第3話 我が行軍は空を征く

   Scene#1 陸上自衛隊習志野駐屯地・空挺教育隊


「くそー、だりー!」

 助教室のドアが開いて、何人もの男たちがなだれ込んでくる。全員、迷彩の作業服姿だった。そのまま冷蔵庫前に直行すると、手に手にペットボトルを取り出し、よく冷えた液体をのどに流し込んだ。

「たまらんぜ。競技会マニアの次は、環境整備オタクなんだからなー。なんでこう、最近はユニークな団長ばっかり来るんだよ、習志野ここには!」

 ドカッと椅子に腰を下ろした小松二曹が、コーラのボトルから口を離して叫んだ。彼らが所属する陸上自衛隊空挺教育隊は、同じ習志野駐屯地に所在する第一空挺団の隷下部隊であり、空挺団長は駐屯地司令を兼務している。現在の空挺団長久保陸将補は、普段の執務の手が空くと、しばしば駐屯地内の見回りに出ては、「何号隊舎の前の芝生に、タンポポ(あるいはクローバー)が生えている!」と見つけると、目を爛々と輝かせて当該区域を受け持つ部隊の指揮官を呼び出し、「お前は何日に一回の割合で除草を命じているのか?」から始まって、「部下の報告を聞くだけでなく、自分の目で状況を確認しているか?」と、熱のこもった指導を繰り広げる人物だった。なにしろ空挺団に着任当日、着任行事が終わった直後に、整列した各部隊をそのまま待たせ、小型車に乗って駐屯地内を一周し、戻ると、「外柵沿いの除草が極めて不十分。直ちに、駐屯地全員で除草作業にかかれ」と命じて、実行させた人物である。勢い、空挺団ばかりか、業務隊やら基地通信隊やら、各部隊は連日のように受け持ち区域の除草やら落ち葉掃きに、情熱を注いでいるのである。

「競技会マニアも、たまりませんでしたけどね……」

 空挺団特科大隊から臨時勤務に来ている治も、愚痴交じりの回顧を口にした。治は、高等工科学校、つまり中卒で入隊する技術陸曹養成校出身で、卒業後、第三陸曹教育隊、そして富士学校特科部の教育を修了して三曹に昇任し、去年特科大隊に配置になったばかりだったが、着隊早々に銃剣道の集合訓練に放り込まれ、死ぬかという思いをしたのだった。前任の鬼怒川団長は、銃剣道といい、持続走かけあしといい、競技会の成績こそが部隊の精強度のバロメーターと信じているような人物だった。

 そして、本日も忙しいなか、除草作業を終えた彼らは、課業終了前のひと時、冷たいドリンクで水分を補給していたのである。その直後、ドアが開いて、教官の速水二尉が図板を手にして入って来た。

「小松に角田、おるか。――来月に来る、空自さんの落下傘降下訓練な、お前たちにも手伝ってもらうからな。そのことでだ」

 毎年恒例の訓練である。全自衛隊で唯一、落下傘降下訓練が可能な習志野であるので、航空自衛隊のパイロット要員の落下傘降下訓練も引き受けているのである。防衛大学校や一般大学を卒業し、幹部候補生学校を修了した幹部パイロットと、航空学生から上がって来る飛行幹部候補生も、航空学生課程の次の段階である飛行準備課程で、落下傘降下を体験する。

「基本的には、去年と同じですかね」

「うん」と、小松の質問に速水は肯定した。「訓練内容は変わらん。訓練計画の案と、学生名簿を置いておくから、目を通しておいてくれ」

 書類を挟んだ図板を残して、速水は姿を部屋の外に隠した。

「ちょっといいですか」

 といって、治は隣から書類に手を伸ばした。小松は助教三年目なので経験済みだったが、臨時勤務で来ている治は、もちろん、最初である。パワーポイントで作成された訓練計画に一通り目を走らせ、次に学生名簿を見た。知る人間がいるとは思わなかったが、どんな年代かも分からなかったから、一応知りたいと思ったのである。だが、その先入観は、ある人物の氏名の所で裏切られた。

「あまべ……せいか?――えっ、あの、天辺か」

 最初、自分の目を疑った。次に、同姓同名の他人ではないかと考えた。だが、

「出身地は、神奈川県。歳も同じだ。まさか……」

 彼にとって、余りにも信じられない奇襲攻撃だった。小学六年生の時の同じクラス、しかも机が隣だった天辺星華が、飛行幹部候補生となって落下傘降下訓練にやってくるのだ。

「嘘だろー!」

 余りの驚きに、治は声を挙げてしまった。

「ん? なんだ。うるさい奴だな」

 と、小松二曹に横目で睨まれて、思わず顔を逸らした。

治の記憶のなかでは、星華はお姫様を思わせる育ちのよい、上品で可愛らしい女の子で、クラスでも男子の人気の的だった。一度同じ班の仲間と一緒に自宅に招待された時には、その家の広さと立派さに驚き、これまた上品な母親の手で供された上等な飲み物とお菓子に、再び驚かされたものだった。これが小学生の頃では最良の思い出であり、そして治が振り返って思うに、あの時星華に抱いた感情こそは自分の初恋だったのじゃないか、と。治は、分からないわけでもない授業の内容を、分からないふりをして星華に教えて貰ったり、旅行の土産を余分に買って帰ったりと、言葉を交わす機会を増やすため、あの手この手を尽くしたのである。だが、彼女は中学から私立に進学し、その時点で治とは縁が切れた。以来、諦めるもなにもなく、自然消滅した感情だった。

――でも、なんであんな、いいとこのお嬢様だったあいつが、飛行幹部候補生なんだ? パイロットどころか、自衛隊にすら関係ないはずだろう。分からん……

 国語の授業でも、作文で「わたしの将来の夢は、お母さんと同じ、客室乗務員になることです」と読み上げていたもんな……

 だが、少しして治は考えを改めた。

「これって、もしかしてどえらいチャンスなんじゃないか……」

 そして、その日から、治はこの空前絶後の機会を生かすべく、作戦を練り始めたのである。


     Scene#2 航空自衛隊入間基地


 小牧基地を離陸したC―130H《ずんぐり》には、七十四名の飛行幹部候補生が搭乗していた。イラク派遣時代の水色塗装の大型の四発輸送機は、富士山を左翼の下に見る航路を飛んで関東上空に入り、やがて高度を落として武蔵野台地の上空を通過し、入間基地への着陸態勢に入った。速度を落としているのが、騒音に満ちた機内でも分かった。やがて、強い衝撃と共にタイヤが着地した音を発し、強い逆Gが乗客の体を襲う。滑走路上で速度を落としたC―130Hは、誘導路に入り、誘導員の手信号に従ってエプロン上で停止した。初号機就役から半世紀が経過した機体ながら、その完成度は恐ろしく高い。機体の改修は、僅かな部分に限られている。現在も、世界約五十か国で約二千機が運用されていた。候補生たちには、これが二度目の搭乗経験である。防府北基地から春日基地までヘリ、そこでC―130Hに乗り換え、小牧基地を経て、定期便の旅は終わった。

 四発のプロペラが停止すると、ロードマスターの指示により、機体側面のハッチがコンクリートの地面に卸され、その上を渡って飛行幹部候補生たちは地面に降り立つ。フォークリフトが荷物を梱包したパレットを機体内から卸した。

 荷物の梱包を解いて、基地業務群に所属するトラックに荷物を積み込む。航空学生となった当初は、「重い……」と、正直に口に出してしまった星華だが、二年目に入る前には口に出してはならないことは、口に出さないようになった。

「わたしも、航空学生だから」

 と思うようになったからだった。むしろケイは、未だにきついことはきついと正直に言葉にしてしまう状態だった。玲子は、最初から愚痴らしいことは全然いわない。

 訓練で関東にやって来るのは、二度目だった。前回は、この入間基地の航空医学実験隊四部で航空生理訓練を受けた時である。航空生理訓練とは、簡単にいえば低圧訓練装置チャンバーという機器により、高空における低圧・低酸素分圧状態を体験することである。意識が低下したり、思考能力落ちたりするのが一般的な反応だが、星華(玲子もケイも、実は同じだったが)には耐え難い状況が起きた。低圧のため体内の空気が膨張し、それが漏れそうになったのである。チャンバー内には男子学生が何人もいるため、女子にとって一生の恥になりかねかった。――昔流にいえば、「わたし、一生お嫁に行けない!」状態に陥りかけたのである。訓練終了後、玲子もケイも同じ思いをしたことを知って、苦笑したのだった(ケイだけは、少々声を大にして笑った)。

 トラックと同行するバスが、学生たちを入間基地から千葉県の陸上自衛隊習志野駐屯地まで輸送する。基地を出たバスとトラックは、国道十六号から関越自動車道、外環、首都高五号を経て都心に入った。玲子は、座席で携帯音楽プレーヤーを聞き入っている(今の曲は、石原裕次郎の「黎明」だった)。ケイは、アイマスクをかけて睡眠不足を補っている。久々のビル群を観ながら、星華は、

――土肥原どいばるさん、どうしているかしら。

 と考えていた。航空学生修了後の休暇で神奈川に帰った時、横浜のレストランで家族同士の会食をした時に初対面となった土肥原信彦の名を思い出していた。信彦は、千代田区の税理士法人に勤務しているといっていた。千代田区は今走っている首都高から、それほど遠くない。

 星華の父、伸夫と信彦の父・賢志は古い友人同士だった。まだ二十代になりたての頃、資格試験の専門学校で知り合ったのである。一方は会計学の大家を父に持つ一流商大の学生で、もう一方は母子家庭に育ち、道路工事のガードマンをしながらの税理士試験受験生だった。奇妙で不釣り合いな友人関係だったが、高卒で税理士に這い上がった賢志を、伸夫は高く評価していた。賢志は一科目合格の時点で横浜の会計事務所に入り、五科目合格で官報告示されると所長から女子大を出たばかりの一人娘を紹介され、そして婿に納まった。先代所長も叩き上げの税理士で、学歴よりも能力と根性を重視する主義だった。先代は、名目上現在も代表税理士だが、実務は婿に任せて、現在は趣味の鉄道写真と海釣りに出歩く悠々自適の毎日である。

 ――

 伸夫は、久しぶりに友人に誘われたゴルフの場で、愚痴をこぼした。

「もう帝都で、おれの将来はなくなっちまったよ」

 彼は国内最大級、そして世界でも指折りの大手である帝都・ウイリアムズ監査法人に勤務する公認会計士で、中堅より上、経営幹部(パートナー)まで秒読みの地位にあった。だが、帝都で、新人時代からのライバル、いや宿敵が先にパートナーになったのである。当然のように、露骨なまでの冷や飯攻勢が伸夫に加えられるようになった。やり場のない不満が、友人の前ではつい口に出た。賢志はそれを聞いていて、なんでもないような口調で、

「じゃあ、うちに来いよ。帝都のような高給は出せないが、できる限りのことはさせてもらう」

 と、アプローチしてきた。

「実は、コンサル部門を任せていた中堅が、独立するといい出したんだ。引き留めても辞めるといい張るから、ちょうど後釜を探していたところだ」

 話は、アウトを終わった昼食の場に移された。

「ありがたい話だが、おれでいいのか?」

「構わんよ。二カ月もあれば、退職の準備には十分だろう。だが、断っておくが、うちの事務所はブラックの一歩手前だ。申告の時期は、二週間泊まり込みになる。血反吐を吐くまでこき使ってやるから、覚悟しておけ」

 なにやら意地の悪そうな笑いを浮かべた。契約は成立した。話はそれから、プライベートな方向に移った。

 賢志は、三男が都内の大学を卒業し、現在税理士試験を受験しながら、都心の税理士法人に勤務していると語った。税理士試験は五科目制で、一科目単位で合格して行けばいいのである。二四歳の三男、信彦は既に三科目に合格していた。なお、長男と次男は、父親の仕事にまったく興味を見せなかった。長男は元甲子園球児で、地方の高校で教師をしながら野球部の監督を務め、甲子園出場を目指している。次男は水泳一筋で、現在は川崎市内のスイミングスクールでコーチをしていた。

「あと二年もあれば最終合格するだろう。いずれは事務所を継がせたいと思っているんだ」

 そういって、賢志は目を細めた。伸夫は内心、羨ましい限りだった。実は、彼は娘に自衛官どころかCAにすらしたくはなく、できることなら大学で経済学か商学を学ばせ、自分と同じく会計人の道に進ませて、行く行くは自分の勤務する監査法人の有望な若手を婿に迎えよう……と考えていたのである。

「そういえば、お前のところにも、近い歳の娘さんがいたんじゃないか?」

 賢志はなにげなくいったつもりだった。だが、伸夫にとっては、そうは受け取れなかった。星華が航空学生課程を修了する少し前の出来事だった。


     Scene#3 陸上自衛隊習志野駐屯地


「ケイ、起きて。よくて? もうすぐ営門通過だから」

「――あぁ、よく寝たわあー」

 星華がケイを起こして数分後、バスは習志野駐屯地の正門前を曲がった。習志野駐屯地は、外からもなかの高い樹木がよく見える。松のような針葉樹が中心だった。

「気を付け!」

勤務学生が号令をかけた。全員が、座席の上で姿勢を正す。警衛所で立哨中の歩哨が敬礼する脇を通過して、バスとトラックは駐屯地の敷地内に入った。樹が多い駐屯地だという感じがする。

 トラックとバスは、宿舎前に到着した。山積みになった手荷物を、陸の隊員の案内でそれぞれの居室に運び込んだ。それから直ぐ、飛行幹部候補生たちは整列して空挺教育隊の隊舎前に前進する。本部前には、申告予定時刻の五分前に到着した。

「気を付け。短間隔で整頓する。右へならえ!――直れ」

 空挺教育隊側の人員も整列し、定刻通り隊舎玄関から現れた教育隊長を前に、学生長の玲子が号令を発する。

「敬礼。直れ。――申告します。航空自衛隊飛行準備課程・飛行幹部候補生三等空曹藤堂玲子以下七十四名、陸上自衛隊空挺教育隊における落下傘降下訓練に参加を命ぜられました。――敬礼、直れ」

 形通りの申告が実施された。かたわらの空挺教育隊側の男たちは、

「あの学生長は、空幕長のご令嬢だってよ」

「女で航学の学生長か。えっれえ美人だな」

「合計三人か。きれえなんばっかり揃ってるもんだ」

 と、男の欲求に忠実な内容のひそひそ話を交わしていた。

「遠路はるばるご苦労。自分は、空挺教育隊長堀内一佐です。諸君はこれから十日間に亘って落下傘降下訓練を受ける。危険も伴う内容であるが、安全には十分注意し—―」

 と、一通り常識的事項を訓示してから、

「では、諸君の訓練を担当する教官・助教を紹介する。前へ」

 迷彩服姿で走り出たのは、速水以下、五名だった。

「主任教官、二等陸尉速水健太、愛媛県出身」

「助教、二等陸曹小松正春、栃木県出身」

 そして、数人のあと、最後が一番背の低い三曹だった。

 紹介が終わり、管理事項が伝達されたあと、解散が示された。これから、教場内で、最初の座学が行われる。星華も、その流れに乗って玄関に向かおうとした。その時である。

「天辺! 天辺星華だろ!」

 まったく予期されない場所で、フルネームで呼ばれた。これまで、姓のみ、あるいは姓+候補生で呼ばれることに慣れていたので、星華にとっては奇襲になり、驚きを感じることになった。

 近寄って来たのは、自分より少し背が低いくらいの陸の隊員だった。

 ――誰なの、この人?

 というのが、この時点の星華の胸の内である。少なくとも、陸自に(というより、自衛隊内に)知人はいないはずだった。階級章は、同じ三曹だった。

「そうですけど、あなたは?」

 声をかけた男にとって、これは想定内の反応だった。

「鎌倉五小六年一組だった、天辺だろう」

 知る者のいない個人情報を口に出されて、星華は尚更警戒の心を抱いた。だが、次の瞬間、相手の口から出た言葉で、警戒心は驚きに変わった。

「坂西先生のクラスで、隣の席だった角田かくたおさむだ。覚えていないか?」

 一〇代前半の記憶が、大急ぎで呼び起こされた。そういえば、隣の席のちょっと背の小さい男の子が角田くんといって、と思い出しかけた……

「角田くん? ほんとうに、角田くん?」

 星華は目を文字通り丸くして、天然さ丸出しの驚き方を示した。上品さが表に出ていて、天然混じり、そしておっとりとしていた少女の頃の星華と、変わらないように感じられた。

「信じられないなぁ、お前とこんなところで会えるなんて!」

 少々大げさな答えだった。そして、これも事前に練ったシナリオ通りである。できるだけ反応を大きくして、星華にアピールするためだった。

 ――

 午後の訓練が終了し、学生たちは隊員食堂に案内された。出された副食を何皿か盆に乗せ、それから飯を丼に盛る。この二年の教育で、星華もすっかり周りと同じ量の食事に慣れた。

「――へー、二年間の航空学生課程が終わったところか」

「ええ、でね、この飛行準備課程が終わったら、わたしたち、いよいよ練習機に乗るの」

 夕食を取りつつテーブルで向かい合って親しげに会話する二人に、他の飛行幹部候補生のなかには「なんだ、あの陸の野郎は」的に、恐ろしく非好意的な視線を向ける者たちもいた。いずれも、これまでに星華に攻撃を仕掛けようとして回避された同期男子である。そんなこととは露しらず、思わぬところで旧知の人物との再会によって、星華はなんとなく気安さを覚えていた。

「角田くんは、なぜ自衛隊に?」

「俺んちは、爺さんの代からこの仕事なんだ」

 治の曾祖父は、第二次世界大戦中、埼玉県の山奥から召集されて、フィリピン戦線に出征した一兵卒である。同期入営者で生還した者は、ほとんどいなかった。そして、その息子、つまり治の祖父は創成期の陸上自衛隊に入隊し、関東と北海道を往復する人生を送った。鎌倉に居を定めたのは、治の父親の代である。治の父、准陸尉角田慶次郎は、現在富士山麓、静岡県の板妻駐屯地にある第三陸曹教育隊で最先任上級曹長を務めていた。最下級の隊員から叩き上げた終着駅のポストであり、独自の執務室を与えられ、「兵隊元帥」(「指揮官のカバン持ち」的な冷めた見方をする者もいないではないが)として部隊内からはそれなりの敬意を払われる立場である。なお、第三陸曹教育隊のモットーは「俺を見よ 俺に続け」であるが、過去の入校学生のなかには、「俺に構うな 先に行け」と背中に書き込んだ記念のTシャツを作って同期たちでシェアした例があった。

 慶次郎は三曹昇任以来、人生の大半を普通科部隊あるいは教育部隊で教育訓練畑を歩み、各地の部隊に教え子は多い。治をその息子だと知ると「おお、角田一曹は元気か?」と、親愛の情を示す者もいれば、逆に「なにぃ? あのカクケイの息子だとぉ!」と、露骨に江戸の敵を長崎で討つ機会を得た喜びの表情を浮かべる者もいた(この習志野でも。後者の方が圧倒的に多かった)。去年の銃剣道集合訓練で絞り上げてくれた一曹が、その一人だった。

「ふうん。陸では最先任上級曹長というのね。空自では、各部隊の准曹士先任というのだけど」

 星華は、自分の所属する第12飛行教育団の本部にいる准曹士先任の姿を思い出していた。別の意味で、団司令より存在感のある人物だったが、「そんなタイプなのかな」と思った。

「それで、地元の中学を卒業したら、武山の高等工科学校に入った」

 治は、少し経緯を省略した。本当は、高等工科学校に進むつもりはなかったのだ。別に自衛隊が嫌いなわけではなかったが、しつこく勧める父親にはややうっとうしさを覚えた。少なくとも、高校くらいは気楽な普通の学校生活を送りたいと思っていた。実際、五歳年上の兄、さとるは自衛隊が好きではなく、一般の大学に進んでいた。――今所属しているのは、東京消防庁である。現在は立川の第八消防方面本部消防救助機動部隊・ハイパーレスキューにいる。

 それが一変したのは、中学三年の一学期だった。進路志望を担任に提出する際、志望校の一つに父親へのお義理のつもりで「陸上自衛隊高等工科学校」と書き込んだところ、翌日に担任を飛び越えて校長室に呼び出されたのだ。定年を直前にした女性校長は、治に向かってヒステリックにまくし立てた。

「高等工科学校というところは、人殺しを教える学校です!」

「学校とはいっても、戦争のための訓練をするところじゃないですか!」

「私の祖父も、戦争に行って死にました。国に殺されたのです。平和憲法主義者である私の学校から、生徒を戦争に行かせることは決してできません!」

絶叫を聞かされ続ける治の腹は、徐々に立ち始めていた。

――なにがいいたいんだ、このばばあ。

 たっぷり三十分間、絶叫にも似た校長の演説を聞かされた治は、決心を固めた。

「逆のことをやってやる」と。

 帰宅した彼が、最初に父に告げたのは「おれ、高等工科学校を受験する」の一言だった。慶次郎は、当然大喜びした。自分の教育が通じたと思ったのだ。高ぶった感情に駆られて、次男が短気を起こしたと考えなかったのは、無理もなかっただろう。この時、慶次郎は神奈川地方協力本部で広報官、つまり募集係だったので、それは自分の点数になるということでもあった(隊員が、自分の子女を入隊させる自主募集は、推奨されていることでもある)。駐屯地出入りの保険会社で、今も外交員として働いている母も、同じだった。

 こうして、治の人生の大きな選択は決定された。

 ――

「三組の山本平八、覚えているか?あの、背のでかかったやつ」

 治は、話題を小学校時代の同級生に切り替えた。山本平八の名を、星華は「背の大きな男の子」として記憶していた。それほど、山本は小学生離れした身長と体格を有していた。当時、既に身長一六〇センチを超えていたのである。

「あいつは、サガワンを卒業して海自に入隊したんだ。今は横須賀で護衛艦はるかぜに乗っている。給養員だ」

 鎌倉市内にある県立相模湾高校は、バスケットボールには全然関心のなかった星華も地元神奈川県そして全国でも屈指のバスケ強豪校だと知っていた。山本はサガワンの男子バスケ部キャプテンを務めていたが、卒業後はバスケを捨てて海の男になっていたのである。給養員は、空自と同じく、要するに調理員であり、護衛艦乗組員の胃袋を預かるのである。小学生の頃の記憶からは、余りにも意外な進路に目を丸くして聞いた。

「それから、四組の上原勇策、こいつは俺と同じ陸。朝霞の施設大隊勤務だ」

 上原は逆に男子でも一番のチビだったが、すばしっこさでは目立つ存在だった(特にいたずらの際には)。当時から地元の少年サッカーチームで活躍していたが、高校を卒業してもサッカーを続けられる職場を選ぼうとして、社会人チームを各所で抱えている自衛隊を選んだのだった。現在は、埼玉県朝霞駐屯地の第一施設大隊で勤務しながら、アフター5をサッカーに費やしている。

「たくさんいるのね、わたしたちだけじゃなくて」

 わたしたち――という星華のいい方に、治は作戦がうまく運んでいる喜びを感じていた。実のところ、総勢二十四万人の自衛隊は、単独の職業集団としては日本最大級なのである。入ってみたら、のちに旧友や親類に顔を合わせるという例が、ないわけでもないのである。

 高等工科学校入校、そして三年間の武山暮らし、卒業後の第三陸曹教育隊、富士学校特科部での教育を経て、今に至っていると治は語った。そして、

「高工校に入ってから、『親父のやつ、いってたことと違うじゃねえか』と思って、嫌になったこともあったけどな、区隊長からこういわれた。『お前たちの合格の陰には、落ちた十人以上の者がいる。ここに入りたくても入れなかった者がいる。お前たちは、そういった者たちの夢を代表しているんだ』って。で、結局続いちゃったよ」

 この部分は本音の吐露である。やはり普通の高校に行っておけばよかった。朝六時から当直幹部に叩き起こされないでも済んだはずだ、と思うことは何度もあったが、選ばれたなかの一人だという気持ちがこれまで耐えて来れた大きな理由であることは事実である。

「夢を代表している、そうよね。わたしもそう思った」

 事前に練った作戦より、この本音こそが一番効果的だったかも知れない。加藤二尉もかつて朝礼の際に口にしたのだ。

「航空学生になりたい者のなかから、お前たちは選び抜かれた。夢の代表選手なんだ」と。

 ――

 空挺降下の訓練は、最初から落下傘を装着して行うわけではない。まず、まずは着地動作の訓練からである。

「ただいまより、五接地転回着地を教育する。これは、落下傘降下における基本の第一歩である」

 速水二尉が、前置きを述べてから、傍らに立つ助教の小松と治が展示、つまり見本を見せる。

「降下、右!」

 と、小松が声を挙げると、治が台から飛び降りて、地面に着地する。

「まず、この時点で両足を揃えて、着地する。両足の裏で、地面に接――次に、右のスネ、ヒザではなく、スネの横を着地させる。なお、今回は右のスネで着地するが、地形上自然な落ち方になるなら、左のスネの横を着地させる」

 続いて、治は小松の声に合わせて、太もも、臀部、そして着地した足とは反対の肩の順で着地する、と各段階を区切って動作を見せた。

「次は、左からの着地。逆に、両足の裏の次は、左スネの横を着地させる」

 左右両方、後方に着地する方法の次は、前方に着地する方法を見せて、展示は終わった。次は、学生の側が実際にやってみる番である。平坦な地面の上で、全員が左右前後に間隔を取り、両手を逆ハの字開いた姿勢から、実際の演練は始まる。

「降下、右!」

 一度上に跳び上がった学生たちが、両足を揃えて着地し、教育されたとおりに右のスネの横、太もも、臀部、そしてうしろに倒れて反対側の肩の順で着地の一連の流れを行う。一見、簡単で退屈そうな動きであるが、実際にやってみると体力の消耗はそれなりに厳しいし、体を着地させる時には痛みを伴う。柔道の経験のある学生にとっては受け身の復習のような感覚であったが、そうでない者にとっては――つまり、星華たちにとっては、全身で苦痛を感じる動作となった。

「降下、左!」

 航空学生たちの苦難は、終日、そして翌日以後も続く。


     Scene#3 東京駅


「ああ、痛たたたたた!」

 宿舎の割り当てられた居室内で、ケイは騒いでいた。

「ここの辺り?」

「そう、そこ、まちっと下まで」

 腰の痛む部分に湿布薬を星華に貼らせながら、ケイは相変わらず顔をしかめていた。航空学生一年目も、体力づくりでランニングやら腕立て伏せやら腹筋やらをたっぷりごちそうされて、毎晩入浴後にケアしなければならなかった。なお、ケアにも好みが出ていて、ケイは湿布薬、星華はスプレー、玲子は塗り薬を好んだ。

 そして、玲子もファッション雑誌を眺めながら、ふくらはぎに薬を塗り込んでいた。表には出さないが、玲子も筋肉痛を負っていたのは同じだった。追いかけられることはあっても、追いかけることのない立場では、痛みも表に出すことができない。それが、玲子の辛いところだった。

 翌日、土曜日の朝は、航空学生たちも外出を許される。学生たちは、陸自の隊員に交じり、それぞれ私服に着替えて営門を出て行く。前日の夕食時、治は「千葉の街を案内する」と提案して来たのだが、それは「同期と出かける約束があるから」と、星華は遠慮していた。治にとっては、「ちっ、最初だから仕方ないか」と、自分を納得させたところだった。

 私鉄とJRを乗り継いで、三人は東京駅に着いた。玲子は、都内の自宅に帰るという。ケイは、伊東の温泉に出かけるために東海道新幹線の改札口へと消えた。

「さて、少し時間がある、か」

 と、一人になった星華は、独り言を口にした。約束の時間までは、東京駅に隣接する高層ホテルのティールームで過ごすことにした。コンサバなワンピース姿の星華の姿は、習志野駐屯地内では人目を惹くものがあったが、ここでは自然に雰囲気に溶け込んでいた。飛行幹部候補生から、セレブ育ちの令嬢に戻っていた。東京駅を見下ろす窓際に席を選ぶと、彼女はカフェラテを注文して、発着する列車を眺めていた。ふと、考えてスマホを取り出して、これから会う約束の相手に、自分の居場所をSMSで送った。

――お父さんとお母さんに会うのも、しばらくぶり。

 今夜は、鎌倉の実家に戻る予定である。星華は、自分が立派にパイロットを目指してやっていると示して、安心させてやりたかった。

 暫くして、ショートメールで返事が入った。

「もう直ぐフリーになります。ぼくも、あと30分くらいでそこへ行きます」

 というのが、返事の内容だった。返事の主・土肥原信彦は、きっかり、三〇分後に現れた。ランチタイムまではそれぞれの前に飲み物を置いて、近況を報告し合い、二人はそのあとで皇居近くのホテルのレストランに移って、昼食という運びになった。

「へえ、今落下傘で飛び降りる訓練の最中なんですか」

「ええ。降下、右、とか降下、左とか……」

 ――なかなか分かって貰えないだろうな。

 と思いつつ、できるだけ分かり易くしようと、星華は身振り手振りを加えて、昨日までの訓練の内容を話した。注文したカレーセットが来ると、それも中断して、食事に移った。今度は逆に、信彦が近況について語った。

 ――

「前回、君のご両親と一緒に、僕と両親とで、食事したの、覚えている?」

 食べ終わったカレーセットの食器が下げられ、代わりに出された食後のコーヒーを前に、信彦は星華に訊いた。

「ええ。横浜のレストランでしたわね」

 飛行準備課程が始まって最初の休暇で帰省した星華は、父親から「新しい仕事が決まった」と聞かされ、「友達の会計事務所だ。お父さんの就職祝いをしてくれるというから、お母さんと一緒に、星華も来なさい」といわれ、山下公園と道路を隔てて反対側にある横浜でも最も格式を有するホテルの一階のレストランに三人で赴いた。待っていたのは、信彦と、会計事務所を営むその両親だった。

 星華は、父が生き生きしている様子を見て、安堵していた。父が、勤め先で行き詰っていたことは知っていた。フルコースが、デザートまで終わると、父親たちは、

「大人はこれから二次会だ。若い人たちは、自由にやりなさい」

 といって、信彦と星華を残してバーに消えた。

「父を雇って下さって、本当にありがとうございます」

 星華は、父親の新しい雇用主の息子に、感謝の言葉を述べて、頭を下げた。

「いや、僕が礼をいわれることじゃないから」

 信彦は、照れ気味にいって、頭をかいた。

 ――

「あれ、半分、僕たちのお見合いだったんだよ」

 信彦の口から出たセリフは、星華にとって余りに意外なものだった。

「え? お見合い、ですか……?」

「そう。親父たちは、僕と君を罠にかけたのさ」

 信彦は、面白そうにいった。実際、前日に、父親同士のメールで送られて来た星華の画像を見て、信彦は父親に「可愛い人だね」と感想を告げると、

「そう思うか。なら、上手く行くといいな」

 と思わせぶりに父は語った。一方の星華は、そんなことはつゆとも知らなかった。というより、パイロットになるための訓練途上にある自分が、見合いをするという発想それ自体ができなかった。当然、星華は信彦から、そのように聞かされてまったく驚いてしまった。

「お見合いって、そんな、わたし……」

 水野二曹の教育を、まだ星華は覚えている。

「恋愛こそ、最大の敵だと思いなさい」

 これに従わなかったケイは、一時、挫折しかけた。玲子は、今も防衛線が固い(実は、彼女の理想のレベルの男が現れないだけなのだが)。恋愛で挫折しないよう、努めて同期三人で固まって行動するようにしてきた。先任期や同期の男子学生をブロックするために、敢えてそのようにしてきた。星華にとって、父親の再就職先の息子であるから、粗略にはできないし、一方で好感を抱いたのも事実だった。でなければ、星華としても、連絡を取ることもなかったし、こうして上京した際に、誘われて会うこともしないだろう。

 信彦は、続けていった。

「分かっていますよ。君はまだ、パイロットになる前だって。僕も、税理士試験の受験中だしね」

 その日は、ランチ場所をあとにすると、星華は信彦に送ってもらって東京駅に向かい、そしてJR横須賀線に乗った。ホームで軽く手を振る信彦に、星華も窓ガラスの内側から手を振って応えた。


     Scene#4 習志野駐屯地再び


 訓練は、着地の要領から、次の段階に入った。体の上下に装着帯というベルトを巻き付け、訓練施設の屋内で天吊訓練という実際の降下に模した状態で着地する訓練、続いて輸送機内での降下までの一連の動作などを受ける。これらの訓練によって落下傘降下に必要なスキルを身に付けたのち、実際に飛び降りる動作を経験するのである。

 駐屯地の一角にある跳出塔は、高さ十一メートルである。心理的に、人間が最も恐怖心を覚える高さで建てられている。ここから安全ロープに装着帯を接続して、飛び降りる動作を行う。事前の説明で、飛行幹部候補生たちのなかには、緊張する者も少なくなかった。星華も、そしてケイもその部類のなかにいた。一方、玲子も内心は緊張していたかも知れなかったが、表には表れていないように、周囲には見えた。

「怖いか? 明日の跳出塔は」

 夕食を取るために食堂に向かって歩きながら、星華は治に聞かれた。それは、座学で、明日からの飛出塔での訓練についてレクチャーされたあとだった。星華は、素直に肯定した。

「ええ。わたし、正直にいうと、少し怖い」

 少し元気の度を失ったかのように、星華が答えた。

「おれも、最初の時は怖かった」

 虚勢を張って、化けの皮がはがれるのを恐れたというより、自分も怖かったという方が、彼女から親近感が持たれるという計算に基づく治の作戦だった。跳出塔は、もちろん危険にできているわけではない。塔の跳び出し口からはワイヤーが張ってあり、そこに落下傘に見立てたリードが滑車でつながれている。跳び出した直後は五メートル以上体が落ちるが、地面に落下することはない。実は、まったくの民間人も、体験で飛び降りるころがあるのだ。

「だけどさ、自分はできるって信じることが大事なんだ」

 偉そうにアドバイスしてはいるが、これは治が基本降下課程で受けた教育の一部だった。そして、「教えられたとおりに、そのままやれよ」と、付け加えた。そして治は、話題を変えた。

「覚えているか? 家庭科の授業の時のこと」

 唐突な質問に、星華は首をかしげて、問い返した。

「なんのこと?」

「裁縫で、ボタン付けのやり方を教えてくれたこと」

 元来、治はそれほど手先が器用な方ではない。小学校当時、家庭科の授業で四苦八苦していたのは、裁縫、特にボタン付けだった。ボタンを縫い付けたあとで、どうしても玉止めが長く伸びてしまい、結果としてボタンが緩んだ。

「はい。こうすれば、結んだあとが伸びないの」

 隣の席に座る星華が、上手なやり方を教えてくれた。治は、もちろん大感激で、胸がときめいた。

「あれと同じ。基本のとおりにやるだけさ。最後に、五接地転回着地を忘れないようにな」

「ええ。分かった」

 なにか、安心したように星華は答えて、微笑んだ。

 ――

 夕食から宿舎へ、女子三人で戻る道すがら、ケイは星華に尋ねた。

「なにかたっちょったのよ? あの昔のクラスメイトと」

 いかにも興味津々な様子のケイだった。ケイは、早くも星華に接近してきた男の本音を見抜いていたのである。

「別に。明日の訓練のこと。跳出塔から跳び出す時のコツとか」

 星華の答えは、素直なものだった。ケイは、「ふーん」と思わせぶりに頷いて、話題を変えた。

「そいにしても、陸自の空挺って、いい男がそろているところねえ」

 脇で聞いていた玲子は、口にこそ出さなかったが、

 ――訓練で来ていて、暢気ね、あなたは。

 と、呆れていた。学生長のとしての重責が、そのようなことを玲子に気にさせていた。玲子は、まだケイの男の価値を判断する基準を知らない。ケイにとってのいい男の基準は、「筋肉質であること」なのである。かつて飛田省吾と燃え上がったのも、彼が首席だったからではなく、同期一の筋肉男だったからである。そして、習志野は、陸自でも有数の体格の立派な男の巣であった。そんなことは、星華も知らなかったから、ケイの心中は分からず、

「そうかしら」

 と首を傾げたのである。

 ――

「環を掛け!」

 教官の号令に従って装着帯をから伸びた自動索環を、強固なバーでできた仮装索環に接続させた学生たちは、号令を待っていた。その多くの者たちは、緊張の極致にあった。

「位置に付け!」

 彼らは、輸送機内を模した跳出塔の最上部の室内にいた。次の号令は、これから外に飛び出す動作を準備することを意味している。外の風が、なかに吹き込んでくる。学生たちは、努めて外を見ないようにしていた。跳出塔は、人間が最も恐怖心を覚える高さを意図して建てられているのである。そして、運命の瞬間は、それから一〇秒以内にやってくる。

「降下!」

 編上靴が床を蹴る。飛行幹部候補生たちは、次々と体を宙に浮かせ、そしてワイヤーにぶら下がって、斜め前方へと滑るように降りていった。女子三人を含んだ次のグループは、塔の下で、その光景を見上げていた。

 星華たちの傍らにいた治のトランシーバーが、塔の上部から次の番が来たことを電波で伝えた。

「2グループ、上へ」

 トランシーバーでの指示を受け取った治が、グループに対して伝えた。迷彩服に装着帯、頭は訓練用ヘルメットという姿で、階段を登り始める。階段を踏みながら、星華は前の候補生の背中を見つつ、治の言葉を思い出していた。

 ――自分はできるって信じることが大事なんだ。

「わたしは、できる」

 緊張するなかで、星華は自分で自分にいい聞かせた。それでも、緊張と怖さが湧き上がることを抑えるのは難しかったのだが。

グループは最上部の室に入った。天井に装着された仮装索環というバーが、室の外に続くワイヤーにつながっている。これに装着帯を環で接続するのである。

「環を掛け!」

 統制役の小松の口から、最初の号令が響いた。顔を幾分強ばらせたまま、グループ先頭の玲子、そしてうしろに並ぶ候補生たちが、続いて自動索環をバーにセットする。正直にいえば、逃げ出したくなる気持ちも、星華にはあった。

「位置に付け!」

 次の号令が発された。

 ――わたしは、やる。

 列の前に並ぶケイの背中を見て、星華は今一度自分に向かっていった。

「降下!」

 小松の号令が下った。まず先頭にいた玲子の姿が、一瞬で消えた。そしてケイがそれに続いた。星華も、反射的に走り出し、そして宙に身を躍らせた。跳出塔の外に出た瞬間、全身から体重が抜けた。体が5、6メートルも下に落ちたのだ。次にワイヤーの弾性で、逆に上方へと引き上げられる。その時に下を見て、初めて星華に恐怖心が湧いた。

 ――いやあああー!

 思わず叫び声が口から出てしまいそうになった。

 ワイヤーをなかに通した環は、そのまま滑って、やがて星華の体も、前のケイに続いて、地面に近くなっていった。

「ありがとう、角田くん」

 着地後、初めて治に顔を合わせた時、星華は顔をほころばせて治に礼をいった。自分が、また一つ成長できた、そう思ったからだった。治は、内心喜びを爆発させつつ、表面は格好をつけて、こう答えた。

「小学校の家庭科の時、玉結びを教えてくれた、あの礼さ」と。

 ――

 落下傘降下訓練は、佳境に入った。降下塔訓練である。降下塔は、高さ80メートルの鉄塔であり、その最上部から、実際に落下傘で吊り下げられ、地表まで降下する。降下中は、落下傘とつながる吊索で落下傘を操作しながら地上まで降りて来るのだが、この操作を誤ると訓練地域内に着地できないばかりか、過去には付近の建物の屋根に着地した例があったといわれている。

「準備よいか?」

「OK!」

 マイクを通じて返事が返ってくると、降下塔の上部から落下傘が切り離される。

「右引け!」

「左引け!」

 と、風向きによって落下傘を微妙に操作しつつ、順番に降りてくる。この日はやや横風が強く、鉄塔にぶつかって落下傘がしぼみ、降下中止となる者も出た。

 玲子は、なにごともないように着地し、五接地転回着地のとおりに右側に着地した。次のケイは、訓練場の脇にある溝に背中からはまってしまって、

「ちっと、なによ! これ!」

 とそのままの姿勢で騒いで、見ている者の笑いを誘った。だが、次が自分である星華には、ちょっと笑いごとではなかった。

 自分の番が来て、落下傘を装着して吊り上げられる前、星華は治に呼び止められ、

「今度も忘れるなよ、基本通り、そして、自分はできる、だ」

「ええ」

 やや硬い表情のまま、星華は答えて装着帯を落下傘に接続した。安全が確認されると、吊り上げが始まる。ゆっくりした速度で、星華の体は地表から離れていった。考えてみれば、飛行機のなか以外では、こんな高さに上るのは初めてだった。まず普通の人生ではあり得ない体験だった。周辺の景色を見ると、意外なほど地上の建物が小さかった。そして、地平線が下の方に見えた。

「準備よいか?」

「OK!」

 そして、降下が始まった。下で見ているとゆっくりした感じだが、自分でやってみるとそれよりはスピードを感じる。

「右引け!」

 風に流されまいと、声に出して落下傘の操作を行う。短い時間の内に、地表が迫ってきた。その瞬間、星華は風向きから左に倒れるべきと思った。

「降下、左!」

 まず両足の裏で地面に接し、左に倒れ、スネ、太もも、臀部、そして着地した足とは反対の右肩の順でうしろに倒れた。

 ――やった!

 と自分でも感じた。星華は訓練地域のなかに、無事着地することができたのだった。

「空挺ナンバーワン!」

「航空ナンバーテン!」

 最初の頃、体力練成で営内を走っていると、伴走する空挺教育隊の者たちは、こういうコールをかけた。ナンバーテン、つまり最低といっていたのである。星華たちは、反発を覚えて、

「航空ナンバーワン!」

 と叫び返した。最近は空挺側も、

「航空ナンバーワン!」

 と発声するようになった。飛行幹部候補生たちは、見事に心理戦にかけられたようだった。落下傘降下訓練も、終わりに近かった。


     Scene#5 習志野駐屯地・空挺教育隊舎前


「飛行幹部候補生の諸君、本日までまことにご苦労様でありました!」

 教育隊長への申告も終わり、出発する朝、主任教官だった速水二尉が助教たちを引き連れて、あいさつに立った。

「本日までの諸君の健闘を讃え、最後に我々から一曲、隊歌を送ります。助教、前へ」

「前へ、進め」

 先頭の号令に従って、助教たちが小走りに候補生たちの列の前に走り出た。

「隊歌、空の神兵。隊歌用意!」

 指揮する一曹が、右手を一直線に空へと伸ばし、それを左右に振りながら、音頭を取る。それは、旧陸海軍落下傘部隊の時代から歌い継がれてきた歌だった。

「隊歌止め!」

 歌が終わる頃には、少なからず飛行幹部候補生たちの頬を、涙が下っていた。星華も、その一人だった。

 ――

 候補生たちは、それぞれ手荷物をトラックの荷台に積み込んだ。これから、来た道を帰り、入間基地経由で、空路帰隊するのである。バスの前では、心が通じるようになった空挺関係者と、飛行幹部候補生たちが別れを惜しむ光景が見られた。

「角田くん、ありがとう、お世話になりました」

 本来の、育ちのよさを感じさせる令嬢の雰囲気を出して、星華は最後の礼をいった。礼をいわれた側にとっては、内心はウキウキだった。

「小学校の時のお礼さ。天辺、必ずパイロットになれよ。おれは、特殊作戦群を目指すから」

「特殊作戦群?――この駐屯地のなかにある?」

 それだけしか、星華は知らなかった。実は、陸自の隊員でも、それは同じことである。

「ああ。おれの目標だ」

 それは、カッコいい所を見せておかなければ、という計算の産物だったが、傍で聞き耳を立てている厄介な人物がいたのである。治は、それにまだ気が付いていない。

 バスが発車する時が来た。相互に手を振りながら、別れを迎えた彼らだった。

「おい、おめえ、特戦群に行きたいってなぁ?」

 バスが角を曲がり、見えなくなってから、治の隣にいる小松二曹が、ヘビのような意地の悪い笑顔を見せていった。

 ――やべえ! 聞かれた……

 治は、背中の体温が急速に低下するのを感じた。不覚だった。一番聞かれてはいけない相手に聞かれてしまったのである。習志野の若手陸曹のなかでは「小松の親分」と呼ばれる顔役に、である。

「それには、まず空挺レンジャー課程だよなぁ、たっぷりかわいがってやるから、楽しみにしておけよ」

 空挺レンジャー課程は、全陸自でも一、二を争う厳しい教育である。担任するのは、この空挺教育隊であり、小松二曹も、その助教を務める可能性があるのだ。

「大林一曹と梅木一曹の御両人も声をかけておくからな。楽しみだなぁ、いひひひひ」

 習志野でも要注意人物の双璧の名を告げられて、治は足がすくむ思いだった。よりによって、父親が陸曹教育隊助教の時にしごき抜き、その時のお礼を、息子に対してやってやろうと考えているかも知れないのが、大林・梅木の二人だったのである。

 だが、もう治には引き下がるという選択肢はないのだった。星華に、口先だけの軟弱者と見られないためには。

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