【8話・目には見えども見えぬもの】
「柚子乃ちゃんが雲雀ちゃんに求めたのは愛情だよ。それが欲しくて彼女の気持ちを利用しただけだよぉ。心地良いんでしょ、楽しいんでしょ」
その言葉は唐突であった。気が付けば私は、あの夢の中の白い部屋の中にいた。そして鈴乃音鈴乃は、私の目の前にいた。ベッドだけが置かれた真っ白で何もない部屋。またこの部屋に来てしまったことに私は苛立つ。鈴乃音鈴乃は私の心の内など知らず、楽しそうに笑っていた。
彼女の言葉に、私は、違うと否定した。けれどもその声は届かず響かない。まるで私は水の中にいるようで、否定の言葉を叫ぼうとする度に、私の肺は乱されて息苦しくなる。確かに叫んでいるのに、耳の奥までその空気の振動は届かない。どんなに叫んでも声は響かず、私の肺は悲鳴を上げ、鈴乃音鈴乃は私の必死さを意にも介さず、ただいつものように楽しそうな笑顔を私に見せつけていた。
それは、鈴乃音鈴乃がまるで、水槽の向こうにいるようで。透明なガラスが私達の間にあるようで。私は夢の中でもがくように何度も手を動かす。彼女を否定しようと必死に叫ぶ。けれども声は響かず私の手は力が入らない。私に向けて首を傾げ、彼女は言う。
「じゃあ、柚子乃ちゃんは雲雀ちゃんの事が好きなの? 鈴乃ちゃんはねぇ、雲雀ちゃんの事好きだよぉ」
唐突に、その言葉と共にようやっと私の声が響いた。
「あなたはいつもいつも、何なんだ! 何者なんだ!」
それは思っていたよりも大きな声で、けれども鈴乃音鈴乃は動じなかった。けれども私の怒鳴り声に少し悲しそうな顔をした。
「それはねぇ、柚子乃ちゃんの方が良く知ってるよぉ」
「知ったような顔をして知ったような口を聞いて」
「だって知ってるんだよぉ。柚子乃ちゃんの内面なんて、全部鈴乃ちゃんにはお見通しなんだよぉ」
「そんな勝手が」
「通るよねぇ。鈴乃ちゃんには分かってるんだよぉ。柚子乃ちゃんが本当はどう思っていてどうしたいのか」
「うるさい」
私はもう彼女と会話することが嫌になって、鈴乃音鈴乃の姿が、この夢が終わるように強く思った。そうして突然、今の一瞬まで目の前にあった光景は既に面影も無くなり、私の視界にあるのは見慣れた天井であった。私の乱れた呼吸の音が私の視覚を一杯にして、現実であることを理解するまで時間がかかる。あの夢から醒めたのだと、私は自分に言い聞かせた。噴き出した汗がまるで水でも被ったかのように私のシャツを濡らしていた。
また鈴乃音鈴乃の出る夢を見てしまった。ぐちゃぐちゃに肌に貼り付いた髪を手のひらでかきあげる。重たい四肢を動かす気にもなれず、私は顔だけを動かした。時計は昼の十二時を示していた。昨日の出来事を私は思い出し呻き声が口から漏れる。
立田達巳に告白された。女装している彼に。私の許容範囲を越えた情報量に頭痛がした。
「暑い」
タンスから下着だけを取って私は自室を出た。濡れたシャツを脱衣所のカゴに放り込み私は生温いシャワーを浴びる。散ったお湯が私の皮膚を叩いて私の形を認識させる。境界線を確かめさせる。私の汗は熱いお湯に流されて何処かへ紛れてしまった。
立田達巳は私の事を好きだと言った。
日張丘雲雀は私の事を好きだと言った。
でもきっと、それは私のそれとは違うのだろう。
◆ ゆびきたす ◆
シャワーを浴びていると脱衣所から携帯の振動する音が聞こえて私は慌ててお湯を止めた。風呂場のドアを開けると、籠もっていたシャワーの熱気が勢いよく出て行く。バスタオルで軽く水を払い、濡れた手でメッセージを確認すると差出人は霧野家桐野であった。その名前に安堵したような、煩わしいような気持ちになる。内容は文化祭の買い出しの事で、私は返信を打たずに霧野家桐野へと電話をかけた。直ぐに電話の向こうで間延びした声がする。
『おおう、どうしたゆずっち』
「先輩、私って可愛いですか」
『いきなり、なんだそりゃ』
「私、急に二人に告白されて」
『なんだよ、惚気か自慢か。あたしに喧嘩売ってんのか』
「先輩は美人だし分かるんですけど、私のことを好きになる理由なんてありますか」
霧野家桐野が私の言葉に笑った。馬鹿にされている様で私は不機嫌に聞く。
「先輩って人を好きになったことありますか」
『そりゃ、あるよ』
「先輩はその人が男性だから好きになるんですか、それとも好きになったらその人は男性だったんですか」
『あたしはレズビアンじゃねぇよ。だから女性を好きになったりはしない』
「先輩ってアイドルが好きじゃないですか。それって格好いいからですよね。じゃあ先輩の好みで格好いい人が居たとして、その人が女性だったら先輩は好きにならないんですか」
『性格は』
「もう全部の先輩の理想通りでいいです」
『なんと』
例え話であったのに思ったより真剣な声が返ってきたので私は苦笑した。冗談めかして笑う霧野家桐野が、ひとしきり笑った後に言う。
『でもそうだとしても、あたしはやっぱり女性を好きにならないと思うぜ』
「それは何でですか」
『なんだろうな。そういう固定観念に溺れているんだろうな、あたしは。同性って言う事実はどっかで私達にストッパーをかけるんだろう。好きっていう感情は性の差によって生まれるものだと、私は思うぜ』
私達の性を区別するものは、私達の肉体しかない。私達の境界線は私達の肉体でしかない。肉体の差、それによって私達は区別され区別し線を引かれ線を引く。私達を大別出来る唯一の基準を作る。
霧野家桐野は言う。誰かを好きになるのに、同性であるという事実はストッパーをかけるのだと。いやきっと、ストッパーなんかではない。引き留めるものでも、押し留めるものでもないのだ。好きという感情すらきっと生まれないのだ、彼女達は。
日張丘雲雀は言った。自分は女の子を好きになってしまうのだと。彼女は同性であるという事実にストッパーをかけないのだろうか、それとも同性であるから好きになるのだろうか。
じゃあ、私は何なのだろうか。
「じゃあ、好きになるって何ですか」
通話の終わった受話口に私はそう呟いた。
私が日張丘雲雀を好きだと感じたあの瞬間に、彼女の性など存在しなかった。肉体で区切られた境界など感じなかった。なのに私と彼女はきっと違うものを見ている。
濡れたままの身体は冷えはじめ、感覚を失いはじめ、それはまるで私の肉体ではない様に感じた。携帯が振動した。メッセージを確認する。差出人は立田達巳であった。短い一文を私は繰り返し読み返す。
『今からお会い出来ませんか』
立田達巳からの質問に、私は待ち合わせ場所を問う返信を送った。
◆ ゆびきたす ◆
立田達巳という人間について、私は多くを知らない。だから彼の語った言葉を私はそのまま受け取るしかない。
彼はいつからか男性の肉体というものを嫌悪する様になったのだという。その理由は分からない、けれども彼はどうしても嫌になってしまった。当然、彼自身の肉体も。顔も髪も目も頬も肩も胸も腰も足もその皮膚も身に付けているものも。全てを切り捨ててしまいたくなるくらいに。
そうして悩んで苦しんだ末に、彼はそれを隠してしまうことにした。そうする術も覚えて、そうする事が当たり前になって。女装という形で、彼は心から肉体を切り離した。
「本格的になったのは中学生くらいの時です」
そう言って彼は話を終えた。立田達巳と最寄り駅前で待ち合わせた私に、彼はそんな話を語った。会話の終わってしまった私達はどうするわけでもなく、駅前のロータリーのベンチに腰掛けたまま、足早に過ぎていく人の群を眺めていた。女装した彼の姿を気に留める人間など一人も居ない。そんな事、露にも思わないだろう。彼が今女装をしているだなんて。
「そっか」
「すみません、先輩には知って貰いたかったので」
どうすることも出来ないと思った。それは私にはあまりにも遠い処にあったし、それはもう既に完結していた。私の認識によって、その事実が変化することもないであろうと思った。
彼はそんな私に向き直り、真剣な目をする。
「先輩、僕は先輩のことが」
「ごめん立田。私、今付き合ってるから人がいるから」
その言葉はすんなり言えた。彼の言葉を最後まで言わせず、その言葉は淀みなく言えた。私と日張丘雲雀の関係を私はその言葉で表現できた。彼はそれを聞いて少し悩んでから私に問いかける。
「生徒会長とですか」
「そうだね」
「先輩は僕が女性だったら好きになってくれましたか」
立田達巳が彼の手を見つめながら言う。綺麗に塗られた爪は見比べれば私の指先よりもずっと女性らしかった。私の姿よりずっと彼の方が女性的だった。
肉体の差異が好きという起点になるなら、性という区別が私達の感情を選ぶなら、ならきっと立田達巳という存在はひどく錯綜している。
彼は女性を好きになった。でも彼の肉体は女性であろうとした。彼の精神は、まるで後付けの様な肉体を拒否したのに彼は男性という性を持ち続けている。彼が否定したのは自身の肉体で、彼の心は肉体から独立して、それなのに彼の心は肉体の持っているものと同じ性であった。肉体にいつだって結び付いている筈の心は、そんなしがらみを既に何処かに置いてきていた。
「相手が男とか女とか。多分、そういうことじゃないんだと思う。私にとっては。少なくとも日張丘さんに対しては」
私は立田達巳の問いに対し率直にそう言った。私は、相手が女性だから好きになったのではないのだと。
肉体の差異が好きという起点になるのなら、私はきっと説明できない。彼は私の答えを笑わなかった。怒らなかった。ただ彼は真剣な顔をした。
「先輩はその人の心に価値を見出したんですね」
「立田は違うの」
「先輩の見方に倣えば、僕にとって、それは付加価値でしか無いんです」
それが恥ずかしいことであるかの様に、寂しそうに、はにかんだ。でも本当は彼の方が正しいのだろう、と私は思った。
霧野家桐野は言っていた。そういう固定観念に溺れていると。けれども、一体誰がそうであることを批判できると言うのだろうか。私達の感情の起点を否定するなら、私達は人であることを否定してしまう。
「僕は先輩が羨ましいです。僕はそんな風に世界を見れないですから」
私は何も応えなかった。
私達の心は肉体に後付けされたものだ。心は身体に絶えず結び付けられて存在していてる。
でも私が好きになったのが日張丘雲雀の心であるなら、私はそれを肉体から切り離していた。私が好きになった日張丘雲雀は、私の見ていた世界の中では、彼女の肉体なんて存在しなかった。私は彼女の性がどうだとか、彼女の肉体がどうだとか、そんなもの気になんてしなかった。だから私の中で彼女の心は、肉体から切り離されて存在していた。
目の前の立田達巳の姿を見つめる。彼の心は肉体を否定した。それでも彼の心は肉体によって区別された通りであった。今この瞬間に矛盾した状態でいる彼は、一体何と繋がれているのだろう。
「じゃあさ、立田の心って何処にあるの?」
肉体を拒否した心の居場所を彼は応えてくれなかった。
私は帰ろうと思って立ち上がる。そんな時に、ポケットの中の携帯電話が振動する。通話ボタンを押して電話に出た。通話が繋がっても、暫くの間無言の声だけがした。断絶した通話は、弱気な声で繋がれた。
『今から会えませんか』
電話の向こうで日張丘雲雀はそう言った。
◆ ゆびきたす ◆
教えられた住所を頼って、私が日張丘雲雀の家の前に着くと、彼女は門の所で私の事を待っていた。私の顔を見て彼女は泣きそうな顔をする。彼女に連れられて私は彼女の部屋に入った。書棚に沢山の本が並んでいる以外、殆ど何も置かれていない質素な部屋だった。白い壁紙に白いカーペット。ベッドと最低限の家具と。何処かで見たような光景に私は立ち眩む。
部屋に入った途端に、私の背に彼女は、まるですがりつく様にしがみついてくる。私が驚く間もなく、私の背で彼女は泣き出した。私のシャツに冷たいものがゆっくりと広がっていく。布を隔てていてもその冷たさに私の肌は反応した。
「わたし、結女之さんが消えてしまうのではないかって、取られてしまうのではないかって、不安になってしまって』
私のシャツをくしゃくしゃにする。急に泣き出した彼女に、私は混乱して、自分のスカートを手の平で掴んだ。
彼女の言葉の意味を私は量り損ねた。私が立田達巳を選ぶという意味なのか、それとも立田達巳に私達の関係が露呈したことで関係を解消してしまうという意味なのか。彼女がそんなにも恐れているものが、私には少し分からなかった。そうして同時に、彼女が私との関係をそうまで想っていることに嬉しくなる。だから、その言葉だけは否定したくて向き直る。
「そんな事無いですよ」
日張丘雲雀が私の顔を見つめてくる。目の端には涙が見えて、頬にはその跡があった。
私達の関係はどんな風に見えるのだろう。私達が特別な関係であると、誰かが見たってきっとそうは見えないのだろう。あの水槽に並んで映った時の私達はどんな風に手を繋いだら、そのように見えるのだろうか。
私は日張丘雲雀を好きだと思った。自身がビアンであることは否定するけれど、日張丘雲雀の事を好きだと思った。
日張丘雲雀は私を好きだと言った。彼女が抱えた想いを聞いた時、日張丘雲雀の抱えた好きと同じ好きだと思った。
けれど霧野家桐野は言った。愛情は同情でも友情でも無いのだと。それを勘違いしているのではないかと。私はそれを違うと否定した。否定できた。私達の関係はそんなものではないのだと。
されど霧野家桐野は言った。それを証明出来るのは、肉体関係を築こうとする意志かどうかである、なんて言ってのけた。もし私達の関係を、私の感情を、私自身が証明するのにそれしかないのなら、私はきっとそれを証明できない。
どんなに手を繋いだって私は彼女の肌に、その温もりに価値を見いだせない。日張丘雲雀が手を繋ぎたいと思った理由にはなれない。
どんなに唇に触れたって私は彼女にもう一度触れたいと思えない。日張丘雲雀が抱いた感情を私は知らない。
けれどもあの時、私は彼女と同じ線の上に立っていると思っていた。それは今も変わらないと思うのだ。だから私は心の何処かで私に期待していた。
「私は離れたりしませんよ、日張丘さん」
「じゃあ、その証を下さい」
日張丘雲雀がそう言った。私が言葉を返そうとする前に、彼女は私の唇を塞いだ。彼女のベッドへと、私は背中から倒れ込む。ベッドのスプリングが軋む音がしたが、その音は私を呼ぶ甘い声に上書きされる。
私の顔にその両手を添えられて。私は視線を外せず。彼女の目は真剣で、紅揚した頬は震えている様に見えた。
「結女之さんとわたしが特別だっていう証を」
そう言われて、私の唇は彼女の唇で包まれる。生暖かい感触と熱い吐息が、私の頬に触れた。彼女の細い指が私の輪郭をなぞる。
身体から切り離された心は何処に行くのだろうか。置き去りにされたのか、先に行ってしまったのか。
私は「私」に期待していた。日張丘雲雀と同じ線の上に立っていると思っていたから。私の心はきっと、肉体に繋がれたままだと思ったから。
なのに、私の指先は、まるで不感症であるかの様に。まるでガラス越しに触れた水槽の水であるかの様に。
私はやっぱり日張丘雲雀に劣情なんてしなかった。
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