【9話・精神乖離集合構造体】
日張丘雲雀が私のシャツのボタンを外した。彼女の手が、私の肌をなぞり、お腹から胸にかけてゆっくり上がってくる。ブラの隙間から指を入れられて、その手の平が私の乳房を包む。彼女のもう片方の手が、私の肌を這いながら、ゆっくりと背中の方へと回された。
私が少し体勢を動かすと、彼女の手が私の背中へと回し入れられて、ブラのホックを外される。冷たい空気が、露わになった私の胸に触れた気がした。私の首へと両手を添えられて、その感触に私は少し肩をすくめる。
「結女之さん、良いのですか」
日張丘雲雀は顔を真っ赤にしていて、怖ず怖ずと、そう言った。彼女の顔が目の前にあって、その赤く染まった頬が、微かに震えてみるのが見えた。
「日張丘さんは私に触れたいと思うんですか」
「えぇ」
私の上に覆い被さる様な格好であった彼女が、肘を曲げて顔を近付けきて、私の耳元に口付けをした。彼女の長い黒髪が流れるようにして、その肩から滑り落ちきて、甘い香りが私をくすぐった。彼女は、私の胸元に躊躇いがちに口付けをして、そうして私を上目遣いで見つめてきた。
姿勢を変えようとした私が、膝を曲げると、私の太股が彼女の腿の付け根に触れた。水音がして、私の肌が湿り気を感じる。彼女が短い詰まった声を、聞いたことのない声を漏らす。
私のお腹を撫でながら、彼女はもう片方の手で、私の内股に触れた。ゆっくりと何度も同じ所を繰り返して撫でられる。その指先が私の膝のあたりから段々と昇ってきて、最期に私の秘部に触れた。私は目を瞑る。
やっぱり、私は彼女に劣情なんてしなかった。
◆ ゆびきたす ◆
日張丘雲雀の家を出て自宅に帰ってくる。家には誰もいつも通り居なかった。日はとっくに落ちていて、私は部屋の灯りのスイッチを入れて闇夜を追い出す。LEDの電球がオレンジ混じりの光を発した。
誰にも会いたくない私にとって、誰もいないことは好都合であった。リビングで私はソファに寝転がる。夏の夜風よりも、この家の中の方が肌寒いような気がした。
この家には、私以外誰もいない。
昔から出張の多かった父は、仕事以外はどうでも良いと思っている人間であった。故に、家庭には寄り付かなかった。父とこの家で過ごした時間は、本当に数えられる程しかない。父が帰ってくるとき、長期の出張からであったにも関わらず、彼はいつも手提げの鞄一つだった。荷物は何処かに預けたか、次の出張先へ送ったか、全て捨ててしまったか。いずれにせよ、父はこの家には何も置かなかった。そして何も持って行かなかった。
彼にとっては此処は、中継地点でしかないのだろうと思っていた。私にとって、父は実体のないまるで概念のような存在で、この家に彼の私物が何もないことが、その考えをより一層強くした。痕跡一つも残さない彼は、本当は虚構の存在で、父と名付けられた全く別の概念であるような気がしていた。私と彼の間に親子という線が繋がっている筈でも、本当は私達の線は平行であるような気がした。
母は、私を産んで直ぐに死んだそうで、写真でしか彼女を知らない。写真の中の女性を母であると教えられただけで、実感も実体もないそれは、ただの設定付けであるとしか思えなかった。それはまるでロールプレイングゲームみたいだと私は思っていた。役割上の設定を与えられ、そう演じるのが必要であると。
私の母代わりとなったのは祖母で、県外の実家からこの家に住み込んだ彼女が、いつも私の面倒を見てくれていた。この家では私と祖母のいつも二人きりであった。
祖母はいつも優しくて、父と母が居ないことで私が寂しさを感じないように、いつも気を使ってくれていた。けれど、そんな祖母も私が小学生の時にこの世を去った。
その日から私は独りぼっちになってしまった。
それ以来、私は一人でこの家の留守番をしてきた。様子を見に来る親戚は、私が高校生になると来なくなった。たまに帰ってくる父も居付くことはなく、私はずっと此処で一人で暮らしてきた。それは寂しくもあった気がしたが、どうしてかあまりそうでもなかった気もした。
寂しさとか悲しさとか愛おしさとか、私はそういったものを何処かに置いてきてしまったようであった。この家は何も私にくれなかったから、私はこの家で何を返すわけでもなかった。
「馬鹿みたいだ」
帰宅してシャワーを浴びていると、祖母の事にまで考えが及んだ。急に昔の事を思い出してしまった私を、私はあざ笑った。誰の気配も無い家の中で、誰に見られている筈もないのに、私はバスタオルを身体に巻き付けて身を覆い隠した。体中に、日張丘雲雀の感触が残っているような気がした。乾いたはずの体液が、今も私の肌を濡らしているようで。
全身の虚脱感が、睡眠への逃避行を誘うけれども、今眠れば鈴乃音鈴乃が夢に出てくる確信が私にはあった。彼女は今の私になんて言うだろうか。それを聞きたくなんて無かった。
鈴乃音鈴乃の言葉を思い出す。彼女が何者であるかは私がよく知っているはずだと。その空想上の存在との馴れ初めを、私は覚えていない。どうして彼女の様な存在が現れて、そうして今も尚、私の夢に現れ続けるのか、私には見当も付かない。
私は鈴乃音鈴乃を避けてきた。生理的にそれを嫌悪し、拒絶してきた。だから私は鈴乃音鈴乃をよく知らない。
イマジナリーフレンドは、幼少期の子供が現実と空想の区別を上手く付けることが出来ずに生み出してしまう。それは空想上でありながら、ある意味では現実世界の存在でもある。鈴乃音鈴乃だって、その類から大きく外れるわけではない。
コーヒーが飲みたくなって、私はようやっとソファから身を起こした。バスタオルを身体に巻き付けたまま、私はヤカンでお湯を沸かす。微かな湯気が現れては直ぐに消えていく。いつも通り砂糖もミルクも入れずに黒いままのコーヒーに口を付ける。独特の苦味が口の中に溶けていく時、私は溜息を吐いた。
幼少期の私は、どうして結女之柚子乃の様な存在を空想したのだろうか。
そんなもの、私は欲しくなんて無かったのに。
◆ ゆびきたす ◆
週が空けて月曜日の朝。私は何をする気にもなれなくて、学校に欠席の連絡を入れた。担任の心配する言葉を私は早々に打ち切って、そうしてからまた布団に潜り込む。やることがあるわけでもなく、しかし暇であることには変わりないので、携帯電話で何となしにネットを見ていた。
行き当たりばったりにリンクを辿っていくと、最終的に恋愛について語ったブログへとたどり着いて。私は携帯電話を放り捨てた。呻き声が部屋の天井にぶつかった。
日張丘雲雀の顔が脳裏を過ぎって、私は手の平で視界を半分覆った。分からなくなる、私が日張丘雲雀を好きなのかどうかを。
「あぁ、畜生」
霧野家桐野の基準に従えば、私はそれにそぐわない。彼女と寝たって、私は彼女に劣情なんてしなかった。日張丘雲雀の様な感情を抱けなかった。彼女との性交は、ただ私の上を通り過ぎていっただけだった。
それでも私は、やっぱり彼女に近付きたいと思うのだ。
確かなのは、それは日張丘雲雀にとってのアプローチの仕方とは違っていたということである。そのズレに、きっと私は嫌になってしまっている。同じ気持ちになれないことを。
彼女と同じであるから、私は彼女を好きであると信じたのに。それに私は苛ついてしょうがない。
一時間目が終わった頃に唐突に携帯電話が鳴った。出てみると霧野家桐野の声がした。
『ゆずっち、どうした』
その質問はむしろ私の方がしたいと思った。霧野家桐野がこんな時間に突然、電話をかけてくる理由が分からない。何か急用でもあるのであろうかと思って私は聞いてみる。
「何ですか」
『ゆずっちの教室行ったら休みって聞いてさ』
「何か用でもあったんですか」
私の教室へ上級生の彼女が訪ねてくる理由なんてそうそう無いだろう。よっぽどの急用か何かであろうかと思った。しかし霧野家桐野が私の問いに対して、別に、なんて言ってはぐらかす。
その掴み所のない飄々とした態度に私は急に苛立つ。軽い言葉と、何もかも放り出したような態度。その結果が、私を苦しめている遠因の一つでもある、と私は彼女を詰りたくなる。彼女が続けるどうでも良い冗談を私は遮る。
「何で、私に掲示板なんて、援助交際なんて教えたんですか。こんな気持ち、こんな動揺、こんなの何も要らなかった。私は欲しくなかった。こんなに悲しい気持ちを抱きたくなんてなかったんです」
それは八つ当たりでもあると私は分かっていた。けれども、言わずにはいれなかった。私が抱いた感情は理不尽で、それを解決する術なんて、論理的な筈もないとは思った。霧野家桐野が動揺して、言葉にならない感嘆詞を何度か呻いた。私がつい溢してしまった言葉を取り繕う方法は知らなくて、何も続けることが出来ない。戸惑った返事が返ってくる。
『生徒会長と何かあったのか』
「私の質問に答えてください」
霧野家桐野が暫しの沈黙を経てから口を開いた。
『実感が欲しかったんだ』
「何のですか」
『ネットの上での出来事は虚構なんかじゃないっていう実感が。だから現実と交差するものが見たかった』
私達の情報化社会は高度に発達しすぎた。この世界に本当に神様がいるなら、きっと予想もしていなかっただろうくらいに。
その結果に、もしかしたらその過程に、私達は今の世界と平行のもう一つの線を伸ばしてしまった。そうしてそこに私達は新しい世界を作り出した。現実から切り離されたもう一つの平行線。そこがあまりにも居心地が良いから、私達はそこに私達を作り出して、いや置き去りにしてしまった。
誰も知らない場所に、誰も知らない自分を。それはきっと、下手すれば、自分とも繋がっていない様な存在に成り果ててしまっていた。
乖離したもう一つの自分は、私達でありながらこの世界において私達ではなくなり、私達はその隙間の埋め方なんて知らなかった。
『ゆずっちが前、聞いたことあっただろ。ネット上のあたしは、あたしなのかって。ゆずっちの見方に倣えばそうじゃないって言ったけど、やっぱりそいつはあたしなんだよ』
霧野家桐野は求めてしまった。平行線に置き去りにしたもう一人の自分、それが実在しているという証明を。ネットの世界はあまりにも自己完結しているから、切り離されてしまっているから、そこに置き去りにしてきた自分を「自分」へと結び付けようとした。その世界に触れたいと思ってしまった。でなければ、その自分は存在出来ないと思ったから。
霧野家桐野はそれで何を得ることが出来たのだろうか。
「それで満足したんですか」
『どうだろうね』
まるで本当はそんなことどうでも良い。そんな風に思っているかの様な口振りで、しかしそれでも霧野家桐野は言葉を続ける。
『あたし達はネットに多くのものを預けてきた。最後には自分という存在さえ。多分、このあたしもネット上に作り上げたあたしもきっと同じあたしなんだろう。でもそれはきっと全く別の存在になってしまった』
私はそこで言葉が詰まる。何も言えなくなる。彼女の言葉とは違う世界が一瞬ぶれて見えた。
その存在は電子の海に溺れているだけではない。私達の抱えた場所の深い底へも、私達はその存在を沈めたのだろう。まるで日張丘雲雀や立田達巳の様に。
「じゃあその人は何処に行くんですか」
そう例えば。もしも、霧野家桐野が望まなくても良いほどに。その二つの平行線が近付いてしまったなら。そうした時、自分という存在は重なってしまうのだろうか。それで、一体どうなるのだろうか。
高度に発達し過ぎた私達の情報化社会は、きっとそれを、今にも実現してしまいそうで。
私達はきっと溺れているのだ。
『あたし達は誰かと絶えず繋がる術を手に入れた。現実と結び付けることが可能になるくらいに。なら、ネットに作り出した存在が現実と繋がってしまったとき、そいつはそのあたしで居続けられるのか』
感情も思想も趣向も、全てを預けてしまったら、その存在はきっと完璧な物になるのだろう。それを許容するだけの深さを、其処は抱えている。そうやって全部沈めてしまったのなら、私達の身体と結び付けられた心と、それは一体何が違うと言うのだ。
他の誰もが知らない其処で、生み出された存在はきっと完璧な存在で、けれどもそれを誰も知らない。ならば、平行線上の存在同士が交差してしまうとしたら、重なってしまうとしたら。その存在は何処へ行くのだ、何処に帰結するのだ。
それとも何処かへ置き去りにされてしまうのだろうか。
私達は、何を置き去りにしていくのだろうか。
「じゃあ、先輩は何処にいるんですか」
『その質問にゆずっちは答えられるの。そんな実感がゆずっちにはあるの』
◆ ゆびきたす ◆
放課後、日張丘雲雀からメールがあった。体調が悪くて休んでいるという旨の返信をすると、今すぐに此方に来ると言う。断ってみたが食い下がるので住所を教えた。
数十分後、玄関のチャイムが鳴る。日張丘雲雀であろうと思って私はベッドから身を起こした。体調の悪いフリだけでもしておいた方が良いのだろうかと思い、私は薄手の毛布を肩に羽織った。
ドアを開けると息を切らせた日張丘雲雀が居た。彼女の慌てた様子が、何故か面白くて私は少し笑った。彼女の手に提げていたビニール袋には、スポーツドリンクと熱冷ましシートが覗いていた。
「体調はいかがですか」
「別にそんな大したことないですよ」
大げさにしなくても、と私は笑った。私は日張丘雲雀を部屋に上げた。お邪魔しますと、上擦った声で彼女は言った。キャラクターもののクッションを彼女に渡して、私はベッドの縁に腰掛ける。
「寝ていなくて大丈夫なのですか」
「もう平気ですから」
クッションの上に正座をし、所在なさそうに部屋中を見ている彼女の姿に、何か見られて不味いものが無かっただろうかと不安になる。彼女は書棚の一点を見ていた。書棚の下に置いてあるアルバムが気にかかるのかと思って私はそれを引っ張り出す。表紙の埃を手で払って、私はアルバムを手渡した。
「良いのですか」
「別に面白い写真はないですから期待しないでください」
彼女は私のアルバムを見始めたので、リビングまで行ってコップを取りに行く。私が部屋に戻ると彼女はとあるページで手を止めていた。それを覗き込むと、黒いカーディガンにワンピースを着て不機嫌そうな顔をした私の写真だった。私の横には無表情の父が並んでいる。その父が喪服だということに気付いたのか、私の顔をふと見つめて彼女は言った。
「御葬式ですか」
「祖母の葬式の時ですね」
「そうですか。いつ、お亡くなりになられたのですか」
あれはいつの時だったか。私はふと記憶を辿る。確か小学生の時の事であっただろうか。祖母が死んだときの事を思い出していると、ふと誰かの言葉が蘇った。雑多な記憶の中でその言葉だけが強く響いた。
『じゃあ、半分こ。貰ってあげる。悲しいことも辛いことも楽しいことも、全部半分ずつ』
それは何処か懐かしい言葉だった。それを聞いたのは、確か祖母の葬式の日で。参列者の誰もが黒い服を着た光景に私は怖くなって逃げ出して、会場の通路の隅で泣いていた。そんな私に、そんな言葉を言った人が居たのだ。
あの日の私は、祖母が死んだことが悲しくて、苦しくて。そんな心の苦痛を捨ててしまいたかった。
そんな私に、その人は、半分貰ってあげると言った。確かにそう言っていた。そして私は、それに頷いた覚えがある。
こんなに辛いなら、そんな感情は要らないと。
そうして私は私の半分をあげた。
あれは誰だったのだろうか。どうしてそんな事を言ったのだろうか。
気が付くと、アルバムを見終わった日張丘雲雀がふと言った。
「鈴乃音さんという名前の方はいらっしゃらないのですか」
「え?」
「結女之さんの使った偽名は誰かから借りたものなのかと思いまして」
その言葉は確かに合っていた。私が始めて使った「鈴乃音鈴乃」という偽名は、借り物である。
「知り合いではありますよ。でも、そいつの写真は無いですね」
当然ではあるが、空想上の存在である鈴乃音鈴乃の写真がある筈もない。日張丘雲雀が見終わったアルバムを私に返し、何気なく言った。
「きっと素敵な方なのでしょうね」
「え?」
「結女之さんが鈴乃音さんと名乗ったのは、そうでありたいという願いがあったなのからではないのですか」
それは今の私を否定しているようにも聞こえた。
私は鈴乃音鈴乃になりたかったわけではなく、鈴乃音鈴乃を欲したわけでもなく。
けれども、鈴乃音鈴乃は私の前に現れた。私とは全く違う彼女から、私は彼女の名前を借りた。
私の部屋の窓から夕陽が差し込んできていて、私達の間をオレンジに染めていた。窓の陰にいる日張丘雲雀が、オレンジの向こう側に見える。彼女が何気なく見せた笑顔にふと胸が締め付けられて、訳も分からず苦しくなって私は問いかける。
「日張丘さんにとって、私はどんな風に見えますか」
私は鈴乃音鈴乃という名前を名乗った。鈴乃音鈴乃という存在を偽った。その身分を借りて繋がろうとした。故に、日張丘雲雀が最初に求めたのは鈴乃音鈴乃で。
けれども、それを私はイヤになって、見て貰いたくて。そうして今、彼女に見えている私は、どんな私だろうか。
「結女之さんは結女之さんですよ」
霧野家桐野の言葉を思い出す。その実感は私にはあるのか、という問いかけを。それは今思えば自嘲の様であったと感じた。
「そんなの分かるわけがないんです。言い切れる筈がないんです」
「でも、あなたがわたしにくれた告白は、結女之さんの言葉だったのでしょう」
日張丘雲雀はそう言って恥ずかしそうに、はにかんだ。それだけで十分であると彼女は言った。その答えは、私が求めていたものであったような気もしたし、てんで的外れでもあるようにも聞こえた。
私のあの時の言葉を、今も自信を持って言えるのだろうか。
「日張丘さんの事が好きなのか分からなくなっちゃったんです」
私がそう言うと日張丘雲雀がその表情を動揺させて。
「あなたと同じ好きになれないんです」
そう、共有できなかった。
日張丘雲雀と同じ線の上に立っていたと思ったのに、私は彼女と同じにはなれなかった。彼女と繋がっていた筈なのにそうなれなかった。いつかの日張丘雲雀の言葉を思い出す。それを否定した筈の私は、今、彼女と同じ物が見えないことを否定したがっている。
「私の心はどっかで迷子になってるみたいです」
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