第7話
私達が次に出向いたのは、劇場です。
現在かかっているオペラの主役がイベリット・アスクリーだと。
私は楽屋に案内してもらいました。
「まあ、若様。お久しぶりですこと。そちらの可愛らしいお嬢様は?」
「……」
綺麗な人がそこには居ました。
素晴らしく通る声の方がそこには居ました。
「……貴女の歌声のファンです」
私の口から出たのは、その一言でした。
「まあ、そうなの」
「兄から、伝手があると聞きまして」
その途端、彼女の表情が固まりました。
見つめ合う私達の間に、数秒の沈黙が広がりました。
「サインを下さい」
私は手帳を差し出しました。
受け取る彼女の手は震えていました。
「お名前は?」
「アンナ」
「……そう、良い名前ですね」
さらさら、と彼女はサインをすると、私に手帳を戻しました。
「ありがとうございます。お兄様、あんまり長くお邪魔はできませんから」
「……ああ」
そして私達は軽く会釈し、その場をそそくさと離れていきます。
私は足早に、廊下を歩いていきます。
兄はその足になかなかついてこれない様です。
建物の外に出た時、とても空が青く感じました。
「お兄様」
「何だ?」
「私の家族はお兄様と、そして、私を望んでくれた方々だけです」
そうか、と言って兄はまた、私の頭をぽんぽん、と叩きました。
「あそこを、帰る場所にしような」
*
さて。
私はそれからカリファーソン家にそのまま戻り、兄越しで伝えてもらった求婚を受け容れました。
「リチャード様のことは、これからおいおい知っていきたいと思います。そして奥様を、これから大事に――」
「まあそんな、お義母さんと呼んで!」
「母は昔から娘が本当に欲しかったんだよ。それに苦労してきたひとも」
「うちも、成り上がりですからね」
「はい。宜しくお願いいたします」
私はこの家に根付くことにしました。
*
三ヶ月後、本当にうちうちだけで結婚式を行いました。
私が呼んだのは、乳母のメリンダだけです。
私を産んだあのひとに関しては、忘れることにしました。
あの時、私達の視線が絡んだ時。
歌姫のひとは、戸惑いと怖れを抱いていた様でした。
私という存在が、公になることを何よりも怖れるような。
だったら私も見切りを付けようと思いました。
望んで生まれてきた訳ではないですから、親を突き放しても構わないでしょう。
「綺麗だよ」
「お兄様」
「父上も館でアイリーンの様子を見たら、これはまずいと縁談どころではない、まずは静養と称して隔離だ、ということが判ったみたいだね」
「やっぱり何処か」
「そこにあるもの全てに手を出さなくてはいられない、というのは我が儘を通り越して病気だ。本当にあの時点でお前をさらっておいて良かったよ。父上が見に行った時には更に丸く膨れていたそうだ……」
やれやれ、と兄はため息を付きました。
「そうですか」
「憎くはないのか?」
「放っておいても、あの食欲と戦うのは本当に滅茶苦茶苦しい拷問でしょうから。私はもうあんなひとのことは忘れます」
そうか、と兄は大きくうなづきました。
「ほら! 花嫁さんこっちにいらっしゃい!」
新たな母となってくれる人が呼んでくれます。
考えるのももう面倒です。
捨てたもののことは、忘れましょう。
そしてここで花を咲かせましょう。
色々面倒になりましたので、あのひと達のことは忘れて新たな家族と暮らします。 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo
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