Wing Ladies--わたしたちは、今日も大空にいる。

土門康平

第1話 離陸の春

   Scene#1 航空自衛隊防府北基地


「最集弾落下、いまー!」

 助教・山下二曹の声に続いて、火工品が大きく空気を吹き鳴らす音が聞こえる。

「第三班、突撃にー、前へー!」

 一斉に航空学生たちは身を起こした。六四式小銃を前方に構え、引き金を引く。空包が轟き、衝撃が撃った者の耳を突き抜ける。煙が硝煙の匂いとともに吐き出されて、それが顔を覆う。薬莢が薬室から弾き出される。

「わあー!」

 銃剣を煌めかせ、学生たちは小銃を両手に構えて走り出した。目標は目前である。

 学生たちは再び伏せ、銃を前方に構え治す。お約束通り。やっと終わりだ。解放される。

「状況おわーり、安全装置、銃置け。その場に立て!」

 八人は土埃だらけの体を起こした。銃の二脚を立てて地面に置いた天辺星華あまべせいかは、銃に手を伸ばし、銃剣を外そうとした。指先が触れようとした瞬間、

「馬鹿もん、天辺学生、まだ空包たまが入っとるんだぞ!」

 厳しい叱声に、星華は体を硬直させて手を引いた。

「はい、済みません!」

 精一杯の声で、星華は叫んだ。答える、というより叫ぶ。野外ではそれがコツだと学んでいた。

「弾抜け、安全点検!」

 右ひざを地面に付け、槓桿こうかんを手前に引くと、未射撃の空包が引き出された。弾倉を外す。銃剣を外すのは、そのあとである。

「剣取れ!」

 一連の安全動作を終えると、三個班に分かれていた学生たちは整列を命ぜられた。

「どうした、元気がないぞ!」

 助教の声は容赦ない。数百メートルを、射撃と交互の躍進で前進し、第一から第五までの匍匐前進、最後の突撃。それを数セットやらされて――元気もなにもあったものじゃなかった。学生たちは皆肩で息をし、顔面は土埃の混じった汗に濡れていた。

 整列した二十五人の学生たちを前に、仁王立ちになった区隊長・二等空尉加藤大介は大声で宣告した。

「攻撃失敗! 第三区隊全滅! なぜだか、分かるか?」

 両目を大きく見開いて、区隊長は申し渡す。

 ――これで終わりだと思ったのによー。

 ――勘弁してくれー。

 というのが聞かされる学生たちの本音だが、彼らも表情には出してはならないと、既に学習済みである。星華も「これで終わりと思ったのに……」と同じ気持ちだったが、左右に習う。

「突撃発起までの間、敵方を確認していた者がどれだけいたか? 挙手」

 そういわれて、右手を挙げた学生はいなかった。

「間もなく突撃という時、目標の方向をしっかり確認しておかなくてどうするんだ! いいか、敵は我が方を睨んで、バンバン撃って来る。立ち上がったら、撃たれる前にそういう敵を見つけておいて、先んじて撃つ! でなければ、突撃は成功せん。お前たちはパイロットになるから、これがただの体験学習だと思っていたら大間違いだ。ベトナム戦争では、アメリカ空・海軍のパイロットは、持てるだけの小銃や拳銃、そして弾薬を携行して出撃した。敵支配地域の上空で撃墜されたら、無事落下傘降下したとしても、味方に合流できるまでの間、自分で戦って血路を開かにゃならなかったからだ。銃を持って自分の体で戦えない者は、それだけでパイロット失格である。突撃動作を、再度演練する」

 星華も、他の学生たちも、「ラオウ」こと加藤区隊長の宣告に一様に肩を落としたのはいうまでもなかった。

 ――

「控えー、つつ!」

 加藤区隊長の号令が響く。訓練場から隊舎までハイポートだ。四キロ以上もある銃を両手に抱えて、走らなければならない。これがまた厳しい。

「イチ、イチ。イチ、ニ、ソーレ!」

「連続歩調、チョーチョーチョー、トレ―!」

 いつもながら、星華にはこれが辛かった。戦闘訓練よりも。脚力だけならまだしも、両手に鉄の重い筒を構え、声を限りに挙げなくてはならない。鉄帽が脳天に食い込んで、ギリギリ痛む。男子ですら顎を出すのである。うっかり口を開かないと、それだけで叱責される。

 ――わたし、今、なにをやっているんだろう……

 愚痴は、心のなかでもいわないつもりだった。それでも、去年の春までは想像もしなかった毎日が続くと、疑問は押さえきれなくなる。

 ――飛行機に乗るために、こんな訓練が必要なの?

 顔を、汗が流れ落ちる。そして、目に入って痛い。開けていられなかった。

「声がちいさーい!」

 星華は、疑問を振り払い、声を絞り出すようにして叫んだ。

「イチ、ニ、ソーレ!」

 星華は、泣き出す寸前だった。

 ――あんなことがなければ……

 今頃は、きっと第一志望の女子大のキャンパスで、スイーツやドリンクを前に、友達と楽しい会話を交わしながら、将来への夢を膨らませていたのに。

 

     Scene#2 湘南鎌倉女子学園校門


「募金をお願いしまーす」

「九州大震災の救援募金をお願いしまーす」

 校門付近で呼びかける星華たちに、下校して行く女生徒たちは、ある者は気前よく紙幣を両手で支えられた箱のなかに投入し、別の者はお付き合い程度の小銭を落とし入れていった。それでも、二時間で募金箱はそれなりの重さになった。湘南鎌倉女子学園は、基本的に低所得者層の子女は通っていない。星華の同級生たちは、親が国会・県会議員とか、経営者とか、医師とか、中央省庁のキャリアとか、法曹とか、簡単に表現すれば上流家庭の娘が大多数である。星華の家も同じだった。

「もう四時半、そろそろ終わりにしましょうか、先輩」

 隣に立つ高等科で一学年下のカーチス春陽が声をかけた。彼女の父親は、来日二十年のアメリカ人渉外弁護士である。妹で中等科二年生の沙菜は中等科薙刀部のエースで、去年の県大会新人戦で優勝し、「湘鎌の紅い彗星」と呼ばれて、注目を集めていた。頭髪が父親譲りの赤毛故である。十分豊かな家柄だが、そういうところを表に出さないあたりが、本当の育ちのよさを表している。生徒のなかにはいわゆる成金の子女もいるが、そういうのに限って、高校生には身分不相応な所持品を携行していた。

「そうね。もう十分貯まったし。生徒会に預けて、帰ろう」

 星華も、特徴である大きめの両眼をくりくりさせて同意した。石造りの校門をあとにして、花壇の続く石畳の道を校舎に向かって進んだ。この花壇の手入れは中等科生徒の役割で、当然星華たちもやったのだが、結構面倒な仕事なのである。

 三日前に発生した九州中部一帯を襲った九州大震災の被災地に、義援金を送ろう――臨時生徒会の議決によって各クラスに募金係が割り振られ、毎日授業が終わると校門に立つことになった。そして、今日が星華と春陽の番だったという次第である。数十分後、帰り支度をして肩から学校指定のバッグ(これが、実は近隣校に対するステイタスシンボルなのである)を下げた星華と春陽は、校門を出て若宮大路を右に折れ、一の鳥居の脇を過ぎて、由比ガ浜海岸を目指した。左に曲がってJR鎌倉駅を目指してもいいが、少し海を見て行きたかった。星華は海を見がてら一緒に歩き、そして江ノ電経由で帰宅するつもりだった。

 観光シーズンが到来していない海辺は、閑散としている。歩道を行く人はいるにはいるが、道路は混んでいない。ゴールデンウイークや真夏の渋滞が嘘のようだった。

 潮風が、気持ちよく頬を撫でた。思わず春陽が、

「――いいお天気ですね」

 というと、星華が応じた。

「ええ。本当」

 去年から、自宅にいると正直、気分が滅入ることが多かったから、春の蒼空が暗くなった彼女の心を染めて、明るくしてくれるような気がした。海岸に目をやると、波の上をウインドサーファーが滑っている。空には鳶が舞っていた。しばらく食べていないので、本当なら鎌倉駅西口の紀ノ国屋で、好きなカーラントローフとかを買って帰りたかったが、今は、贅沢はできない。ポケットのなかにそれだけの小銭はあっても、精神的に。

 ――わたし、これからどうなるんだろう。

 去年の夏の事故が、彼女の人生を大きく狂わせた。オーストラリアでのホームステイを終えて、成田空港から帰る途中だった。リムジンバスが、逆走して来た車との接触事故を起こした。死者は出なかったが、不幸にも星華は左腕の肘から先に10センチばかりの裂傷を負ってしまった。

「残念ですが――」

 医師が告げた事実は、小学生の頃からの夢を一瞬にして打ち砕くものだった。

「わたし、お母さんのような客室乗務員になりたい」

 と星華が最初に口にしたのは、小学校四年生の時だった。母は、民間エアライン大手のオールジャパンエア《AJA》で国際線に乗務する客室乗務員CAだった。物質的にはまず不自由することなく、精神的にも一人娘として両親の愛情を注がれて育った。家は豊かだったが、かといって不必要に甘やかされることもなく、躾はきちんと行われた。その甲斐あってか、大学在学中に公認会計士試験に合格するという秀才ぶりを示した父親の知性と、会社一と称された母親の優美さを兼備したといわれ、成績もよく、友達にも恵まれ、幸福そのものの生活だった。小学校こそ地元の市立校だったが、中学からは母が卒業した湘南鎌倉女子学園に通い、将来は母と同じ女子大を経て、同じく一流エアラインの客室乗務員になるのが夢だった。

 それまで仕事と家庭を両立していた母は、娘が小学三年生の時、客室乗務員の職業病ともいえる腰痛を発症し、完治の見込みは薄いと知った。彼女は完璧なサービスができないことを悟り、退職を決意した。それほど後輩たちに厳しかった母は、自分にも厳しかった。当時、悪名高き「尼将軍」の引退を知り、一堂に会して祝杯を上げた若手CAは、十人を下らなかったという。そして、母がいよいよ現役を引退して退社する最後のフライトである成田・ハワイ便に、星華と父を招待してくれたのである。ファーストクラスで乗客の接遇に当たる母の優美で(乗客には)親切な姿は、娘の心に強い印象を残したのだった。それ以前から、星華は空や飛行機に興味を持っていた。母からは仕事の体験だけでなく、飛行機を初め色々な空の雑学を聞かされて育った。そうした環境で、星華にはぼんやりとした「お空の仕事」への興味が植え付けられていた。しかし、その時から、少女の夢ははっきりしたものとなった。わたしも客室乗務員になる。きっとなる。国際線に乗務して、色々な国へ行く――そう思った。そうなると、信じて疑わなかった。高校二年の春のあの日、左腕に治療不可能な傷跡を負うまでは。

「そんなのうそ! うそ!」

 客室乗務員は、ただでさえ競争率の高い人気の職業であるが、身体的外傷は採用試験で決定的に不利になる、と母が告げた。例え事故による外傷であっても、他の身体機能に異常はなくても、採用されない――そう知らされて、病院のベッドで、星華は泣きじゃくった。だが、母が気を取り直すように諭しても、時間が経っても、現実は変わらなかった。

 退院後、いくつもの整形外科の専門医に受診したが、傷跡を完全に治すことはできないという結果は、動かなかった。僅かな望みを抱いて受けた三回目の診断も結果は変わらず、自宅に帰ってから、星華は自分の部屋に戻るなり、ベッドに倒れ込んだ。そして、大きな声を挙げて泣き出した。小学生の時からの夢が、本当に音を立てて崩れて行くのを感じていた。机の上に、何冊もエアラインの世界へ就職する方法を解説した本や雑誌が並んでいる。大学生になってからでも遅くはなかったが、一日も早く読みたかった。英語は必須だから、小学生の頃から英会話を習って、海外のホームステイにも何度か行った。立ち居振る舞いも大事だと母に聞いて、それを身に付けようと、毎週市内のバレエ教室にも通った。旅客機内でミールカートを押しつつ、乗客の求めに応じて快くドリンクやミールをサービスする自分、ファーストクラスで、英語の他にもフランス語とかも使いこなして乗客をもてなす自分、空港の通路を、キャリーケースを手に引いて闊歩する自分……そういう心に描いていたシチュエーションの数々が、すべて幻になってしまうかと思うと、流れ出る涙が止まらなかった。

 ――わたしの夢が、もう、おしまい……

 綺麗なばかりの世界じゃない。イメージされるより薄給だし、現実のCAは肉体労働者で、「空飛ぶウェートレス」だということも聞いた。女の世界特有のドロドロした話は数限りなく、離職率も結構高くて、意志が強くないと続かない職場だとも聞いている。それでも、どうしてもなりたかった子どもの頃からの夢だった。

 泣くばかりで眠れない夜が明け、そしてまったく気の進まぬまま学校に行き、帰って来てまた自室に閉じこもった。表面だけでも正常に戻ったのは、数日後だった。そして、状況に光が差さないまま、一年近くが経過し、三年生の高校生活がスタートした。

 ――目の前を湘南街道・国道一三四号線が東西に伸びていた。星華と春陽は、歩行者信号が変わるのを待っている。ふと目を右方向に向けると、見慣れない深緑色の車両が三浦半島方向から近付いてくる。彼女たちには分からないことだが、73式小型トラックパジェロを先頭に、中型トラック、そして水タンクやトレーラーを牽引した大型トラックで編成された十数両の車両縦隊だった。縦隊は、星華たちの目の前を通過し、江ノ島方向に走り去って行った。

「横須賀の自衛隊だ、きっと」

 春陽が呟くようにいった。「九州の被災地に行くんですよ、先輩」

 これは二人の知らないことだが、横須賀市の武山駐屯地に所在する第三十一普通科連隊から差し出された部隊であった。東部方面隊から派遣される第二陣の一部に指定されてあわただしく出発し、部隊の集合地点である富士駐屯地に向かう途中だった。トラックの車体の側面には、「災害派遣 第31普通科連隊」と黒字で染め抜かれた、畳を二畳半くらいは横にしたと思える大きな白い幕を括り付けていた。

 この時の星華にとって、自衛隊はほとんどまったく関心の外にある存在である。近くの横須賀市にはいくつかの基地がある、という程度の認識しかない。この年頃の女子にとっては、別に不思議な話ではないことではあるが。

「そう、九州へ行くんだ」

 と、これも想像を言葉にして返した。

「聞いたんですけど、うちのクラスの尾崎さん、叔父さんが埼玉の自衛隊のとてぉっても偉い方で、やはり派遣されるんですって」

 星華にとっては、余り馴染みがあるとはいえない生徒の名前を、春陽は口にした。

「大変そう。ご無事で戻っていらっしゃればいいけど」

 関東・甲信越を管轄する東部方面隊管内からは、既に第一師団、第十二旅団、そして第一施設団を中心に数千人が派遣される途上にあった。海上自衛隊、航空自衛隊も部隊派遣が進められていた。いずれも、彼女たちが預り知らぬ情報ではある。

「ゴキ、先輩」

「ゴキ」

 春陽の自宅は、鵠沼の高級住宅地にある。江ノ島駅で別れのあいさつを交わして、星華は、春陽と別れた。学校では別れのあいさつとして「ごきげんよう」を使うよう指導されていたが、生徒たちの間では、このように簡略化されていた。道路を渡って湘南モノレールに乗り換える。モノレールを片瀬山で降りて、自宅までは徒歩五分くらいだった。家が近づくと、少し足取りが重くなる。立派な構えの門をくぐった。

「ただ今帰りました」

玄関のカメラに向かって告げると、玄関の鍵が開く音がした。ダイニングでは、母の真由里が夕食の準備を整えている最中だった。

「お帰りなさい。直ぐに晩御飯ですからね」

 母が答えた。最近、父は仕事の関係で遅くなくなりがちだったから、夕食は母と娘で済ませることが多かった。寝室に戻って制服から普段着に着替えた星華は、手を洗ったあと、台所に直行して母の手伝いを始めた。

「小さなことをおろそかにしていては、客室乗務員になれません」

 それが実体験に基づく、母の持論だった。星華が夢を口に出した翌日から、「客室乗務員の仕事は、保安要員、接客業にして肉体労働者」を職業哲学とする母の英才教育が始まった。

「バゲッジの上げ下ろしから、ドリンク・ミールのサービス、そしてトイレ清掃ラバチェックまで、面倒なこと、お客様PAXの負担になることを、すべて快く引き受けるのが客室乗務員です」

 最初にそういってから、母が娘に課したのは食事の準備・あと片付けに始まって、掃除、洗濯、アイロンかけ、裁縫、靴磨き、果ては庭の草木の手入れまで、むしろ花嫁修業といった方がよさそうな作業の数々だった。ホームパーティが好きな母は、娘が怪我をする以前、数か月に一回くらいのペースでAJA時代の友人(現役もいれば、OGもいた)を週末の自宅に招待していたが、その頃の接遇を手伝う星華の動きを見て、

「現役の頃のお母さんに、負けていない」

「もう、新人研修が要らないくらい」

「どこのエアラインでも通用する」

 と、口々に褒めちぎった。かなり社交辞令やお世辞が混じっているとは分かっていても、星華は心のなかで有頂天だった。

 ――わたし、絶対、客室乗務員になれる。

 と確信していた。英才教育の成果は、確かにあったらしい。客室乗務員として経験を積んだあとは、頼りがいのある――経済的にも、精神的にも――男性と巡り合って結婚し、仕事と家事・育児を両立して……と、いかにも育ちのよい少女らしい夢の続編も抱いた。

 夕食のあと片付けが済んだのち、親子はリビングに移って、父の帰宅を待っていた。TVでは、連日のように九州の惨状を報道している。電源スイッチを入れた画面に映ったのは、まず崩れ落ちた熊本城の姿だった。次に、被災者が身を寄せ合う避難所に中継が変わった。着の身着のままで逃げて来て、毛布一枚を体の上にまとった人々の姿は、痛々しいものだった。そんななか、レポーターが、

「こちらの避難所では、熊本県知事の要請を受けた陸上自衛隊による炊き出しと給水が行われています」

 とマイクを片手に述べて、次に炊いたばかりの白飯を大きなしゃもじでかき回す迷彩服姿の隊員を映し出した。次のシーンで、避難所の前には、星華が昼間に見たのと同じ車両が何台も駐車して、投光器の光を浴びていた。

「大変ね、こういうところの方々は。こちらも地震がないといいけど」

 独り言のような母の感想を聞いて、星華は頷いた。そして、自分の目前を横切った昼間の車両を思い出した。なにかしら、星華は胸に響くものを感じていた。今まで異次元の存在だった迷彩服姿の集団に、昨日まではTVや新聞で見ても、なにも感じなかった存在に、である。

「わたし、学校の宿題をします」

 といって、自室に星華が戻ったのは午後八時前後だった。進学塾のない日の習慣である。とはいえ、部屋に戻った彼女がまず行ったのは、愛用のタブレットに電源を入れることだった。既に投稿動画サイトには、多くの地震に関する動画がアップされていた。

 壊れた家屋や街並み、土砂崩れを起こした山肌、地割れが走る道路、落ちた橋梁、避難所に身を寄せる打ちひしがれた被災者の姿などが、次々と映される。被害は、昨日より一層大きな規模となっていることが動画から察せられた。その他に、政府や各省、自治体の記者会見といった具体だった。そのなかで、ふと目が止まったのは、

「災害派遣 海上自衛隊女性パイロット」

 映像は、広い甲板の船――護衛艦という名詞を、この時星華は知らない――に一機のヘリコプターが降りるところから始まっていた。

「九州大震災の被災地で活動する自衛隊ですが、そのなかに一人の女性パイロットの姿がありました。……番組は、この女性パイロットを取材しました」

着艦したヘリに、一列になった乗員がリレーで物資を搭載し、再び翼が回転を始め、発艦して行く。カメラは、次に上空からの機内風景と、操縦席にあるパイロットの姿が映された。「島村 緑 三等海佐」と、名前が出た。護衛艦内のブリーフィングで男性隊員に対して指示を下す場面、被災地のヘリポートに着陸する場面とかが流れ、最後がパイロット本人へのインタビューだった。

「すごい……」

 星華は、思わず声に出し、そして息を呑んだ。耳学問では既に女性パイロットが多く活躍していることは知っていた。しかし実物、それも自衛隊にいるとは思わなかった女性パイロットを見て、これまでとは違った新鮮な印象を抱いた。

 そういえば、こんなことがあった。航空業界に多く就職実績を持つ専門学校が、職業体験として客室乗務員やパイロットの体験をさせるイベントを開催していて、星華も中学生の頃から何回も足を運んでいた。実物そっくりの設備で所作や接遇とかの体験をしたほか、山梨まで出かけてセスナ機にも搭乗した。誘導路から滑走路に進み、そして滑走、離陸の際の緊張感は、今も覚えている。客室乗務員の職業体験とは別の意味で、印象は強く残っていた。

 動画が終わったあと、少しの間ぼっとしていたが、次に星華はディスプレイに指を走らせた。客室乗務員がだめでも、あるいはパイロットとかはどうなんだろう、同じ空の仕事なんだし――という思い付きに等しい単純な考えが頭に浮かんだからだった。短時間の内に出た検索結果のなかにあったのが、次の文字列だった。

「航空自衛隊 航空学生」

 ――航空自衛隊?

 まだ、星華は自衛隊に陸海空の区分があることもよく分からない。Web情報を、声にして読み上げて行った。

「高校卒業又は中等教育学校卒業者(見込みを含む。)、高専三年修了者(見込みを含む。)及び高校卒業と同等以上の学力があると認められる男女を対象」

そこに記された情報によれば、少なくとも処遇は、聞いていた客室乗務員のそれより、よさそうだった。

「パイロット、か……」


     Scene#3 湘南鎌倉女子学園校内


 文系クラブが部室を並べている校内の一角に、航空ビジネス研究会の部室もある。湘南鎌倉女子学園の航空ビジネス研究会とは、高等部にいくつかある同好会の一つで、分かりやすくいえば将来エアライン業界への就職を希望する生徒のたまり場である。OGには、実際に客室乗務員や地上勤務職員がおり、そうしたOGを呼んで体験談を聞いたり、模擬面接や英会話を練習するといった活動をしていた。そして、星華の母も、OGの一人だった。壁には、エラライン各社のカレンダーやポスターが、所狭しと張り付けられており、航空関係のグッズも無数に並べられている。

「パイロットですか?」

 目を丸くして、春陽が聞き返した。彼女は研究会一のトリビア女王で、航空関係について、質問されて答えられないことはこれまでなかった。

「そう。パイロットになる方法」

 質問を理解した春陽は、書棚から一冊の雑誌を取り出した。

「これによると、えーと」

 紙面を見ながら春陽が並べた道は、独立行政法人である航空大学校への進学、民航エアラインの自社養成に応募、そして自衛隊入隊が主なところだった。

「航大は宮崎県にあって、大学を二年まで修了してから転入ですね。民航は、ものすごく競争率が高いです。噂だと百倍くらい。大卒が前提。自衛隊だと――」

 そのあと出てきた単語は、昨晩検索で出会った「航空学生」だった。航空学生は、海上自衛隊と航空自衛隊にあり、高卒で応募でき、六年間かけてパイロットになる道だという。

「先輩、パイロットになりたいんですか?」

 春陽が聞くと、星華はあいまいな答えで、その場をつくろった。

 パイロットへの一番の近道は、自衛隊、それも航空学生らしいと分かった。そして、あの女性パイロットのようになれるかも知れない――星華は、そう思った。民航でパイロットになっても、近くにCAの姿を見れば、いやでも失った夢を刺激されそうだった。

 その日の部活が終わると、星華は一人残って、研究会のパソコンで自衛隊の募集サイトにアクセスし、資料請求を申し込んだ。すると、翌日の放課後、彼女のスマートフォンにかかって来たのは、いかにも中年男を連想させる声だった。

「もしもし、天辺星華さんのお電話でしょうか。わたくし、自衛隊神奈川地方協力本部募集課の四ツ谷と申します。この度は、募集案内のご請求を頂きまして、真にありがとうございました。早速ではございますが、ご都合のよろしい時に、資料を持参がてら応募のご案内をさせて頂きたいのですが……」

 そして、その翌日には、学校の進路指導室に電話の声の主が現れた。差し出された名刺には、

「自衛隊神奈川地方協力本部募集課募集班 広報官 一等空曹 四ツ谷 繁」

 と書かれていた。のちに知ったことだが、彼は自衛隊の募集分野では知らぬ者のいない「狙った目標は必ず落とすペトリオットの四ツ谷」という異名を持つ有名人だった。

 テーブルの反対側で、やけに目立つ白目を光らせながら、四ツ谷は各種の募集資料を並べて、そのページをめくりつつ、星華が資料を請求した航空学生に先んじて、航空自衛隊の概要から細部に至るまで立て板に水を流すような滑らかさで説き、そこがいかに安定的で将来性に満ちており、豊かな人生をもたらしてくれる可能性がある職場だということを、星華に語った。

「入隊し、基礎教育を受けたあと、それぞれの希望や適性、なかんずく当人の希望と努力に基づき、最適と思われる職種・任地に配置され、日本各地、さらには世界を舞台とした活躍の場を得ることができます……」

「キャリア形成におきましても、女性特有の事情に十分配慮されておりまして、出産・育児等と勤務が両立できるよう、各種のサポートが準備されております……」

 確かに嘘じゃなかった。「日本各地」に絶海の孤島のレーダーサイトや通信所、あるいは基地業務群で食堂を運営する給養小隊まで含めるのならば。基地によっては託児所もあって、民間の保育所に比べれば、夜遅くまで子どもを預かってくれるし、まとまった産前・産後休業も与えられると聞いている。

 ――だけど、現実の星華はそういったベネフィットを得る遥か手前で、次々と現れる高いハードルに挑戦させられ、足を取られては地面に叩きつけられるような毎日だった。

 鬼の今村、悪魔の本間、地獄の使者の山下二曹、あるいは「航学の黒い三連星」とも称される、防府北基地・航空学生教育群学生隊名物のトリオ助教は、例え相手が女子学生だからといって手加減はしない。そして、助教たちの上に立つ区隊長の加藤大介二尉が、さらに難物だった。外見は、少々太めで背も低く、愛嬌のある顔つきに見えなくもない。だが、課業が始まると本性が現れる。表情に凄味が走り、体型からは想像もできないほどの俊敏さを見せる。学生の限界を見切って、その寸前まで追い上げて鍛えるのだ。以前は救難団のメディックで、東日本大震災で津波に襲われた東北沿岸地域を初め、数多くの災害や遭難の現場に降下していた猛者だという。なお、噂によるとプライベートでは異常なまでの愛猫家で、官舎では飼えない猫を求めて大きな街まで出かけ、猫カフェに入り浸っているらしい。

「手ぇ下がっとるぞ、近藤学生! 銃を落とすな!」

「走れ! 遅れるな、鈴木学生!」

 ――

少々長い前置きを述べてから、四ツ谷一曹は航空学生について説明を始めた。この時点で、星華は、心理的防壁をかなり崩していた。四ツ谷の心理戦に、抜かりはなかった。

「航空学生とは、簡単に申し上げますと、航空自衛隊、それから海上自衛隊にもありますが、航空機のパイロットの候補生です。航空要員の場合、まず山口県にあります防府北基地の第12飛行教育団の隷下、航空学生教育群で基礎教育となる二年間の航空学生課程を履修しまして、次に同基地で飛行準備課程に進みます。……」

 合計二年半の準備教育ののち、初めて空を飛べるという説明だった。そのあとはプロペラ機、次にジェット機の操縦を学び、事業用操縦士の国家資格を取得し、戦闘機、輸送機、ヘリコプター等に分かれて本物のパイロットになるという。

「難しくありませんか。その、飛行機の操縦とか、色々危ないこともありそうだし……」

 素人なら当然抱きそうな星華の疑問に、四ツ谷一曹はパーフェクトな答えを用意していた。

「もちろん、高度な専門技能を習得するわけですから、教育は簡単ではありません。しかし、皆同じ条件で入り、そして段階を踏まえた教育を受けて、徐々に一人前になるのです。今、立派に飛んでいるパイロットたちも、全員、天辺さんと同じ条件でスタートしたのですよ」

 四ツ谷は嘘をいわなかった。ただ、いわないこともあっただけだ。航空学生たちは、皆同じ条件で入り、同じように顎を出している。


     Scene#4 防府北基地再び


「速足、進め。……小隊止まれ。左向け左。立て銃。右へならへ」

 ハイポートが、隊舎の前でやっと終わった。

「手入れしたあと、銃を格納。午後四時1600に体育服装で舎前に集合。質問!」

「なし」

 区隊長の問いに、学生たちは唱和した。あっても「なし」なのだ。

 列を崩して航空学生たちは隊舎に足を進めた。悠長にしている暇はない。限られた時間で武器の手入れを行い、格納し、着替えて体育に備えなければならないのである。

「武器格納!」

 慌ただしく小銃や銃剣、弾倉を武器庫に収めると、内務班のあるWAF航空学生舎までダッシュ。階段を駆け上り、内務班のドアを開けた。直ぐに迷彩服からジャージに着替え、体力練成である……だが、

「なに、これ!」

 部屋に足を踏み入れた先頭のケイが、悲鳴、というより絶叫を発した。

 ――まさか。

 不幸なことに、星華の予感は的中していた。ケイ、星華、そして玲子の内務班、つまり居室のなかは台風一過のようにロッカー内の被服といい、ベッドの上の毛布とシーツといい、靴箱といい、徹底的にぶちまけられ、ひっくり返され、放り投げられていた。これで通算三回目となる。

「やられた……」

 ケイの呻きに、星華もへたり込みそうになった。腰から完全に力が抜け、目の前は真っ暗である。

「あーらぁ、今日は風が強いようねえ」

 三人が振り返ると、そこには台風の発生源がいた。

 内務班長・水野亜美二曹。腕組みし、薄ら笑いすら浮かべている。髪をシニヨンに結い上げ、やや化粧が濃い。目つきも、単純なお人よしのそれとは正反対だった。少女マンガで主人公をいびる悪役令嬢。まさにそんな感じの存在で、ある意味、猫マニア区隊長ラオウや極悪助教トリオより厄介な相手である。とにかく、編上靴の靴底にこびり付いた土とか、制服のプレスのラインが二重になっているところとか、学生のミスを目ざとく見つけて、ネチネチと言葉責めにする技に長けている。同性なだけに、その辺りのやり方は実にいやらしく感じられた。そして、メモ帳に記載された数が一定のラインを越えると、「台風」が来襲するのである。

「なんでこんなことをするんですか、班長!」

 たまりかねてケイが抗議する。

 やめて、お願い――という気持ちのこもった星華の視線なんか、まったく意に介していないようだった。

「知れたことよ。まず山之内、今週だけで、短靴の磨き忘れ、編上靴を磨く時面倒くさがってひもを解かずに磨いたところと踵の芝の落とし忘れ、ベッド上の毛布の端の不一致……!」

 ケイの次には星華、そして数こそ少ないが玲子のミスの全記録を、片手にしたメモ帳の上から読み上げて行った。これには、三人とも反論の余地がなかった。

「だからって、なにもかも飛ばすことないと思います。一つ一つ指導すれば済むじゃないですか。こんなの、程度が低過ぎます!」

 ケイの第二弾攻撃も、「ふん」と、水野は鼻でせせら笑い、爬虫類のような表情を浮かべて次のセリフを投げ返した。

「今のあんたたちなんて、所詮、そんな程度よっ!」

 室内の空気が凍り付く。水野は完全に上から目線で申し渡した。

「早く片づけなさい。時間ないから」

 敵意ある視線を浴びてもものともせず、宣告のあと、水野二曹は靴音高く去って行った。

「あ・の・行かず後家ぇ……!」

 実は他にも、「魔女」、「毒女」、「暴風女」、「防府局ほうふのつぼね」とか、水野二曹には様々なニックネームがあるのだが、好意的なものは皆無である(ほとんどはケイによるネーミングだった。なお、教育団の基幹隊員のなかには、陰で「ミンチン先生」とか「ロッテンマイヤー」と呼ぶ者もいる)。

 ケイ――山之内・ケイト・恵子は、なおも腹の虫が収まらないのか、ぶつぶつ並べている。栗色の頭髪と色白の肌、ブルーの瞳は、彼女が純粋な日本人でないことを示している――というか、初対面では恐らく過半数の者の目には、日本人に見えない。複雑なことはいわないが、元は日米二重国籍だったという。よい記憶がないといって、アメリカのことは余り語らない。フルネームで呼ぶことも面倒だから、他の学生からは「ケイ」とだけ呼ばれている。

 顔色一つ変えず、整理に取り掛かったのは、玲子である。

「急ぎましょう、時間がない」

 玲子――藤堂玲子は、簡単に自分たちの立場を確認すると、まずベッド周辺、次にロッカーの中身の整理へと手を進めた。なにをやっても様になる、それこそ基本教練は勿論、地面に伏せての第五匍匐までもが華麗に見える「女王様」である。三人のなかで一番長身、スタイルといい、立ち居振る舞いといい、持って生まれた天性があるとしか思えない。高校時代は、一時モデル活動もしていたという。成績もトップクラスである。男子学生からも、人気は一番高かった。

 必死に台風の被害を修復し、体育服装に着替えて舎前に走ったが、結局、三人は集合に五分遅れた。ペナルティは、腕立て伏せ三〇回だった。こうした日々が、もう三カ月続いていた。

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