3話「嵐の後と前と」

 覚醒直前、無意識に囚われるほんの僅かな微睡の中。夢と現実の間に生まれる空白。かすかに音楽が鳴っているのが聞こえた。

 電子神経が朝の目覚めに相応しい楽曲を目覚まし代わりに再生している。正確には、脳が解釈可能な電気信号を出力し、音楽が鳴っていると認識させている。電子神経による音声通信と同じ仕組みだ、空気が振動することで音が鳴っているわけではない。電子化された楽曲を脳内で直接認識しているのだ。

 選曲は麻木の趣味であり私は詳しくないが、電子神経が作曲者は「フランツ・リスト」であると示す。脳内に作曲家の代表作や生涯についての情報が浮かび上がってきた。頭を振って情報の羅列を停止させる。必要な情報ではない。

 私はベッドの上で身を起こした。

 部屋の遮光カーテンが時間に合わせて自動で開き、朝の日差しを部屋に呼び込んでいる。電子神経が視覚情報に電子的な補正をかける。眩しすぎた寝室の様子が鮮明に確認出来るようになる。無彩色を基調に統一された意匠の家具と壁紙は、麻木の好みが反映されたものだ。

 新宿区に位置する六十階建ての超高層マンション、その最上階にある一室。それが私と麻木が住んでいる部屋だ。正確に言えば、私は麻木に住まわせてもらっている立場であるが。

 昨晩の竜巻の軌跡を思い起こす。窓の外から見える新宿区の街並みに、その記憶を重ねてみる。勿論、破壊されたビルなど現実には存在しない。

 寝室の窓を離れた。ベッド脇の冷蔵庫からパウチされた飲料水を取り出す。

 共通の寝室は仕事場を兼ねているため、個人の部屋こそ無いが二人暮らしには十分すぎる広さがある。

 物質の徹底した電子化と小型化の進む現代において、物質的な所有物が生活領域を占める割合は減少を続けているが、麻木は特にその傾向が顕著だった。特定の何かに執着している様子を殆ど見たことがない。

 件の麻木は隣のベッドで静かな寝息を立てていた。

 長い手足を窮屈そうに畳み、身を抱くような寝相をしている。睡眠中の横顔だけでも非常に端正な顔立ちをしているのが見て取れる。

 麻木は私の三つ年上の二十三歳。私の友人であり同居人であり雇い主でもある。

 麻木は高校生の時にその才覚を発揮し、電子神経に関するソフトウェア事業を在学中に立ち上げた。

 電子神経と共に歩む新たな時代に彗星の如く現れた若き天才。仰々しく持て囃されていたのが記憶に新しい。事業は順調に軌道に乗り、私は唯一の社員として麻木を手伝っている。

 麻木を起こさないように私はそっと寝室を抜け出した。電子神経にネットとの通信を活発化させるよう指示を出す、朝の情報収集だ。脳内で思い浮かべた命令を電子神経が拾い上げて実行する。

 ネットから無数の情報をダウンロードする、視覚や聴覚を飛び越えてそれらは脳内に直接書き込まれていく。

 今日の気象情報、行政機関からの連絡、国内政治の動向、世界情勢の変化、株式市況、大小問わずの事件報道、都市毎の催事情報、私と麻木の行動予定。

 電子神経によって情報を得る感覚は、まるで既知の記憶を思い起こしたかのようだと人々は喩える。

 私が無数の情報を選り分けていると麻木が寝室から顔を覗かせた。

「おはよう、古澄ちゃん」

 夜中まで起きていた麻木は寝足りない様子で眠そうな声を漏らす。それでも、短めに切りそろえてパーマを当てた髪には寝癖の一つもない。麻木と同居し始めて数年が経ったが彼女が隙を見せることは少ない。

 麻木が寝起きの姿を見せたとしても、その恵まれた長身と体形、そして周囲の目を引く端正な顔立ちはそのままだ。生まれ持った差というものを私は朝から意識してしまう。

 高校生で起業する豪胆さ、それを支えるソフトウェア開発の才能と頭脳と秀でた外見。

 それらを鼻にかけることのない人当たりの良さと人懐っこい笑みで、周囲からは羨望と寵愛を一身に受けている。

 隣で生活していると、その抜きんでた才覚を毎日のように実感する。

 麻木は冷蔵庫からパウチされた飲料水とサンドイッチを取り出して言う。完全栄養食として設計されたサンドイッチは見た目こそ旧来の物であるが、実際は大豆蛋白と栄養剤を混合した疑似肉で出来ている。興味のないものに対しては、徹底した無関心と効率主義を好む麻木の主食だ。

 現代において食事を単なる栄養補給と見做す風潮が強まっているのは確かではあるが、麻木の徹底ぶりは先鋭的とも言える。

「古澄ちゃん、あたし今日忙しいからさ。これ食べたら部屋に籠るよ」

 麻木がそう言うと、私の脳裏に麻木の行動予定が思い浮かぶ。電子神経を介して予定表を共有したのだ。

 麻木は多くの業務を抱えているようであったが、私の予定表には何も書きこまれることはない。

 無論、私と麻木の間には埋めようのない技量と能力の差があるのは承知しているが、私に何も任されないことを好ましくは思わない。

「私に手伝えることはありますか」

「大丈夫、古澄ちゃんは家にいてくれたらいいよ」

 役に立たない、期待していない、そう言外に匂わされているように思える。しかしそれは邪推だ。麻木はそんな回りくどい表現はしない。

「ですが」

「気にしなくていいよ。昨晩は大変だったんだから」

 昨晩、私達は巨大な竜巻を食い止めた。少年が見ていた悪夢から、彼の目を醒まさせた。

 私は悪夢を止める為に夢の世界に潜る。

 悪夢を見ている夢の持ち主を、夢の中から覚醒させることで悪夢を止める。

 人の夢は電子神経によって形を変え、自己の脳内を飛び越えて他者の夢を干渉するものに変容したからだ。電子神経によって夢はデータへと変換され、ネットへと繋がるようになった。

 尤も夢がデータ化されようとも、ネットへと発信されようとも、本来は問題ない筈であった。

 電子神経の出現があっても、ネットの根幹の仕組み自体は数十年前から変わっていない。データ通信はクライアントサーバーモデルかピアツーピアモデルで大別され、その仕組みを踏襲する以上は、正規の手段を踏まずに宛先不明で送信された夢のデータなど誰にも届かない筈だった。

 だが、夢の残滓とでも言うべきそれを誰かが秘密裏に集約し始めた。

 ネット上に構築した仮想世界に幾人もの夢を集めることで、それらは相互に干渉し、仮想世界において新たな光景を生み出す。

 そして夢の光景を現実と錯覚させる仕組みも、あの世界には存在している。オンラインゲームやシミュレーターに活用される没入型の体感技術が仮想世界に転用されている。故に仮想世界の光景は、脳を錯覚させ、全身の五感を用いて体感している現実であると思い込ませる。

 あの強烈な風が肌に吹き付ける感覚を、私は今も鮮明に思い起こすことが出来る。

 昨晩発生した巨大竜巻は一人の少年が見ている悪夢であった。その夢が他者の夢へと干渉すると、あの女性のように自分のものでない悪夢に巻き込まれることになる。

 あの場にいた誰もが、他者の悪夢が混ざった自身の夢を、あたかも現実であるかのように感じただろう。

「そういえばさ、古澄ちゃんが竜巻から助けた女の人。あの人と何か話してたよね?」

「別に大した内容では。そういえば、彼女には見覚えがありまして」

 私は電子神経を利用して夢の詳細な記憶を映像化し共有した。それを見た麻木も女性の顔に見覚えがあるという。

 私がその人物の正体を思い出すのとほぼ同時に、脳内で呼び鈴が鳴った。このマンションに誰かが訪れてきたことの通知だ。一階のロビーで待機している来訪者一名が通話の許可を求めているようだった。

 マンション内部の回線と電子神経を連携させる機能によるものであり、かつて同様の役割を担っていた「インターホン」という名称だけが残っている。

 麻木も気が付いたようだ。

 来訪者である男の姿が脳内に思い浮かぶ。彼はロビーに設置されたカメラに向かって深くお辞儀をした。私達の脳内に描かれたカメラ越しの彼は、神経質そうに撫でつけた前髪が印象的な男性であった。

「ベトガーの音津ねづと申します。弊社代表である葉久慈はくじが古澄様に依頼をしたく、伺いました」

 音津氏が名を挙げた「ベトガー」は電子神経ソフトウェアの業界最大手、世界的にも名の知れた巨大企業だ。電子神経のオペレーティングシステムやアプリケーションの開発を行う他、開発言語やアプリケーションの配布基盤を提供するデジタルプラットフォーマーとしての立場でもある。電子神経の市場拡大に伴い、近年急成長を遂げている。

 その最高経営責任者である葉久慈氏こそ、私が昨晩夢の中で遭遇した女性であった。

「なんで?」

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