22話「形成の正体」
「あの少女が夢の世界を創ったと思いますか?」
麻木は確信めいた口ぶりを崩さない。そしてどこか不機嫌そうな様子でもあった。
「じゃないと説明がつかない。あの子は古澄ちゃんでも出来ないことをやってのけたんだから」
麻木は私の明晰夢の特性を理解している。
人は正気を保ったまま現実の軛を越えるような夢を見ることは出来ない。私が夢の世界で自由に振る舞えるとしてもその法則は変わらない。
夢は自由だ。だが現実感と理性がそれを縛る。
空を自由に跳ね回る、何もない空間から滝が降り注ぐ、見えない壁で洪水を押し留める。その光景を記憶としては再現できる、想像も出来る。
だが、それを夢の中で事象として引き起こすことが私には出来ない。誰もが同じだ、異様な光景を目にした時、理性と正気が無意識下で歯止めをかける。
その境界を越えた時、それは悪夢となる。境界を越える為には正気ではいられない。
あの手の光景を実現させるには、夢を見ている無意識が狂気に陥るしかない。二丁拳銃の男然り、燃え盛る男然り、現実の軛を超えた光景は正気で起こせる事象ではない。
だが、少女の意識は清明で冷静であるように見えた。彼女が引き起こした夢は狂気の沙汰でも悪夢の暴走でもない。
彼女は意図的に夢の中で悪夢に近い光景を引き起こしてみせた。
そして少女は、あの世界の裏側へと消えた。
私達は仮想世界を通常の世界として認識することしか出来ない。世界として規定された電子情報の向こう側を私達は認識できない以上、世界の裏側には入れない。
管理者でなければ踏み込むことは不可能な領域だ。
「何にせよ、葉久慈氏の依頼を遂行しつつ少女への接触を試みる方針は変わりません」
私は言葉にこそしなかったが、少女に何よりも興味を抱いているのは確かだった。
現実の物理法則を無視し、無限の想像力を形に出来るというのは、どのような感覚なのか。
そして何故、あのような夢の世界を創り上げたのか。
聞いてみたかった。
麻木は何か思いついたのか考え込む素振りを見せ、何かを決したように私の方を見る。
「あれだけの相手を捕捉するには人手が足りない。久しぶりにやろっか、二人で」
麻木は私へ提案、いやむしろ宣言をした。そうして情報端末に向かって何かの作業に没頭し始める。ぶつくさと独り言を漏らしながら新宿区の地図情報を精査しだす。各種建造物等を含む三次元的マップを元に、様々な地点同士の角度と距離の計算を始めた。経路算出かと思ったが空間距離を含むとなると妙だった。
その詳細を私に対しても隠しているような振る舞いを察し、私は仕方なく家を出た。
何処に行く宛もなかった私は、あの芸術家との会話を思い出し美術館へと向かった。通り過ぎる街一面、情報端末の最新機種の広告で溢れていた。
美術館に着くとやはり人の姿はない。ターンテーブルが館内を忙しなく動き回っている。
あの芸術家の彼女は巨大な絵を前に床に仰向けに倒れていた。床に出来た塗料の海に沈んだまま、私の姿を認めて腕だけを持ち上げ合図をする。
「よく来たね。この前の彼女は?」
「今日は私だけです。特に誘いませんでしたので」
「拗ねるよ、あの子」
そういって彼女は口の端を持ち上げて笑う。今、完成したばかりだという彼女の絵を私は見上げた。絵の傍らにいた電動式脚立が私に場所を開ける。その足場は零れた塗料が幾層にも塗り固まっていた。
上から乱暴に描き加えた色彩と線の集合によって龍の姿は豹変していた。均整の取れた構図も描きこまれた細部も技巧を凝らした彩色も、全て上から塗りつぶされて荒々しい筆の跡が龍の迫力を際立たせている。高層ビルを足蹴に空を目指していたかつての龍は、周囲を破壊し尽くす姿となっていた。
ターンテーブル越しの観覧者達が今は一人もいなくなっていた。以前の評価は反転し褒め称える声は何処かへ消えた。ネットのコミュニティから存在を黙過されているかのようであった。
それでも、彼女は満足そうに頷いていた。
それでも、これを描く理由が彼女にはあった。
「何か一つの物差しだけでは理解できないこともあるのさ。描き直さない方が良かったという人も当然いる」
「でも、こう描くだけの理由があったということですよね」
「そうだね」
「他の人達に評価されなくとも?」
「でも、君は来てくれたでしょ?」
彼女の信頼の言葉を私は否定する。
「私には分かりません」
「素直だね」
彼女は床から身を起こして笑って言う。汚れることも厭わず作業をしていたのか、彼女の全身は塗料塗れであった。その肌に飛び散った塗料で彼女がまるで仮装をしているかのように見える。
何も気にしていない姿は、まるでその自由な精神を体現しているようであり、麻木に似たものを感じて私は羨ましく思った。
この美術館の隅から隅まで回ってみるだけでは芸術性は会得出来るものではないらしい。少なくとも今、彼女が描き変えた絵に対して何らかの評価を下すことが出来ない。
私の正直な告白に彼女は何故か楽しそうに笑う。嫌味のない豪快な笑い方だった。
「理解出来ぬものを畏れず突き放さず、分からないと言えるのは大事な事さ」
「ですが、他の人達は理解出来ています」
「どうかな」
「違うのですか」
「正しいもの、最適なもの、そこからはみ出したら無価値な存在になるのが今の社会なら、この絵も無価値になるわけだけど」
そう言って彼女は仰ぎ見る。描かれた龍の片方の瞳は絵を見る側に視線を向けている。爬虫類に似た縦に細長い瞳孔の瞳と目が合う。
「君の目にも虚無として映るかな」
この社会は無駄な物を排除しつつある。ネットに絶えず繋がることで人々は巨大で緩やかな共同体に取り込まれ、その意識や知識や価値観を更新していく。
そこから取り零された物の行き着く先を彼女は知っているような気がした。
ネットと常時接続することで、人は物質的な距離の制約を無視し一種の巨大で緩やかな共同体に組み込まれることとなった。情報や価値観はネットを介して即時的に伸展し伝播する、それによって人々の意識は絶えずネット上の情報との対比を強いられる。
好意的に捉えれば人は行動指針を手に入れたともいえる。
「ネットのおかげで私達はすぐに正解に辿り着けるようになったよね。芸術だって同じ、誰かが物差しをくれる」
誰も見ていない絵を前に彼女は悲し気な様子を微塵も見せることなく、そう言った。
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