛官たる者には必要な教養の一部であることは、彼らにはまだ分からない。

 防衛学:国防論、作戦運用、戦史

「――以上が、我が国の安全保障戦略の概要である」

 教育隊で防衛学を教育するのは、主に自衛官の教官である。その教育隊教官の一人、梶谷一尉は去年まで松島の第2航空団でF―2Bに乗っていた。「その下で、空自が担当するのは、いうまでもなく防空であるが、具体的には六種類のミッションに分けることができる。まずは警戒監視。全国二十八カ所に設置された固定レーダー、これをレーダーサイトと呼ぶが、これとともに空中において領空を監視する早期警戒機E―2C、早期警戒管制機E―767、さらに地上において機動的に警戒網を構成できる移動式三次元レーダーTPS―102が、その手段である。これらによって、我が国の領空は三百六十五日二十四時間、一分一秒の休みもなく警戒されているのである」

 パワーポイントによるスライドを次々切り替えて、装備品やイラストをスクリーンに映しながら、梶谷は説明を進めた。

「これらから得られた情報は、自動警戒管制システムJADGE《ジャッジ》によって空自組織の脳に相当する航空総隊司令部・航空方面隊司令部に伝達され、領空侵犯や弾道ミサイルといった脅威を瞬時に識別し、対領空侵犯阻止スクランブル、弾道ミサイル破壊措置等の対処が発令される」

 午前中の課業は、十二時五分1205まで続く。終了すると、食堂に直行し、昼食を取る。午後は、一転して屋外での課目が多くなる。少しでも早く食事を終え、学生舎に戻って着替えなくてはならない。制服から迷彩柄の作業服にである。体育課目であれば、体育服装になる。

 教練:自衛官の行動に必要な動作及び精神の訓練

 教練には、自衛官として必須の動作を身に付ける基本教練や射撃、戦闘訓練等がある。基本中の基本であるために「基本教練」と称される課目は、停止間の動作、行進間の動作に分かれ、それぞれ徒手の動作・執銃時の動作がある。さらに、着帽時と脱帽時にも、それぞれ別の動作がある。

「気を付け!」

 この号令がかかると、両足を閉じ、爪先を男子は六十度、女子は五十五度に開き、踵を密着させ、両腕を体側に密着させて、両手の拳を握らなくてはならない。

「注目!」

 既に銃の貸与式は終わっており、各学生には小銃が持たされている。最初は、銃を用いない徒手の動作から始まるが、それは入隊式前に終わっている。

 第三区隊助教・今村二曹が、学生の面前で声を張り上げる。本日は、執銃時の動作を教育されていた。

「不動の姿勢は、銃を肩から吊っている以外、徒手と大きな違いはない。不動だから、動いてはならない。右肘で、銃床部が右臀部に接するように銃を支えるとともに、銃を概ね垂直に保つ……目をキョロキョロ動かすな!」

 視線を自分から外した学生を、助教は叱責した。

 一通り展示と説明が終わると、区隊を分割して学生たちの実施とこれに対する助教たちの指導になる。

 体育:自衛官として必要な体力の鍛錬

 体育は、筋力トレーニングや持続走に加えて、遠泳やサッカーなど基礎体力の充実

 四月第三週の金曜日午後、体力測定が実施された。腕立て伏せ、腹筋、三キロメートル走、懸垂、走り幅跳び、ソフトボール投げの合計六種目を規定の時間内で一定以上の回数をクリアしなければならない。一部を除いて男女同種目である。採用試験には体力科目はないので、多くの学生はここで厳しい体験をしなければならない。

「……さんじゅう、さんじゅういち……」

 腕立て伏せは、二人一組で行う。一人が実施者の両腕の間に手を置いて、手の甲に触れると一回にカウントする。入隊前にスポーツをやっていた玲子とケイは、順調に回数を重ねた。

「あたし、ハイスクールではリアリーディングやっちょったんだ」

 と、ケイはスマホのなかの画像を見せながら、初日に語っていた。

「チアって、体力要っの。第三のプレーヤーとゆわれちょっくらいでね。――NFLでパフォーマンスする、プロのダンサーになろうかともたこともあったんだ」

 ――言葉どおり、脚力でも、腕力でも、ケイは女子学生のなかでも抜きん出ていた。この点で、玲子も及ばないところがあった。玲子は、進学校でありながら女子テニスの強豪校でテニス部女子キャプテンを務め、インターハイ出場を果たしていた。

 二人が終えると、星華が顎の下に玲子の手を置いて、腕立て伏せをする番になった。助教のホイッスルが鳴った。

「いち、……にい、……」

 ここまでで、既に星華の両腕は震え始めていた。入隊前、広報官の四ツ谷から「今の内から、少しでもいいから運動しておいて下さい。体力は、自衛隊のどこでも要求されますから」と、アドバイスは受けていた。ただ、それがどれだけのレベルを意味するか実感がなかったから、星華は家の周囲のジョギング程度しかやらなかった。そして、それは甘過ぎる認識だったと、最初の週で既に思い知らされていた。

「に……」

 やっとのことで腕を伸ばした。だが、既に一直線に伸びていなければならないはずの肩から足までは、くの字に曲がっていた。そして、三回目に挑もうとした時に星華の腕が限界に達して、上半身を地面に落とした。肩で息をしていた。

「天辺学生、二回」

 と非情に水野二曹が記録する。意味するところは――不合格である。

 その日の終礼では、魔女が暴風を吹かせた。加藤二尉から区隊全員の点数と、合否が発表される。そして、級外つまり不合格を申し渡されたのは、星華ただ一人だった。降下する国旗に敬礼し、解散が命ぜられると、水野は女子学生だけに残留を命じた。

「天辺。あなたは、自分の立場が分かっていますか?」

「はい、班長。――分かっています……」

「そう。一人だけ、一人だけ級外! それも、六科目中、五科目不合格で! これが意味するところは、今のあなたは航空学生どころか、まず自衛官として不適格ということです!」

 両目を炯々と輝かせ、お局は口から炎のように厳しい言葉を次々と吐き出した。ガイガーカウンターがその場にあったら、針が振り切れたかも知れない。星華は、「客室乗務員の訓練センターにいるインストラクター」にもこんなタイプがいると知っていた。

「(わたしだって、一生懸命やったのに)……これから、努力します、班長」

 泣きたくなるのをこらえて、星華はなんとか答えた。

「努力? やって当然。問題は、どう努力するかです。それをよく考えなさい」

 ――解放されたあとで、意気消沈した星華をフォローしたのはケイである。

「なにさ、あの毒女!――天辺、最初いっばんさっからでくれあ、誰も苦労くろせんよ」

 実は、男子学生でもギリギリの点数で合格という者も何人かいた。過去には、やはり最初の体力測定で不合格という例もある。運動をしていなかった星華が合格できなかったのも、実のところ無理はないのだった。

「行きましょう。早く行かないと、夕食に間に合わない」

 ケイのオーバーヒートのピークアウトを見計らって、玲子が促した。相変わらず冷たさを感じさせない程度にクールである。隊舎に戻り、体育服装から作業服に着替えて、食堂に直行するのが行動パターンだが、その途中で、

「ごめんなさい。二人とも、先に行っていて」

 と星華が離脱して、一人だけ学生隊の方向に走り出した。星華は助教室に直行し、ドアをノックした。

「入ります!」

 近頃板についてきた一連の入室の動作を取ったあと、星華は水野二曹の前に進んだ。

「天辺学生は、班長にご指導を受けに参りました」

 帰り支度か、卓上を整理していた亜美は、じろりと目線を向けると、

「なんですか?」

 と事務口調で聞いた。

「班長、わたしに、体力測定に合格する方法を教えて下さい」

 助教室には、他に残っていた本間二曹が出て行ったので、二人だけになった。星華としては、最大限謙虚かつ懸命に指導を受けたつもりだったが、班長の方は視線を机の上に戻してつっけんどんな答えを返した。

「よく考えなさい、といったはずです。考えたんですか?」

 少しためらったあと、星華は最大限、真剣さを込めて質問を口に出した。

「考えても、分からないことだと思いました。わたし、これまで特に運動をやったことがありません。――お願いします、班長。体力測定に合格するため、どうやったらよろしいのか、教えて頂きたいと思います」

 そこまでいって、星華は最大限上半身を折って、亜美に頼むゼスチャーをした。

「――最初に、区隊長がいわれたこと、覚えている?」

 顔を上げて、視線を正面から星華に向けた亜美が聞いた。

「目標は、しっかり持っているか?――そう、区隊長はいわれたはずです。覚えている?」

「はい。覚えています」

 入隊式の翌日、朝礼時に、加藤は学生たちを前にして次のように申し渡した。

「本日から本格的に教育が始まる。皆、目標は、しっかり持っているか?」

「はい!」

 そう唱和した学生たちにとって、あるいは意外なセリフかも知れなかった。パイロットになる。そのためこそに、ここにいるはずだからである。

「お前たちが目指すパイロットは、ただの飛行機乗りではない。この国の空を守るため、命がけで任務を果たすパイロットだ。それは、戦闘機に乗ろうと、ヘリに乗ろうと、輸送機に乗ろうと、本質的に変わるもんではない! その覚悟を持った人間だけが、ここで学ぶ資格があるのだ。その覚悟が持てない者に、ここにいる資格はない。民航にいけ。あっちは年収一千万以上だ。きれいなCAともよろしくやれるぞ。だがな、ここにいる資格があるのは、そういうものは一切いらん、ただ命を国に捧げる覚悟で飛ぶ人間だけだ。――目標を持つとは、まずそういう覚悟を固めるということだ」

 加藤は、一気にまくし立てた。

「区隊長は、ここが命を賭ける覚悟のあるパイロットを育てるところだ、といわれたはずです」

「はい。そうです」

「天辺、あなたはどう? それだけの覚悟を固めた?」

 直ぐには答えられなかった。なんといっても、実のところ星華はまだ十代の小娘なのである。同年代だったら、男女の別なくそれだけの実感を持って覚悟を固めることは容易でない。

「まだ、かも知れません……」

「正直ね。で、本題に戻るけど、なぜ体力が必要なのか、分かる?」

「自衛官として、基礎だからです」

「単なる基礎ではありません。いい? この先、飛行幹部候補生になったら、実際に練習機に乗ります。T―4でも、飛行中にかかるのは最大7Gです。60キロの体重が、420キロに感じられる。F―15に至っては9Gです。その時に、それを支える体力がなければ、飛行中に失神して墜落、殉職となります。命を賭けるための絶対に必要な基盤だから、体力をつけるんです。分かった?」

 はい――と、単純に反応することが、星華にはできなかった。去年、百里で見たイーグルのコクピットでは、それだけの過酷な状況が発生するとは、今知らされたからである。

「単なるノルマではなく、パイロットという明確な目標にたどり着く、そのために、欠かせない手段だから体力をつける、そこをまず理解しなさい。それから――」

 亜美は、ようやく具体論に入った。単にやみくもに走ったり、腕立て伏せをするだけでは、やったという自己満足に終わるだけである。明確な数値で、今月は千メートル何分、腕立て何回と定め、何がなんでもそれを達成する。それを積み上げて、最終合格に達するよう、努力を毎日重ねる。なにがあっても自分を甘やかさない。

「それを貫徹するのです。いい? 航空学生になったからには、やり遂げなさい。これは、体力測定に限らないから、それもよく覚えておくこと」

「はい!――天辺学生、帰ります」

 助教室を辞去した星華は、駆け足で食堂に向かい、食器を片付けつつある同期二人を見つけた。食事を載せたプレートを卓上に置いて、

「ごめんなさい、遅くなって」

 といいつつ星華が座る。

「なにしちょったんよ? 航友会に間にわんよ」

 ケイが聞いても、「ええ、ちょっと」とだけ答えるに留めた。

「お先に。遅れないようにね」

 玲子が席を立つと、ケイも「じゃあね」といってあとに続いた。

 

     Scene#2 営庭

 

「××期学生総員七十五名、事故なし、現在員七十五名。集合終わり」

 当直学生が、敬礼ののち、訓練指揮官である学生隊長に報告した。各区隊がデジタルパターンの迷彩服姿で整列し、背中には背嚢、肩からは小銃を吊れ銃していた。

「休め! ただ今から、三〇キロ野外徒歩訓練を実施する」

 空は雲がかなり低い高度で垂れこめている。九月中旬にしては、やや気温が高く、湿度も感じられた。気象予報では一時雨が降るとの予想だった。学生隊長は行進の目的や安全管理について訓示したあと、

「本日は悪天候が予想される。また行進経路はアップダウンがあって疲労も重なるだろう。だが、最後まで元気・やる気・負けん気を発揮して、全員が完歩することを要望する」と結んだ。

「気を付け! かかります」

 学生隊長は答礼して、学生たちの前を離れた。四十五名の学生は、一列を作って正門を目指す。三十キロ野外徒歩訓練は基地外の一般道を経路として、自分の足で歩く訓練である。陸自でも行われるが、体力や気力の練成手段として空自でも実施されている。航空学生だけでなく、自衛官候補生、一般曹候補生、さらに幹部候補生の課程でも行われるが、もちろんピクニックではないから、武器携行の上、服装も戦闘訓練と同じである。男女に違いはない。星華たち女子学生は、区隊の最後尾に着いた。

「っつたく、あたしら空自よ。陸じゃなかて」

 と、ケイは歩きながら不満を漏らしたが、何人かの男子学生もあるいは同じことを考えていたかも知れない。支給されて約三か月が経過した編上靴には足が十分慣れておらず、数キロ歩き続けると、足に触れている部分が痛みを感じさせるようになる。

「休憩五分前」

 前方の学生から、逐次に逓伝されてくる。やがて時間が来ると、道路の片側に一列になって腰を下ろし、一〇分間の休憩となる。

「水分の補給を忘れるな。但し、飲み過ぎると水筒が空になるぞ。大休止まで補給はないからな」

 休憩する学生たちの間を回って、助教が指導して回る。時間の経過に伴って、気温は上昇しているようだった。

「いつっ……」

 星華も腰を下ろして、編上靴のひもをほどいた。既に両足の裏に違和感を生じていた。足の甲も痛みを訴えている。行進は、まだ三分一も終わっていない。銃を下げる右の肩も痛んだ。

「あー、れるぅ」

 そういって、ケイは水筒の中身を咽喉に流し込んだあとで、キャンディを口に放り込んだ。

「天辺、あんたもどう?」

 と、掌に載せたキャンディを勧めてきた。

「ありがとう。頂きます」

 休憩時間は残り少ない。そろそろひもを結び直して、出発できるようにしなければならなかった。

「どう、藤堂、要る?」

 ケイは反対側の玲子にも差し出したが、玲子は、

「いえ、結構よ……」

 言葉少なに断った。星華には、変な気がした。昨日の夜から玲子の様子がおかしかった。夜の寝つきが悪かったようだし、朝の食事もあまり摂っていない。口数も少なく、顔色も冴えない。いつもなら他の二人を励ますような態度を取るところ、今日は明らかに表情からして沈んでいる。

「出発三分前!」

 加藤区隊長の声が響いた。学生たちは、身支度を整えて立ち上がる。背嚢を背負って、星華たちもそれに習った。ここから先は登り坂である。その時、とうとう曇っていた空から雨粒が落ち始めた。

「あーあ、雨だよ、くそ」

「最悪」

 口々に学生たちは運命を嘆き始めた。

「出発を五分延期。全員雨衣着用」

 指示が出された。学生たちは一度背負った背嚢を下ろし、なかからグリーンのセパレーツ式雨衣を取り出して、それらを着用し始める。雨衣は確かに雨から身体を守るが、一方で体温を上昇させ、発汗量も増大し、着用間の負担が馬鹿にならない。

「前進」

 第一区隊から逐次行進を再開する。梅雨時期にしてはかなり気温が高くなっていた。無言のまま、学生たちは坂を登って行った。

「あー、暑ち。たまらんわ」

 他の者はいわないようにしている、いうとそれだけ辛くなることを平気で口にした。星華も、「暑い……早く終わって」

 とこぼしたいのが正直なところだった。頭の上では鉄帽が重くのしかかる。汗は次々と額から流れ落ちて、不快なことこの上なかった。その汗をぬぐおうと右手を挙げた次の瞬間、前を歩いていた玲子の背が突然縮んだ――ように見えた。

 人体が倒れ、そして右肩の銃が地面に落ちる金属音が響いた。

「藤堂さん!」

 数秒して星華はなにが起きたかを悟った。玲子が道路上に体を倒して動かなくなっていた。

「ちっと、藤堂!」

 ケイも駆け寄って玲子の状況を確かめようとした。玲子は両眼を閉じて肩で息をしている。顔は紅潮していた。

「班長! 藤堂学生が倒れました」

 星華が叫ぶ間もなく、水野二曹が走り寄った。

「天辺、山之内、手を貸しなさい」

 水野は玲子の体から銃と背嚢を離し、二人に手伝わせて服や靴を緩めた。

「衛生員、前へ」

 事態に気が付いた加藤の指示で、赤十字のマークが取り付けられた医療嚢を携行した衛生員が手当てを始めた。意識、呼吸、脈拍を確認したのち、体温を測定して、

「熱中症の可能性が高いと思われます。直ちに後送して、治療を受けさせるべきです」

 衛生員は、そう加藤に報告した。熱中症というと真夏の病気というイメージがあるが、実は五、六月や九月でも、気温や湿度、さらに体調によっては発症する例がある。玲子は、この時そういう条件の揃った状態にあった。

随行していた青い車体の救急車が後部ドアを開いて、担架を携行した他の衛生員が玲子の身体を収容し、そのなかに運び込んだ。基地に戻し、医官の治療を受けさせるためである。救急車がサイレンを鳴り渡らせながら走り去ると、加藤が星華とケイの方に向き直った。

「藤堂の銃と背嚢、休憩地点まで、この二つは天辺と山之内で分担せよ」

 思わず二人は声を挙げてしまった。

「わたしたちで、ですか?」

「そげな酷いです!」

 だが加藤の指示は厳しかった。

「お前たちは同期だ。なにかあったら助け合うのが同期というものだ。急げ」

 男子の同期たちは、既に先行している。もう見えないところにまで行っていた。

「銃は山之内、背嚢は天辺で分担しなさい。休憩時間ごとに交代して、体力の消耗を防ぐように」

 水野の指導に渋々従って、ケイは両肩に銃を吊り、星華は自分の背嚢の上に玲子の背嚢を括り付けて背負った。肩の重みが痛みに変わりつつあった。

「前進。」

 二人の前後に、加藤と水野が付いた。黙々とだが、ケイは心のなかで悪態を吐きつつ、星華は苦悶の塊を飲み込みつつ坂を登り始めた。

「登りは、あと五百メートルだ。頑張れ。」

 靴を地面に接する度に、星華は両足の各四本の指の腹に痛みを感じるようになった。

 ――痛い。痛い。

 顔には、明白に苦しさが浮き出ている。

 坂の頂点で、指揮官車が停車している。迷彩服姿の幹部が立っていた。

「頑張れ! まだまだこれからだぞ!」

 激励する一佐がいた。――団司令の神崎だった。先頭を行く加藤が敬礼すると、神崎は答礼した。星華とケイは、前方斜め下を見て歩くのがやっとだった。

「ピシッとしなさい。これからは下りなんだから」

 ――でくっのかちゅうの!

 ――足が痛い。肩も痛い。……もうたくさん。

 水野の指導に対して、口に出せない言葉を飲み込みながら、二人は黙々と歩いた。いつしか雨は止んだ。大休止兼昼食は約一時間半ののちだった。道路脇の空き地になっている場所で、既に男子学生たちは背嚢を下ろし、銃を整頓して置いて、昼食に入っていた。同じ三区隊の地域に入って、重量物を下ろすと、星華もケイもへたり込んだ。暫くは、口を聞く気にもなれなかった。

「おい、飯だぞ」

 そういって、二人に昼食の缶飯を差し出したのは、同じ区隊の男子の仲村だった。男子のなかでは一番痩せていて、体力的にも星華に次ぐ立場で辛うじて体力測定に合格していた。

「……ありがとう」

 星華は、なんとかそう答えて主食と副食の缶二つを受け取った。缶切りを取り出して開封し、割箸を突き立てる。横を見ると、ケイは既に何口か平らげていた。それを見て、星華も箸を早める。

 ――負けていられない。

 少しだけ温かみの残った五目飯は余り美味ではなかったが、食べることも勝負だと思えた。おかしなところで闘争心が湧いたようだった。

「大丈夫か? 銃を二丁担いだと聞いたけど」

 ケイの横で聞いたのは、入隊式で代表学生を務めた飛田だった。学力だけでなく、体力もトップである。陸自から航空学生に合格して来たので、他の学生とは違って既に空士長の階級章を着けている。最近、ケイと話している場面がよく見られるようになった。

「編上靴は、緩めてなかの湿気を逃がしておけよ。足を守る秘訣だ。」

 ケイは頷いて、アドバイスに従った。

「藤堂さん、大丈夫かしら」

 後送された同期を気遣った星華に、ケイは、

「あいつが倒(たお)るいとは思わんかったわ。いつもは、しごかれてもどこ吹(ふ)っ風じゃってね」

 それは星華も同感だった。玲子は教場での座学はもちろん、野外での訓練も基本教練だろうと、戦闘訓練だろうと、男子学生と同等以上にこなしていた。かといって高ぶるところは見せず、特に理数系の知識に弱い面がある星華が分からないところを質問すると、丁寧に、時間をかけて教えてくれる。男子学生のなかには、わざわざ玲子に質問を持ち込んでいると思える者までいた。玲子には、弱点なんかないように思えていた。

「やっぱい、藤堂も人間じゃったわけね。ま、誰じゃっち完璧じゃねちゅこっか」

 ケイの感想に、星華は黙って頷いた。

「三区隊、注目!」

 大休止終了の十五分前になって、加藤二尉が声を挙げた。

「女子学生の藤堂が、熱中症と思われる症状で後送された。藤堂の銃と荷は、天辺と山之内で分担して来たが、後段は区隊全員で、交代で分担することとする。」

 これで星華とケイは、取り敢えず一・五人分の荷重から解放されることとなった。男子学生たちは、我先に手を伸ばすようにして装具やらなにやらを取り出して自分の背嚢のなかに入れた。

 ……辛い行進訓練は、一六時に終了した。消耗した、それでも少しはエネルギーを残していた学生たちが基地の正門に入ると、群本部や教育隊・学生隊の基幹隊員が列を作って待っていた。手を叩きながら、口々に学生たちの労をねぎらうセリフを投げかけた。

「お疲れー」

「頑張ったな」

「よーやった、よーやった」

 列の一番奥に、団司令が立って、やはり両手を叩いていた。

 群本部庁舎の前で三個区隊は整列し、学生隊長に行進の終了を報告した。

「――現在員七十四名。事故の一名は藤堂学生。現在入室中」

「ご苦労。ただ今を以って行進訓練を終了とする。ここからは、各区隊長の計画で行動せよ」


     Scene#3 学生隊舎

 

 小銃は雨を被ったので、分解整備しなければならない。疲れた体では辛い作業だが、これは最優先で行うべき作業だった。玲子の銃は、星華とケイで分担して部品を磨いた。ケイは比較的アバウトな性格なためか、細かい作業が苦手だった。ねじやスプリングをしょっちゅう落とすので、

「あー、もういや!」

 と、不平を正直に口に出した。この点で、星華はまだ慣れるのが早かった。

 銃を格納し、背嚢を抱えて内務班に戻ると、次は洗濯機に放り込む物と、手洗いが必要な物に区分して、整備の準備をする。だが、その前にケイは迷彩服のままベッドにひっくり返り、

「疲れ《だれ》たぁ!……面倒じゃっで、るのは明日明日」

 と、手を伸ばして声を挙げた。それは星華も同じだったが、彼女は「今日できることは、明日にしてはいけません」という、母親流CA修行の一つを記憶していた。

「でも、ケイ。明日は土曜日で外出するんだし、今日の内に片づけた方がよくない?」

 湿気をたっぷり含んだ迷彩服を脱いで、体育服装に着替えた星華は、ベッドの上に腰を下ろして靴下も脱いだ。痛みの続いていた足の裏を見ると、両足とも揃って親指から薬指まで黄色く膨らんだ肉刺ができていた。見ている間も、痛みは続いた。

「わたし、衛生隊に行ってきます。藤堂さんの様子も見てきたいし」

「うん、じゃ、よろしくね。あたし、まだちっと動きたくない」

 多分、ケイは夕食までの短い時間だけでも休息をむさぼりたいのだろう。それは星華も同じだったが、自分の足の痛みを取り除きたい気持ちと、同期への気遣いはそれに勝った。

 衛生隊の診療室では、「石井」という名札を付けた白衣姿の若い医官が、メガネの奥の細い目をさらに細めて星華の両足を見た。

「合計八つか。痛かったでしょうね。――じゃ、ちょっと沁みるけど」

 手にした注射器を、肉刺の一つ一つに刺して、溜まった水分を抜いた。まだ、そこまでは痛くもなんともなかった。しかし、次に医官は注射器に紫色の薬液を取り、それを今、水を抜いたばかりの右足の親指に突き刺した。

「いっ、たぁーーーーい!」

 星華は、生まれて初めての絶叫を挙げてしまった。それほど、この治療は沁みた。信じられない程の痛さである。

「うーん、もう少し我慢して下さいね」

 他人事のように医官はいったが、残りの七連発が終わる時には、星華は本当に泣き出した(涙は少しだったが)。

「男でも、ウギャー! と絶叫する者がいるんだけどね」と、最後に付け加えた。

「……ありがとうございました」

 治療が終わり、なんとか星華は礼を口にした。死ぬかと思うほどの手荒い治療だった。だが、診察用の椅子を立って、廊下に出ると、これまた信じられないことに両足の痛みは雲散霧消していた。驚く程の即効ぶりだった。

 窓口で、受付の隊員に、

「後送されてきた藤堂学生は、どこでしょうか?」

 と尋ねた。返答は、

「病室ですよ。もうすぐ戻れるはずですけれど」

 そして、病室の位置も教えてくれた。星華は礼をいうと、その足で病室に直行した。

「藤堂さん、天辺です」

「どうぞ」

 そう返事があったのを確認して、入室した。玲子は体調を回復させており、ベッドの上に腰かけていた。傍らの看護師が、

「じゃあ、もう戻って大丈夫です」

 と声をかけた。看護師が部屋の外に姿を消すと、玲子は、

「天辺、心配かけたわね」

 そういって立ち上がった。どうやら大事はなかったようである。星華は、一安心だった。

「藤堂さんの背嚢と銃は、わたしとケイとで片づけておきました」

 迷彩服に袖を通すと、玲子は改めて礼を述べた。

「ありがとう。お礼をいわなきゃ」

 ――そういえば、初めて。藤堂さんからお礼をいわれるの。

 星華は気が付いた。今までは、営内の生活要領から、座学でも野外課目でも、常に藤堂が星華やケイを助けてばかりだった――だからといって、上目遣いになることもなく、恩を着せることもないのが玲子である。

「私としたことが、不覚だった。昨日から、ちょっと体調が悪かったのを、甘く見たので」

 自分の心身両面に十分な自信があるはずだった。それが、初めて少しだけ崩れた玲子だった。

「銃と背嚢も、最初は区隊長にいわれて、わたしたち二人で背負いました。でも、途中から、区隊みんなで、交代で運んでくれたんです」

 並んで廊下に出ると、そのあとの経過を星華は玲子に告げた。

「そう。じゃあ、区隊の全員に、お礼をしなきゃならないな」

「それがいいです。なにになさいます?」

「明日、外出の時に選ぶから、手伝って下さる?」

 玲子の、やや気を落としたようなトーンでの答えを聞いて、星華は思った。

 ――わたしでも、人を助けることができるんだ。

 今まで助けられることが圧倒的に多かった入隊以来の毎日で、初めてのことだった。区隊長の、「お前たちは同期だ」という台詞の意味が、少しは分かったような気がする。

 翌日の外出では、玲子は市街地の洋菓子店で区隊の人数分の少し高価なトリュフを購入した。月曜日、教場に入ると、教官が来るまでの時間を使って玲子は同期の男子たちに礼を述べ、一人づつトリュフの箱を手渡した。笑みを浮かべた「女王」の心遣いに、男子学生たちが興奮に沸き返ったのはいうまでもない。なかには「一生の宝だぁぁぁ!」と、声にならない絶叫を上げ、当分中身を食べまいと決心した者もいた。

 

     Scene#4 防府北基地・営門


 営門までは、帰宅する職員が、途切れ途切れの列を作っていた。もう、辺りは日没前後の薄暗さに包まれている。手提げバッグを左手に持った私服姿の水野亜美も、そのなかにいる。営門を出たところで、彼女の脇に4WDが停車した。足を止めた水野に対して、助手席のガラスが下がってその奥から、

「乗って行かんか。送るぞ」

 という声がかけられた。

「区隊長」

 聞き覚えのある声に、水野は反応した。

「いいんですの?」

「構わんよ。方向は概ね同じだ」

 水野がドアを開けて乗り込むと、4WDは防府市の街中を走りだした。窓の外を飛び去って行く暗い風景を見つめている彼女に、ドライバーは語りかけた。

「明日は月命日だ。何年になったかな。郷が逝ってから」

 水野は反応しなかった。

 郷――郷聡は、今から五年前、千歳救難隊で加藤とバディを組んでいた。そして、当時、千歳気象隊にいた水野亜美の婚約者でもあった。一月の悪天候時、急患輸送で飛んだ救難隊のUH―60Jが、奥尻島の中腹に墜落する事故が起きるまでは。数日前からインフルエンザを発症し、寝込んでいた加藤を置いてのミッションだった。なんとか熱が下がった状態で、佐藤も捜索に加わった。そして、山中で残骸と化したヘリのところへとたどり着いた。黒焦げの機体の前で、佐藤たちは膝を折った。

 千歳基地に戻った佐藤は、上司への報告の次に、気象隊に足を向けた。墜落以来、一縷の望みをつないで待っていた水野に、残酷な情報を届けるためだった。

「すまん。郷を助けられなかった」

 一週間後に結婚式を控えていた水野は、夫となる男性を永遠に失ったことを聞いて取り乱したりはしなかった。泣き声をこらえていた。泣くことを、知られたくないようにしていた。次の定期異動で、水野は千歳基地を逃げるように去った。この防府北基地で、部下と上司として再開するとは、運命の皮肉としかいいようがなかった。

「俺は、人の死を忘れることがいいことだとは思わん。――だが、その死に囚われ続けるのも、いいことだとは思わん」

 少しして、水野は反応した。

「忘れようと思ったことはあります。でも――私のなかでは、あの人は死んでいないんです。私がそう思ったら、誰もがあの人のことを忘れてしまうような気がして。それで忘れようと思うことを止めよう、と」

 今度は、佐藤が沈黙する番だった。

 ――やはり忘れられないのか。時間が経てば、どうこうなるものでもないということか。

「そうか……ところで、女子学生たちの状況はどうだ。同性の目から見て」

 さりげなく、佐藤は上司としての顔に戻り、話題を変えた。

「天辺と山之内も、少しづつですが、形にはまって来ましたわ。少なくとも、根性のない人間ではないようです」

 当初、生意気視されていたのがケイであり、体力不足から不安視されていたのが星華だった。だが、問題は山積しつつも、懸命に教育には着いて来ている――それが水野の観察だった。

「そうか、今後もよろしく頼む」

 4WDは、水野の借りているアパートの前で停車した。

「ありがとうございました」

 そういう礼を聞き届けてから、加藤は車を出した。自分の住む官舎に向かう前に、いつものコンビニに寄り、夕食の弁当と発泡酒を二缶購入した。自室に戻り、弁当がレンジで温まるのを待つ間、発泡酒を一缶空けた。

 ――やはり、忘れていなかったか。あいつは、三回忌にも顔を出さなかったしな。

 窓から外を眺めながら、加藤は、改めて人の死の重さを実感した。

 ――郷。お前の死は、今も人を縛り続けている。俺のお前に対する済まなさと、水野のお前に対する気持ちと、そして俺の水野に対する想いと。

 水野と再会することがなければ、こんな感情に陥らずに済んだはずである。これから先も、この解けない気持ちを、自分も抱えて生きて行かねばならない。そう思うと、やり切れなくなる気分になった。温まった弁当を平らげながら、今日は発泡酒を二缶購入したことを、正解だと感じた。一本だけでは、素面から抜けきれないからである。週末には、下関の猫カフェに出かけて、お気に入りのエキゾチックのヒンデンブルクに、たっぷりささみを与えようと決めた。


     Scene#5 海上自衛隊江田島基地


 舷梯を登る前に、一等海曹が注意事項を説明した。

「艦に乗る際には、艦尾の自衛艦旗への敬礼が必要です。よろしくお願いします」

 呉地方総監部の所在する基地の埠頭で、航空学生たちの目の前には掃海艇が係留されていた。呉基地の研修を終えた彼らは、これからこの艇によって次の研修地である海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校が所在する江田島に向かう。全員の乗艦が完了すると、もやいを解かれた掃海艇は、岸壁を離れて港外を目指した。波の静かな瀬戸内海を、艦首で割りながら快調に進む。学生たちは、甲板の上で右や左を指さして、はしゃいでいた。

まねけんな、こげなのもよかよねー」

 防府北基地のなかで座学と屋外訓練に追い回され――その間にも、色々と行事があるのだが――、外に出る訓練としては射撃があったくらいなので、ケイも気分転換になっているといいたいようだった。

「きれいな海……湘南の海とは、ちょっと違う感じだけど」

 星華も相槌を打った。浜辺から先は太平洋という鎌倉の海と違って、両側を島に挟まれた海峡を進むというのが、新鮮に感じられた。掃海艇は左手に江田島を見て、同島を北側から回り、宇品港の沖を通過した。江田島の東岸に出ると海峡に入り、やがて速度を落として湾に入った。表桟橋に接岸し、係留される。

「これから行く海自の幹部候補生学校は、戦前は海軍兵学校で、赤煉瓦の監獄といわれるくらい、厳しいところだったそう」

 携帯音楽プレーヤーのイヤホンを外して、玲子が説明した。聞き終わった曲は、谷村新司の「群青」である。彼女の長兄・英一とって、幹部候補生学校は母校である。英一、そして次兄・真二は、いずれも父親と同じ防衛大学校を卒業後、英一は海上自衛隊に、真二は陸上自衛隊に進んでいた。ここに学んだのは、実は長兄だけではない。玲子や英一の三代前、つまり曾祖父は、海軍兵学校卒の空母搭乗員であった。曾祖父・海軍少佐藤堂晋すすむは、昭和十七年十月、南太平洋海戦で、搭乗する雷撃機によりアメリカ海軍空母ホーネットに魚雷を命中させたのと引き換えに、戦死を遂げていた。

「赤煉瓦の監獄」と聞いて、星華は少々怖気づくところがあった。極悪助教トリオプラス魔女の上を行く怖い指導役がいたのではないの? と思えたからである。実際に海軍兵学校で恐れられたのは、教官ではなく上級生、なかでも最上級生徒の「一号生徒」だったのだが。

 江田島基地にはもちろん陸路から入る正門も存在するが、公的には表桟橋こそが「正面玄関」の地位にある。航空学生たちはその玄関から、基地グラウンドに降り立った。右手に戦艦陸奥主砲砲塔、左手には第一術科学校学生館が見える。奥には赤煉瓦の幹部候補生学校庁舎があり、その背後には、既に紅葉をまとった古鷹山が見えた。グラウンドのなかに敷かれたトラックの近辺に松とかの植樹があるのが、防府北基地と違うように思われた。

「航空学生の皆さん、遠路お疲れ様です。本日の江田島研修のご案内をする、広報係の星野です。この春までは、准海尉でした――」

 五〇代半ばの背広を着た長身の男性の挨拶で、江田島の研修は始まった。

「ここ江田島には、明治二十一年に東京から海軍兵学校が移転して来ました。以来、帝国海軍兵科将校養成の地となりまして、日清・日露戦争、さらに大東亜戦争で戦った多くの海軍士官がここから巣立ちました」

 なにやら、自慢したい気持ちが満々の元准尉である。

「昭和二十年の終戦後、暫くの間進駐軍に接収されていましたが、昭和三十一年に横須賀市から術科学校が移転し、翌三十二年に幹部候補生学校、三十三年には第一術科学校が創設され、再び士官養成の地となったのであります。――」

 聞きながら周囲を見回した星華は、普段いる防府北とは違う雰囲気を感じ取っていた。確かに建物に始まって、その他の植樹一つ一つにも風格とでもいえばいいのか、古を醸し出しているかのようだった。百数十年の歴史を有する江田島であれば、敷地から建物、植物までそれに相応しい歴史を有している。星華は知らないが、戦後に一からスタートした空自に対して、陸海軍の施設を引き継いだ例の多い陸自・海自は、雰囲気が違う。

 ――

 夕食後、割り当てられた宿舎に直行せず、江田島クラブで土産物を買い集め、そのあとで喫茶で腰を下ろした三人である。

「うーん、ちょっと疲れた《だれた》わねぇ」

 テーブルの上に置かれたジュースのグラスに手を伸ばして、ケイが共通認識を口にした。

「アナポリスにも旅行でたこっがあるけど、どっかしら、似た雰囲気がある感じ。ネイビー同士からかな」

「アナポリス?」

 知らない単語を星華が尋ねると、ケイは説明した。

「アメリカ海軍兵学校のこと。メインランド東海岸のメリーランド州にあっと」

 アナポリスとは、アメリカ海軍兵学校の所在地であり、同学校が有する今一つの名称でもある。実は、ケイは最初から空軍志望だったのではなかった。というより、ボーイフレンドのニクラウスと同じ進路にしたかったのである。ニクラウスは自分の進路をコロラドスプリングスの空軍士官学校か、アナポリスと考えていたので、ケイも同じところに行くつもりだったのだ。

「藤堂さん、お土産、なにを買われたの?」

 星華は、コーヒーカップを口に運ぶ玲子に聞いた。

「江田島羊羹。戦前からの、ここの名物スイーツなの。父も兄も大好きでね。私も結構好きだったから」

 実は、数本も連食すれば眉間が痛くなるほど甘い羊羹で、女性のボディラインやウエイトには大敵といってもよいほどの存在なのだが、こと甘味となると玲子は他の二人以上に自制心がなく、見境なく買い込んだのである。白いレジ袋のなかには、赤煉瓦の幹部候補生学校庁舎が描かれた羊羹の包みが、五、六本入っていた。

「そういう天辺は?」

 と、玲子が反問したところで、彼女の背後から、思わぬ人物が声をかけて来た。

「玲子ちゃん。――玲子ちゃんじゃない?」

 三人の視線が集まった先には、黒と白のツートンカラーの制服を着用した長身の女性が立っていた。身長は170センチ以上ある。星華はもちろん、玲子より高い。ケイと同程度かも知れないと思われた。区分するとすれば、玲子と同じクールビューティという印象である。胸の名札には「島村」と記されている。

「おねえさん」

 そう答えた玲子の声は、ケイも星華も思わぬものだった。三人は、次に反射的に立ち上がり、一〇度の礼をした。

空自そらの航空学生が研修に来ると聞いたから、多分そうじゃないかと思ったのよ。元気?」

「おかげさまで、無事にやっております」

「楽にして。私も座っていい?」

 四人は、こうしてテーブルを囲む形になった。

「なによ、藤堂。あんた、海自にお姉さんがいたの?」

「正確にいえば、私の上の兄の奥さんのお姉さん。つまり、義理の姉」

 ケイの質問に、玲子は簡潔に答えた。玲子の長兄、三等海佐藤堂英一は、現在厚木基地の第4航空群におり、哨戒機P―1の戦術航空士である。英一の妻は、目の前にいる島村緑の双子の妹、朱音あかねだった。両家の交わりは、数十年間にわたる。玲子たちの父、藤堂護まもると、緑の父、島村多門は防大同期で、同時期にそれぞれ第一大隊と第二大隊の学生長を務めていた。それぞれ空と海に進み、現在、護は航空総隊司令官、多門は海上自衛隊横須賀地方総監の地位にある。ライバル同士であり、そして親友同士でもあった。同じ年齢だった英一と緑・朱音は、自然と幼い頃から互いに面識があったが、英一が成長したのち、生涯の伴侶に選んだのは、妹の方だった。その理由は、当人しか知らないが、「家に帰ってまで、自衛官を相手にするのは嫌だ」というものだった。独身時代の朱音は、都内にある自動車販売店の事務員だったのである。ちなみに、妹に本命を奪われたあとで緑の結婚した相手――島村家の婿養子となった――は、四歳下の航空機整備を職務とする三等海曹だった。なお、藤堂・島村と、第三大隊学生長で、現在陸自西部方面総監を務める富山隆之介という陸上要員を総称して、当時の同期生や後輩学生たちは、「三軍神」とか「三バカトリオ」と呼んでいた。

「防大にも合格したそうじゃない。それを蹴って航空学生になるなんて、思い切った決心ね」

 緑は、星華もケイも知らなかった情報を口に出した。

「私、パイロット以外になる気は、ありませんでしたので」

 なんでもないこと、という調子で玲子は答えた。実際、防衛大学校の女子学生は難関であり、父親もそちらを第一に勧めたのである。だが、娘が敢然として選択したのは、航空学生だった。兄二人もパイロット志望だったことは同じだった。だが、お役所組織の実情は、すべての人員に等しく希望の進路を与えるとは限らないものである。希望者数と当人の成績により(成績優秀者は、陸海空で均分する必要があるのだ)、不本意な道を割り当てられることがある。英一も、次兄真二も、そのために海上要員、陸上要員とされてしまったクチである。両者とも、そこから自分の力で改めてパイロットの道を切り開かなくてはならなかった。その現実を知っていた玲子は、空自パイロットへの道が大前提となる航空学生を、躊躇なく選択したのである。

「五歳の時から、『私、パイロットになる』って、いっていたそうだものねぇ」

 幼い頃、兄二人と一緒に父親の勤務する部隊の記念行事に連れて行って貰ったところ、実物の航空機を前に、次兄が、

「お父さん、僕パイロットになる!」

 と宣言したので、末娘も負けじと、「れいこも、パイロットになる」と叫んだのだった。長兄は、この時既に防大生だった。当人は大真面目のつもりだったが、父親は少し笑ってからこういった。

「そうかい。でも玲子には、かわいいお嫁さんになって欲しいな、父さんは」

 まだ、空自が女性に飛行職種を開放して余り時間が経過していない時代だったから、将来がどうなるか全然分からず、無理のない答えだったが、娘にとってはプライドを傷つけられたように感じられた。意地になって娘はいい張った。

「れいこもなるんだもん!」

 笑いながら、緑は次々個人情報を暴露していく。玲子は、赤面していた。ケイは興味津々で聞き入っている。「初心貫徹。立派なものだわ」

 その時、割って入ったのは、それまで聞く一方だった星華だった。

「あの、失礼とは存じますけれど」

 星華は、緑のルックスと姓に記憶があった。

「九州の地震の時、TVに出られた方じゃございませんか?」

 自分がパイロットを志すきっかけとなったのが、今目の前にいる島村緑だった。「確か、ヘリコプターのパイロットだったと存じておりますけれども」

 当然、緑は肯定した。

「ええ、そうよ。よく覚えているわね。――玲子ちゃんの同期?」

「はい。紹介します。山之内と天辺」

 紹介に則って、ケイと星華もそれぞれ初対面の挨拶をした。

「女性でパイロットなんてすごいなぁ、と思いました」

 思いもかけない出会いに、星華はちょっとばかり興奮していた。

「あなた、ご出身は?」

「神奈川県です。神奈川の鎌倉市で」

「そう。父の恩師が、そこに住んでいたはずだわ。大田さんという方だけど」

「ご存じなのですか? 実家のご近所にお住まいの方で……」

 と、星華は合格発表の直後、訪問して来てくれた元地方総監部幕僚長の記憶を持ち出した。

「世のなかって狭いわね。うちの父親も、今同じ神奈川の横須賀勤務よ」

 島村多門学生の防大時代の指導官の一人が、当時の大田二佐なのだった。星華は、思わぬ繋がりがあることで、緑を急に近しい存在のように思えていた。

「今、パイロットをなさっていらっしゃるのではないのですか?」

幹部候補生学校ここの教官よ。航空機関係のことを教育しているわ」

 九州大震災の災害派遣が終わったあと、江田島に転属していたのである。勿論、ユニフォームの胸には、航空徽章を付けたままである。

「わたし、島村三佐のお姿を見て、パイロットになろうと決めました」

 運ばれて来たコーヒーを口にしつつ、緑は聞いていた。次に、おもむろに緑は反問した。

「光栄ね。で、天辺さんだったわよね、あなたはなぜパイロットになりたいの? その理由はなに?」

 奇襲されたかのように、星華はまず絶句し、次に言葉を見つけるように答えを続けた。

「……ほかに、夢がありました。でも、事情があって、それを断念しなければなりませんでした。その時に、パイロットという道もあるんだと知って、それでわたしも飛べたらいいなと思って」

「それだけ? 飛びたい、というのは希望でしょう。私が聞いたのは、パイロットを目指す理由。あなたの動機。それはなに?」

 内心、激励を期待していた星華にとって、奇襲としかいいようのない緑の質問だった。

「飛ぶだけなら、休みの日に飛行クラブでセスナにでもグライダーにでも乗ればいいの。でも、自衛隊のパイロットは仕事で飛ぶ。飛ぶのは単なる手段。あなたは、なんのためにパイロットになるの?」

 ややきつめの目線を向けられ、星華は黙ってしまった。あの日百里基地で初めて戦闘機を目にして、パイロットになるという新しい夢、生きる目標を得たつもりだった。教育開始当初、ラオウこと加藤区隊長から「お前たちが目指すパイロットは、この国の空を守るため、命がけで任務を果たすパイロットだ」と申し渡された。それは、今も忘れていない。だけど、思えば「国を守るため、命がけで任務を果たす」という言葉の意味を、深くは考えていなかった。緑の言葉は、その点を突いたかのようだった。

「パイロットって、飛行機を飛ばすのが仕事のように思われているけど、それぞれ飛行機によって飛ぶ理由は違うの。自衛隊の飛行機は、なんのために飛ぶか、なぜあたなはそれに乗りたいのか、考えている?」

「それは……」

 答えに詰まった。憧れの女性の正体が、毒女・水野二曹とあるいは同じ人種なのかも知れない、と星華は思い始めた。その考えはそう間違ってはいなかったが、最初は厳しく、次に導くところは導くのも同じだった。

「まだ若いのだから、よく考えるようにね。実際にコクピットに座るまでは、時間があるんだから」

 そういって、カップの中身を飲み干した緑は席を立った。

「明日は、古鷹山にも登るんでしょ。あそこは眺めいいわよ。じゃあね。玲子ちゃん、真二くんに会ったらよろしく」

「お元気で、おねえさん」

 三人も立って、去る緑を見送った。

 宿舎に戻っても、星華は緑の台詞を思い返していた。

「パイロットになりたい理由……」

 ――

『はい、こちらは藤堂です。ただ今電話に出られません。ピーっと鳴ったら、メッセージをお願いします』

「もしもし、英一さん。私です。今日、研修に来た玲子ちゃんたちに会いました。大きくなったわね。同期の子に、いかにもお嬢様ぽくてちょっと可愛い人がいたから、指導してあげたの。私も、幹部候補生の頃にされたことを、ね。立派になって欲しいと思ったから。それじゃ、また。妹のお腹はどう? 来月には生まれるでしょ。もう二人目の伯母さんになるかと思うとちょっと複雑。緑でした」

 そこまで携帯に吹き込んだところで、緑を呼ぶ声がした。

「夕食ができたよ」

 夫である。現在、彼は江田島基地の敷地内にある第一術科学校の総務部勤務だった。四歳年下だけあって、声もやや少年らしさが残っている。フェイスときたら、更に三、四歳は若いのだが。

「はーい。今行くわ」

 そう答えて、緑はリビングのソファから立って、キッチンへ向かった。島村家では、食事の準備とあと片付け、ゴミ出し、掃除、洗濯は夫の任務と決められているのである。

 

     Scene#6 防府北基地・教場


「気を付け。敬礼。直れ」

 団司令が答礼後、着席した四五名の学生たちは、演台の神崎一佐に視線を集中させた。団司令訓話のテーマは、パイロットの心構えだった。

「本日は、団司令が『パイロットとしての心構え』について、教育する」

 そう前置きをして、神崎は自ら作成したプレゼンテーションをスタートさせた。彼自身の経験からも、こうした訓話や、部外者等を招いて行われる講話は、普段のハードトレーニングで疲労の蓄積している学生たちにとっては、絶好の休憩タイム――つまり船漕ぎ時間となると分かっている(というより、神崎自身が、座学では同期のなかで最も居眠りが多い学生だったのだが)。それを見越して、単に文字や略語だけではなく、イラストや写真、動画を多数盛り込む必要があるのである。

 神崎が最初に選んだ題材は、平成十一年十一月に埼玉県で発生したT―33A練習機の墜落事故だった。

「年間飛行、これはパイロットの技量を維持するため、パイロットが必ず実施しなければならない飛行だが、このために入間基地を離陸した一機のT―33が三十分間の飛行訓練を終了し、帰投のため入間基地の管制塔と通信を設定した直後に、エンジントラブルが発生した。燃料ホースからの燃料漏れにより、エンジンが発火したのだ」

 十三時三十八分にマイナートラブル通告、T―33は、異臭、振動、異常音、オイル臭を管制塔に通報し、二分後に緊急事態を宣言。そして四十二分、ベイルアウトを通報した。

「だが、搭乗の二名は脱出しなかった。T―33が、まだ市街地上空を飛行していたからだった。住民への被害を防ぐためには、まだ機を捨てることができなかった。両名は必死に操縦し続け、漸く入間川の河川敷に到達した時、初めてベイルアウトした。だが、その時の高度は三百メートルを切っていた。これは、安全に降下できる最低限度を下回る高度だ。機体は高圧電線に接触し、河川敷に墜落した。また、高圧線に接触する前後にベイルアウトした二名のパイロットは、いずれも殉職した。――」

 プレゼンを操作しながら語る神崎に、学生たちは無言のまま視線を向けていた。

「この事故のあと、近くの高校の校長が、生徒たちに向けて『もし皆さんが彼らだったらこのような英雄的死を選ぶことができますか』と語りかけたという。もとより、我々は航空機を飛ばす時、なにより安全を重視し、自分も、周囲にも被害を出さないことが第一だ。できれば、このような形で『英雄』になることは避けなければならない。だが一方で、この世界の空軍だろうが、航空会社だろうが、航空機を扱う組織では、常に墜落を含む事故の発生を覚悟し、その発生に備えなければならないのである。

 いいか、諸君はこの先、練習機としてT―7、T―4、さらにその先は戦闘機、輸送機、ヘリ等に分かれて実任務に就く。単座式・副座式を問わず、その操縦席(コクピット)に座り、操縦桿(スティック)を握るということは、自らと搭乗者、そしてそれらばかりでなく、多くの地上にいる人々の安全を預かる身になるということを意味する。その時は、一命を以って幾千もの人命を預かる身になることを今から覚悟せねばならん」

 そこまでいって、神崎司令は次のトピックに移った。

 視線を動かさず、星華は思い出していた。江田島で出会った島村緑が口にした言葉、「なんのために飛ぶのか?」を。

 諦めなければならない夢があった。代わりになる夢が欲しかった。ただ、同じ空への道ということで選んだ航空学生。だけれども、それは想像もしなかった重い覚悟を求められる道だったと、今になって星華は知らされた。

――例え自分が死んでも、数千人を生かす。

その言葉を反芻しながら、星華は、自分の両肩が固くなっているのを感じていた。それだけの覚悟があるのかと、問われていることを知った。

「わたしは……なかったのかも知れない」

 胸のなかで呟いた台詞が、これだった。


     Scene#7 団司令室


 神崎とテーブルをはさんで座る男は、かつて尉官時代に、エレメントを組んでいた相棒だった。しばしかつての戦闘機そして古巣の第305飛行隊の昔話を咲かせたあと、「お前が定年か。早いものだな。――奥さんが亡くなって何年になる?」

「七年だ。癌でな。分かった時には、ステージ4で、手遅れだった。俺の退官はともかく、せめて息子が一人立ちするのを見せてやりたかったが。最期も看取ってやれなかった」

――あの時からだったな。息子が完全に距離を置くようになったのは。大学卒業後の進路も、まったく相談なしに決めていた。

「奥さん、百里にいた事務官だったよな。そういえば、百里で初めて会った時が、随分昔のような気がする」

「そうか、オレには逆に昨日のようだ。しかし、初対面の時のオレ達が、上手く行くなんて、当時誰も思わなかったんだぞ」

「結果は、割れ鍋に綴じ蓋になったがな」

 微笑しながらテーブルの正面に座っている空将栗田洋は、現在航空自衛隊に五つあるメジャーコマンドの一つ、航空教育集団の司令官を務めている。かつての盟友の定年退官行事を執行するため、浜松基地からT―4で飛来したのである。百里時代は、神崎と二人一組で「大政小政」あるいは「キングコングとスパコン」と呼ばれた仲だった。

「あとは頼む。俺は、十年先、二十年先にこそ役立つ人材を育てるつもりでやって来た。そういう将来に、この国を支える人材を、だ」

「鈴木貫太郎大将のようなことをいうじゃないか」

 軍部出身総理大臣としては、最後の例となった提督の名を、栗田は持ち出した。

「真似したんだ。俺は、教育者としての井上成美を尊敬しているのでな」

 昭和十九年、海軍兵学校を訪れた鈴木貫太郎大将は、兵学校長井上成美中将に、こう語っている。

「兵学校教育の真価が表れるのは、二十年後だ」と。

 

     Scene#8 体育館


「本日付で、特別昇任し、退官する神崎空将補を紹介する」

 上司たる航空教育集団司令官が紹介文を読み上げる脇で、神崎は不動の姿勢を保っていた。

 若者が、恋やレジャーやスポーツやアイドルに現を抜かしていられる国は、よい国だ、と神崎は思う。――だが、日本がそういう国になるためには、それ以前において、若者たちが夢や青春、いや人生そのものを擲って銃を執り、飛行機や戦車や軍艦に乗り組み、困難な、時に絶望的な戦いに身を投じる時代を経なければならなかった。日本という愛おしい国を、そこに住む愛おしい人々を、身を挺して守るために。

 神崎の伯父、陸軍軍曹神崎善助も、そのなかの一人だった。戦前、陸軍少年飛行兵を志願した善助は、大陸とビルマを転戦したのち、昭和二十年七月、本土決戦に備える飛行第百十一戦隊(大阪府佐野基地)にいた。終戦末期、資源枯渇・国力払底の悪条件下で開発・生産された機体ながら、信じられない程の高性能を発揮した陸軍最後の主力戦闘機キー一〇〇「五式戦闘機」を装備する部隊だった。F6Fヘルキャット、F4Uコルセアを圧倒し、連合軍最強の戦闘機と呼ばれたP―51ムスタングとすら対等に戦えた機体である。これを装備した部隊は、「五式戦をもってすれば絶対不敗」を豪語した。

「小笠原島西方海面上をP―51大編隊が北上中」の情報に接した戦隊は直ちに出動態勢に入り、やがて戦闘指揮所の信号によって基地を離陸、紀伊半島上空で激しい空中戦に突入した。そのなかで神崎軍曹は、単独でムスタング二機を撃墜し、さらに僚機と共同で二機を撃墜する武勲を挙げ、部隊長から感状を授与された。そして、これが日本陸軍航空隊の歴史上、最後の大空中戦となった。翌八月に終戦。無事郷里に復員した善助は、戦後市井の人に戻り、一介のバス運転手となっても、帝国陸軍軍人として大空で戦った誇りを忘れなかった。

「国は戦争に負けたが、俺は最後まで負けなかった」

 というのが、家族の前での口癖だった。伯父の自慢交じりの体験談が甥の進路選択に大きな影響を与えたことは、いうまでもない。元陸軍軍曹神崎善助は、昭和が終わった年の夏、かつての最高司令官・大元帥のあとを追うようにして世を去った。

「俺は、これから空の近衛兵になる」、「棺には、軍服と航空頭巾を入れてくれ」

 とだけいい遺して。

 ……自衛隊が創設されて間もなく、防衛大学校の一期生が卒業を前にして当時の吉田茂総理の私邸を訪ねた時、こう語られたという。

「君達は自衛隊在職間、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。ご苦労だと思う。

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。一生ご苦労なことだと思うが、国家のために忍び堪えてもらいたい。

自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ」

 俺が入隊してから相当の間、この言葉は真実の時代だったように思える。大きく変わったのは、カンボジアPKOや阪神淡路大震災の頃以降だったのだろう。それまでは、やもすれば不良少年の更生機関のような扱いさえされていたのに、ここ最近では東大を初め、一流大学の卒業生が大挙して、防大卒と並ぶ一般幹部候補生に志願するようにもなった。

 あのような時代が、歴史のなかの出来事として語られる世になっても、日本がよい国となり、そしてそういう国として存続するためには、少数ながら、それ以外の道を選ぶ若者がいなければならない。かつて俺は、十八歳にしてその道を選び、今日まで一筋に歩いて来た積りだ。戦後、日本は一発の弾も撃たず、戦死者を出さず、戦争をしない平和国家だったといわれている。だが、本当にそうか。自衛隊は創設以来、千八百人もの殉職者を出してきた。これは、冷戦という弾を撃たない戦争、抑止という見えない戦争の戦死者ではないのか。オレ自身、訓練のなかで時に僚機ともを失い、自分自身の命の危機も何度か潜り抜けて来た。そういうリスクを敢えて冒す組織が存在し、そしてその実力を外に対して見せつけることで、日本は平和を維持して来たのではないか。オレたちは、現実に戦ってきた。抑止という、勝利が目に見える形にならない戦争を戦ってきたのだ。

 今後の日本がどういう、道に進むかは、これからの世代に任せればよいことだ。オレは、それを担える若者を多数育てる仕事をする機会を得た。もう彼らに任せよう。後輩たちは、どのような任務を課されようとも、きっと立派にやって行けるはずだ。今日までの人生で、喜ばしいこともあった。腹の立つこともあった。哀しいこともあった。楽しいこともあった。すべては今日、あの空に置いて来よう。若人たちよ、飛翔せよ。

「退官団司令挨拶。指揮者のみ敬礼」

「休ませ」

 空将補の儀礼肩章を装着した神崎の、自衛官人生で最後の訓示が始まった。

「――最後に、私自身の思い出を語ることをお許し願いたい。戦闘機部隊に配置になり、初めて夜間飛行を経験した時のことである。戦闘機のコクピットから地表を見下ろした時、そこには多数の灯が見えた。私は、それに感動した。自分がなにを守っているか、実感できたからである。一億二千万国民の幸福の一つ一つがそこにあった。そして、自分たちがそれを空から守っているのだと知ったのである。

 後輩諸君。一億二千万国民の灯す明かりを守り続けること。これこそが諸君の責務である。そして、この責務は今後、重くなることはあっても、軽くなることは決してない。そのためには、練磨無限。妥協するな。常にベストを目指せ。――以上を以て本職の最後の指導とする。

 諸君、ありがとう!」

 退官者と学生・基幹隊員の間で、最後の敬礼が交わされた。


     Scene#9 団本部隊舎


 団本部正面玄関から、正門までの道に、人の列ができている。女子職員から手渡された花束を左手に抱えて、神崎空将補は歩みを進めた。基地のスピーカーからは、神崎の好む隊歌「蒼空あおぞら遠く」が放送されている。

 学生も、職員も、拍手で去り行く司令を見送っていた。彼はこれから、東北の人口希薄地で、ドクターヘリの運行責任者となることになっている。自らスティックは握らないが、結局空とは縁が切れないのである。一人息子は希望通り運転士への切符を手に入れ、間もなく講習に入る。いずれJR東海で、新幹線の運転席に座るだろう。もはや、なにも憂うることはない。

 ――そういえば、昔『喜びも悲しみも幾歳月』という映画を見たな。俺の人生も、あんなもんだったか。

 灯台から灯台へ、日本中の海の安全を守る男とその家族の半生を描いた映画を思い出していた。海上保安庁に入った高校の同級生から、一方的にビデオを送り付けられた映画だったが、視ているうちに、すっかり主人公に共感するようになった。

 ――あいつも、大分偉くなっているようだ。羽田特殊救難基地長を務め終えて、海保大訓練部長になったらしいからな。

 正門では、小銃を手に警衛隊員が待機していた。

 警衛所の正面で、神崎は停止して、正対した。

「ささげ―、銃」

 隊長の号令で銃礼が行われ、神崎が答礼する。そのあとで、神崎は基地内の掲揚塔に翻る国旗に、現役生活最後の敬礼を行った。

 見送る隊員たちの間から、拍手が沸き上がった。神崎は、正帽を右手に取り、図上で大きく円を描くように振った。別れの挨拶だった。この日、一人のパイロット――TACネーム「アイアン」が、永遠にその翼を畳んだ。総合計飛行時間は、三千百十時間である。

 ――一億二千万国民の灯す明かりを守り続けること。

 拍手を送りながら、星華は(あるいは他の学生たちも)神崎の訓示を思い返していた。

「自衛隊でパイロットになるということは、つまりこれを守るということなのかも」

 江田島で、島村緑に突き付けられた設問に、まだ自信はないが、星華は一つの答えを見つけたように思えた。

「二列縦隊、集まれ!」

 勤務学生の腕章を付けた星華が、同期の区隊学生に対して号令をかけた。本日の教育が始まる。

 既に三月初旬である。入隊から間もなく一年が経つ。階級は一等空士になっていた。

「目標教場。前へ、進め」

 行進の指揮も、最近はミスせずに行えるようになった。

「内務班長の指導も、効果が揚がっているようだな」

 少し離れたところから注視する加藤区隊長の感想に、受け手は、

「お褒め頂き、恐縮です」

 と、いささか恐縮とは反対のニュアンスで答えた。

「区隊長としては、感謝せねばならんな。俺も、女子を教育するのは、なにしろ初めてだった」

 そして、加藤はいささか緊張して次のセリフを口にした。

「――具体的な形で礼をさせて貰えないか。パスタとかの美味い店でよければ」

 昔、偶然に水野の好物を知っていたことが、この時役に立った。

「よろしいですわ。楽しみにさせて頂きます」

 そう答えて、水野は靴音高く先に歩き出した。加藤は、内心安堵の息を漏らした。間もなく次期学生が入隊して来る季節である。


     Scene#10 下関市街


 列車は、スピードを落として下関駅のホームに滑り込んだ。停車の少し前に、玲子の携帯音楽プレーヤーではサザンオールスターズの「蛍」の再生の途中だった。ピンク色のワンピース姿の玲子を先頭に、落ち着いたブラウスとスカートの星華、そしてデニムの上着とジーンズのケイは、一列になって電車から降りた。簡単にいえば、ガーリーなのが玲子、コンサバ系が星華、ボーイッシュなのがケイである。実際、三人揃って同年代の女性としては水準以上の外見である。特に玲子は女子高生時代、何度か少女向け雑誌の表紙を飾っていた。自分が異性の注目の的となることに喜びを覚える点で、玲子も若い女の例外ではない。今日も、男子学生一同の追尾を振り切るようにした外出したのだった。星華たちについて、例えば男子学生の会話は次のようなものが交わされている。

A「藤堂は、やっぱ別格だよな。ルックスも話し方も女王様そのもの」

B「なんだよ、お前、そんな趣味があったのか?」

A「変に受け取るな。単にパーフェクトな女だという意味だ。おまけに、親父が次の空幕長だろう。ゲットすれば、出世間違いなし」

C「そういうがな、藤堂に接近して撃墜された奴は、先任期含めて、もう十人くらいいる。それも、不快感を与えないお上手なやり方で、『ごめんなさい』だ」

B「手ごわいな。天辺はどうだ」

A「あれは、モノホンのお嬢様。母校が湘南鎌倉女子、全国でも指折りのお嬢様校だぜ。母親からして、オールジャパンエア《AJA》の元CAだとよ。よく分からないが、天辺自身も、本当はCAになりたかったらしい」

B「おっとりしていて、おとしやかで、上品で、おまけに天然で、藤堂が女王様なら、こっちはプリンセスか……いいよなあ」

C「山之内、あれもたまらん。ハーフでエキゾチック、ワイルド、そのくせ中身は情が厚いからな」

 改札を出ると、直行するのは駅近くのファミレスである。基地内では売店の菓子くらいで我慢しているが、外出時には若い婦女子の欲求に従って、まずはスイーツの補給に取りかかる。

「季節のフルーツパフェ、パンケーキのホイップクリームがけ、それからプリンアラモード」と、タッチパネルを操作した玲子。三人のなかでは、とかく一番甘味を補給するのが彼女である。なお、このあとで普通の昼食も当たり前のように胃に収める。普段の基地での食事量も三人のなかでは最大なので、正直、星華とケイとしては、体育で消費するカロリーを計算に入れても、これで玲子のボディラインが崩れないことが不思議なのである。

「ベイクドチーズケーキ」

 星華は、ささやかな注文をした。元から余り大食いではなく、体重には他の二人よりずっと気を使っているのである。

「アップルパイと苺のソルベ!」

 中間となる量がケイだった。スイーツの到着を待つ間、ドリンクバーから飲み物を持って来たあとで、三人の話題は最近の男子学生からのアプローチとなった。なにしろ、最も多感な年齢の青年が一カ所に押し込まれて教育に追いまくられるのである。貯まる一方のストレスと強いられる忍耐の発散は、自然と三人しかいない同期の女子学生に、(今のところは)映画だの食事だの観光だの誘いといった形で向けられる。最初は辛く当たっていた先任期学生すら、少しすると星華たちに攻撃を仕掛けてくるようになった(それも、当初は厳しい態度を取った学生ほど、積極果敢に)。先任期は二人いた女子学生が体力や健康面の理由で課程免されたので、女子が皆無なのだった。要するに、基地内の星華たちは、飢えた狼の群れに囲まれる仔羊三匹に等しいのである。

「一区隊の永井学生から、一昨日、映画に行こうって誘われました」

「しっくでなー、あい。先週は、あたしにモーションかけてきたよ。永井って、団本部の女子職員にまで頻繁にチョッカイ出しちょっそうじゃっで」

 いかにも色男を気取る同期男子の名を、ケイは不愉快極まる調子であげつらった。このような男たちに対する酷評は、彼らの注目を浴びているという女特有の満足感の裏返しかも知れない。三人とも、「うざい」という感情の裏側で、同世代の男子の視線を集めていることに、(女なら誰でも抱く)喜びを覚える面があったのも確かである。ウェートレスが両手に注文されたスイーツを手に運んでくると、

「この点は、お局さまのいっていたとおり。確かに右も左もオオカミばっかり」

 と、目の前のパフェをすくいながら、玲子は指摘した。入隊以前から玲子には予備知識があったが、世界的に現代の軍学校とか新兵訓練所(ブートキャンプ)では、教育される者同士の恋愛こそが教育する側にとっての最大の頭痛の種なのである。現代では、世界中どこの国も、男子だけでは軍隊組織の人的補充は成り立たない。後方勤務だけでなく、戦闘職種でも女子を使わざるを得なくなっている。それ故に、似た境遇の男女を接近させざるをなくなり、教育にも悪影響を与えるのである。教育開始に先立つオリエンテーションで、区隊が解散後、女子三人だけが残るよう内務班長に命ぜられたことがあった。星華たち三人だけが残留した教場で、魔女は次のように宣告した。

航空学生課程ここにいる間、男はみーんなオオカミ、恋愛こそ最大の敵だと思いなさい!」

 ――最大の敵は、あんたよ、あんた!

 というのはケイの心のなかの声であるが、一切お構いなく水野二曹の弁舌は続いた。

「航空学生に限らず、防府南の航空教育隊でも、教育期間中に恋愛に溺れて我を失い、教育に身が入らなくなってドロップアウトする例があります。これは、なにも空だけではありません。陸も海もです!」

 陸自では、最近の女子の採用増加によって教育部隊を同じにせざるを得なくなっているが、昔は朝霞駐屯地の婦人自衛官教育隊のみで行っていた。今日でも、同じ教育大隊のなかでも、中隊を別にするようになっている。なお、海自横須賀教育隊における女性自衛官隊舎「海桜館」の別名は、〈魔女の館〉である。

「もし、あなたたちが本気でパイロットを目指すなら、せめて航空徽章(ウイングマーク)を付けるまでは、恋愛を避けなさい。でないと、後悔するのは自分です!」

 ――実感が、こもってますわねぇ。

 と、ケイは無言で混ぜっ返した。のちに、既に水野二曹が航空学生修了後に、飛行幹部候補生を課程免エリミネートされ、気象職種に転換したと、学生の間では噂が流れていた(これは事実である)。玲子は「当然、知っています」と感じていたし、星華はまだ実感が持てなかった。高校生までの段階で、星華に恋愛経験がまったくなかったわけではない。ふとしたことで知り合った男子校の生徒とそれらしき交際をしたこともあったし、キス程度は経験もあった。――但し、不意のキスに、動転してその直後に相手を突き離して逃げ出し、交際もそれっきりになってしまったが。

 スイーツを平らげると、三人は店を出て市内の散策に移った。ウインドウショッピングやら映画鑑賞やら食事やらで、夕方まで潰すのである。申請すれば外泊も認められるが、門限までに防府北基地に帰るのが一般的だった。

 だが、最近、ケイは途中で二人から離脱することがあった。

「悪い。あたし、野暮用があるの。二人で先に帰って り。あたし、野暮用があっと。二人ふたいで先にもどっ」

 腕時計で午後三時1500になったことを確認すると、ケイはそう断って二人を置いて、いそいそとその場を離れた。かなりの速足で。

「やっぱり……」

 悟ったかのように、玲子はケイのうしろ姿を見て呟いた。

「飛田学生でしょうか」

「それ以外に、考えられないな」

 星華が口にしたのは、同期のなかでも最優秀の男子学生の名だった。そして、二人の憶測は間違っていなかったのである。その日、ケイは何回目かの外泊を申請していた。男子学生の間でも、最近は「山之内は止めとけ。もう、あいつは飛田が王手をかけている」といった会話が交わされていた。

 ――

 あたしは、本当なこんな島国の田舎空軍に入るつもりはなかったのよ! あたしが入りたかったのは、合衆国空軍。何人にも追随させない《No one comes close》、グローバルリーチのUnited States Air Forceよ!

 アメリカの経営大学院ビジネススクールに留学して卒業後は多国籍企業で働いていたパパと、同じ会社にいた南部生まれ《サザンベル》のママに連れられて小学校に上がるまではアメリカ、それから中学を卒業するまでは日本、そしてハイスクールの間はアメリカで暮らした。ニューヨークのハイスクールではチアリーディングをやって全米選手権で準優勝したし、同じ学校でアメリカンフットボール・チームのクォーターバックだったニクラウスが、「一緒に空軍士官学校に行こう」と誘ってくれたから、あたしもその気になった。パパは日本人のままだったし、あたしはまだ日米二重国籍で、パパが「日本国籍を放棄するまでは、お前たちはまだ半分日本人なんだから」といって、家のなかではあたしや弟のジョーには日本語を使わせた。でも、あたし自身はもうアメリカ人になったつもりだった。ニクラウスの父親の知り合いの上院議員が、ニクラウスとあたしを士官学校に推薦してくれることになっていた。

 それなのに、あの中国系が! 政治献金にモノをいわせた中国系が、あたしの推薦枠を横取りして行ったのよ。ニクラウスが一人でコロラドスプリングスに行くのを、あたしはただ黙って見送るしかなかった。ニクラウスは、「大学で予備将校訓練課程ROTCを受ければ、将校になれることに違いはない」といって慰めたけど、あたしはもうアメリカという国に、その時点で白けてしまったわ。合衆国ステーツを祖国と信じ、祖国に尽くそうという人間から、カネが理由でその機会を奪った国に。

 そして、少しして思い出した。もう一つの祖国が、あたしにはあったということを。ハイスクールを卒業して、消極的な両親を説得し、あたしは一人で日本に帰った。そしてアメリカの市民権を放棄して、完全な日本国民になった。鹿児島にはパパの兄が暮らしていて、子どもがいなかったからそこに転がり込んだ。伯父夫妻は土地の名士で手広く事業を営んでいたから、あたしを跡取りにしようと思ったのか、歓迎してくれた。伯父さんたちには悪かったけど、あたしは二年間日本語の復習と航空学生の受験勉強に費やして、帰国した翌年に合格した。伯父夫妻は、少しは落胆したかも知れないけど、最終的には合格を祝ってくれた。鹿児島では自衛隊の地位が高かったし、義理人情に篤い性質だったからかも知れない。今でも、伯父さんたちには本当に感謝しているし、申し訳ないと思っている。……

 二回目のデート、二人だけの場でケイは、アメリカ帰りの自分が、なぜ航空学生に志願したかを飛田に語っていた。誰にも知られていない(と、当人たちは思っている)仲は、急速に深まっていった。

 ――

 オレは、親父に半ば強制されて陸自の高等工科学校入ったんだ。戦前から代々軍人で、親父も防大卒の二佐。だから息子のオレも自衛官以外の道を認めようとしなかった。内心不満だらけだったけど、親父に逆らう勇気が持てず、武山に行った。だけど、そこから先は、もういいなりになるのは嫌になった。卒業後、陸自に行かず、空自の航空学生になったのは、せめてものオレにできる反抗だった。

 ケイは、飛田のライフストーリーを聞かされた。そして、今回はある決意を、打ち明けられた。

「オレは、航空学生を辞めようと思う」

 ホテルのロビーで送迎バスを待っている間に、飛田はいった。

「本気なの? 省吾」

 真剣な眼差しを向けるケイに、省吾は肯定した。

「本気だ。明日、区隊長に申し出るつもりなんだ」

 飛田の顔を見て、ケイはたたみかけた。

「辞めていけんすっと? 行先はあっと?」

「ある。航空大学校に行こうと思っている」

 航空大学校は、宮崎県に所在する国土交通省所管の独立行政法人である。分かり易くいえば、公設の民航パイロットの養成機関で、卒業して事業用操縦士の資格を得れば、民間のエアライン・パイロットの道が開かれる。但し、学費は(他の民間パイロットへの道に比べれば)少額だが必要だし、少なくとも大学を二年生まで履修していることが受験資格だった。これから二年間、働きながら通信制の大学で勉強する。航大の学費は、生徒一学年の頃から貯金して来たので確保してある。そこまでいって、

「一緒に来ないか?」

 と、省吾は最も重要な提案を行った。

「一緒に航大に入って、民航機に乗ろう。機長(キャプテン)に昇格すれば年収一千万円、二人なら二千万だ。リッチな暮らしができるぞ。――このまま自衛隊にいたら、結局は親父の思い通りだ。もう、それは嫌なんだ」

 ケイは即答しなかった。

かんげさせっ。ぽかっとは答えられんから」そして、「バスの時間よ」

 そういったのち、二人はバッグを持ってソファから立ち上がった


     Scene#11 防府北基地・助教室


 ケイの苦難は、その日の夕方、防府北基地に戻ったあとで訪れた。内務班に戻ったケイを、魔女が呼び出したのである。助教室に入ったケイに、魔女は、外で誰も聞いていないことを確認した上で、

「いったはずです。恋愛は敵だと!」

 と早速極太の釘をケイの胸に打ち込んだ。ゴジラと化した魔女の口からは、毒に満ちた(とケイには感じられる)台詞が次々と吐き出された。既に、魔女はケイと飛田が男女の仲になっているという情報を掴んでいたのである(なお、区隊長にも報告されている)。

「――でも班長、恋愛は、個人の自由だと思います」

 ケイは標準語に戻り、なんとか反撃に出ようとしたが、一般論しか口にできない。魔女の口調は、既になにもかもお見通しという自信にあふれていたからである。

「恋愛は自由……ふーん。確かにそうよね。やるべきことをやっていたら。――でも、最近の山之内は、明らかに成績が落ちています。これをどう説明するの?」

 これには反論する方法がなかった。当人が認めざるを得ない客観的事実だった。実際、授業の最中も、夜間の自習時間も、省吾のことが頭から離れないようになっていた。ケイは典型的な罠にはまりつつあった。

「このまま成績が落ちて行ったら、……分かるわよね」

 魔女は、最後に刃を突き付けた。学生の本分を犠牲にした恋愛は許されない。その肝心な部分は、ケイにもいわずとも分かっていた。

「帰ります」

 強引に、ケイは助教室を出た。下を向いたまま居室に戻り、ベッドに伏せて声を押し殺して泣いた。近く、自分は航空学生の道か、飛田省吾のどちらかを選ばざるを得なくなる。飛田の「一緒に民航機に乗ろう」という言葉が、退職と求婚を意味することは明らかだった。既に、ケイにとって省吾の存在は、かつてのニクラウス以上に大きなものとなっている。別れること、別の道を歩むことを考えれば、胸は張り裂けそうになる。

 ――省吾。あたしはもう、おはんのものじゃって……

 しかし、それならアメリカを捨てたのはなんのためか? 祖国と信じたアメリカを捨てて、選んだ道も、今となっては捨てることが出来そうになかった。

 一方、学生に一方的に脱出された魔女にも、苦痛が訪れた。助教室のドアが閉まった直後、急な痛みが、胸を襲ったのだ。半年ぶりの発作だった。机の上に左腕を立てて上半身を支える間、急いでポケットからメプチンスプレーを取り出し、口に当ててガスをのどの奥に向けて噴射した。少しして、痛みと苦しさは去った。悄然として、魔女は椅子に腰を下ろした。

 ――まだ、治っていなかった……

 飛行幹部候補生の地位を失わせた病魔は、魔女の体に憑りついたままだったのだ。

 ――

 飛田省悟の意志が固いと分かると、区隊長も学生隊長も、続けていた説得を諦めざるを得なくなった。そして、退職は承認された。彼が防府北基地を去る日は、朝から雨が降っていた。


     Scene#12 女子学生内務班


「いいの? 見送らなくて」

 と星華が尋ねようと思った時、ケイが先に口を開いた。

「天辺、あたしの肩を押せかていてくるっ?」

「ケイ……」

 当初、星華には直ぐに意味が分からなかった。

わんように。あたしが」

 星華は、求められるとおりにした。雨は、止まずに降り続いていた。

 ――あたしは誓った。この国の空を守るパイロットになろうと。だから、彼を追わない。

 ケイは、自分にそういい聞かせていた。涙を流しながら。


     Scene#13 修了式


 二年間の航空学生課程にも、終わりがやって来た。

 三月下旬、修了式が挙行される。最初の試練を潜り抜けた七十四名は、飛行幹部候補生を命ぜられた。

「申告します。――」

 飛田の去ったのち、学生長を命じられたのは、玲子だった。航空学生の歴史上、初の女子の学生長である。

 式典の終わったあと、体育館の片隅で三人の女子学生は内務班長を囲んだ。玲子が代表して述べた。

「班長、これまでのご指導、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 それを聞いた水野にも、こみ上げてくる感情があった。

「三人とも、よくやりました」

 二年間の月日は、両サイドのどちらにも辛いものが多い日々だった。

 教育の一つ、断郊競技会も、そうした思い出の一つである。背嚢を背負い、右手に木銃をつかんで何キロものアップダウンがあるコースを走り、タイムを競うのである。課程中、最も厳しい課目だったというのが実感である。

 女子三人でチームを組み、ピストルの音でスタートを切った。まず抜かれ、抜き返し、また抜かれを繰り返した。

「がんばれー!」

「あと少しだー!」

 ゴールの百メートル手前で三位に返り咲き、そのまま走り切った。三人は、一つになって泣いた。

「私にも、パイロットの夢がありました。でも、飛行幹部候補生となった直後、気管支喘息を発症して、挫折したのです。そのまま負けたくなかったから、気象職種の道に進み、気象予報士の資格を取って気象員となりました。――教え子には、絶対そういう夢を捨てる目に遭わせたくなかった。だから、嫌われるのを承知で厳しい指導を行ったのです。自分のようなエリミネートは出したくない。ただ、その一心であなたたちを指導したつもりです」

 水野は、涙をこらえているようだった。

「藤堂。あなたの能力が高いことは認めます。でも、誰でも完全はありません。今後も、常に学ぶことを忘れないように」

 玲子は頷いた。

「山之内。一時はどうなるかと思いました。けど、よくやりました。これからもパイロットになるまでは気を引き締めて。――そして、天辺」

「はい」

「私の指導どおりやり遂げましたね。立派です」

 水野は、星華の体力が著しく向上し、体力測定で二級に達したことを称賛した。

「あなたたちのなかからは、戦闘機に乗る者も出るかもしれません。そうなったら、開拓者です。三人とも、胸を張って行きなさい。私は、あなたたちが立派な飛行幹部候補生になると信じています。以上!」

 玲子が号令を発した。

「気を付け!」

 残る二人も、不動の姿勢を取った。

「内務班長に敬礼!」

 三人からの最後の敬礼に、水野も見事な敬礼で答えた。

「ありがとうございました!」

 三人の声がシンクロした。

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