【6話・ナーヴ・イン・ザ・コノセカイ】


 下校を始める生徒達の隙間を縫って、足早に校舎を出て、駐輪場まで自転車を取りに行く。校門で私を待っていた生徒会長の側まで自転車を転がした。彼女は普段、学校から駅までの帰り道にバスを使っていると言う、私は自分の自転車の後ろの荷台を手で軽く叩いてみせた。その行動に、首を傾げる仕草が返ってきた。担いでいた鞄を自転車の前カゴに詰め入れて、私は自転車にまたがる。動こうとしない生徒会長に、私は言う。

「後ろ乗ってください」

「二人乗りは違反では?」

「誰も気にしてませんよ、そんなの」

 私がそう言い切ると、彼女は遠慮がちに自転車の荷台に腰掛けて。両足を揃えて横向きに座る。私は少し腰を浮かせてペダルを強く踏み込んだ。少しふらついた自転車に、生徒会長が小さな悲鳴を上げる。私の肩にしがみついてきた。二回目の踏み込みで勢いづいて、自転車が安定すると、彼女は慌てて手を放す。

「すみません。結女之さん」

「いえ、掴まってて下さい」

 生徒会長を後ろの荷台に乗せて、駅までの裏道を走る。二人乗りを躊躇うような彼女が私の自転車に所在なさそうに座っている。私は風に流されてしまわないように声を上げて聞いた。

「さっき、何読んでたんですか」

「ショーロホフです」

 私はロシア文学について語り合わせるような知識も興味もなくて、何て答えたものだろうかと言葉を探す。その一瞬の沈黙に彼女は私の背中に呟いた。

「暗い趣味ですよね」

「生徒会室で読書に耽る美少女。絵になるじゃないですか」

「美少女だなんて」

「だってそうじゃないですか。可愛いって言ったのは嘘じゃないですよ」

 私の言葉には何も応えなかった。駅までの裏道を自転車で走る。同じ制服の顔も知らない生徒達の側を通り抜ける度に、彼女は黙り込む。私達のこんな関係を端から見たとき、「彼ら」は何と呼ぶのだろうか。

 駅前に着くと私は自転車を止めた。夕焼けが沈みそうな時間で、駅前には帰路に着くスーツ姿の疎らな群れと、その中に私と同じ制服姿が幾つかあった。それを少し気にしながら、生徒会長がゆっくり荷台から降りる。

「また生徒会室に行っても良いですか」

「何故でしょうか」

「一緒に帰りたいなぁ、と思って」

「それには幾ら必要なのですか」

 その言葉は何処か冷たくて、私は慌てて首を横に振った。自転車のハンドルを握り締める。通行人の肩が私にぶつかって、少しよろめいた。

 私の行動が、そんな風に受け止められているとは思ってもいなくて。今この時間は、日張丘雲雀が鈴乃音鈴乃の時間を買っているわけではない。私は言葉を急いで探し出す。

「そんなんじゃないです。私はあなたと仲良くなりたいだけで」

「それは鈴乃音さんとしてでしょうか」

「私は、あなたの事をもっと仲良くなりたい、もっと詳しく知りたい、って思ってます。そんなの普通の事じゃないですか。あなたが女の子を好きになるとかそんなの関係ない、私、あなたの事が好きなんです。だから仲良くなりたいって思うのは変なことですか」

 私の言葉に、彼女はその眉をひそめた。彼女の表情は無表情に近くて、何を読みとれず。まるで作り途中の仮面のようであった。それを見て何故か私は悲しくなって。そんな彼女は吐き捨てる様に言葉を連ねる。

「馬鹿にしてるのですか。それとも同情ですか。少し優しくすれば、わたしがあなたに惚れるとでも思ってるいるのですか。自分はレズビアンでないなんて言って、それでわたしが惚れるのを楽しんで見ているのですか。そうやって、優越でも感じたいのですか。

 そんな好意なら結構です、お断りします」

 私の返事を待たずに、彼女が駅前の喧騒に消えていっても、私の耳の奥ではその言葉がずっと反響していた。


        ◆ ゆびきたす ◆


 鈴乃音鈴乃が私の前に居た。白いベッドの上に身体を丸め、まるで猫の様に眠っていた。私は周りを見回して、そうしてまたあの夢の中に居るのだと気が付く。鈴乃音鈴乃が居る時は、現実ではない。

 毎度の如く、本当に真っ白な部屋だった。この夢を見る度に、私はいつも不思議に思う。

 何故、この部屋には何も無いのだろうか。真っ白な床と壁紙と、シワ一つ無いシーツのかかったベッド。この部屋にあるのはたったそれだけで、生活感の欠片もない。鈴乃音鈴乃という存在は私の空想上のもので、だから彼女にそんなものを求めるのは間違いなのかもしれないけれども、それでもやっぱりティッシュの一箱だとか、ハンバーガーの包み紙を捨てたゴミ箱だとか、そういうものがあったって良いじゃないかと思うのだ。

 鈴乃音鈴乃は静かな寝息を立てていて、いつものように私に嫌味を言うこともなかった。夢の中でやることも無く、私はベッドの隅に腰掛けた。少しベッドが沈んみこむ、けれども彼女が起きる気配は無かった。

「あなたは一体、何なんだ」

 私は眠った鈴乃音鈴乃に呟く。彼女の幻影が現実でもちらつく様になった。見間違いであると思い込もうとしても、否定できずにいた。そもそも見間違いとかそういうものではないのだ。彼女は空想上の存在なのだから。それが見えた気がする時点で、それはもう存在しているのだ。

 いつからか夢の中に押し込めた彼女が、またいつかと同じように現実でも現れようとしている。

 私が幼少期の頃から見えていた空想上の存在。現実と夢の境界付けが不完全である幼児が、認識齟齬を起こした結果現れる「イマジナリーフレンド」という存在。鈴乃音鈴乃もその存在にきっと間違いないのに、鈴乃音鈴乃という存在が空想上のものであると私ははっきり確信しているのに、彼女は私の夢の中から消えることはない。

「柚子乃ちゃんは病気なんかじゃないよぉ」

 私の耳元で、あの舌っ足らずの声がした。肩と背中に重量を感じる。彼女の白い腕が、私の顔の横にあった。背中にもたれかかってきた彼女に、低い声を出す。

「そうやって心を読む存在が普通な筈がない」

「鈴乃ちゃんは普通じゃなくても、柚子乃ちゃんは普通だよぉ」

「普通じゃない存在が夢の中にいつも出てくる。病気以外の呼び方を私は知らない」

 私の言葉を聞いてもいないのか、彼女含んだような息を吐き出して私に話し出す。私の背中に顔を埋めて声を出す度に、その音の感触が背中を這う。一文字一文字が確かな感触になる。その度に、私の身体は拒否反応を起こして、寒気がして、鳥肌を立てる。

「柚子乃ちゃん、雲雀ちゃんに嫌われちゃったねぇ。鈴乃ちゃんの名前なんて、幾らでも貸してあげるのに」

「うるさい、関係ない」

「嘘だぁ。雲雀ちゃんが鈴乃ちゃんの名前を呼ぶの嫌だったんでしょ。自分の事を見て欲しかったんでしょ。あんな関係を作った柚子乃ちゃんを、特別視して欲しいと勝手に粋がってさぁ。

 それって傲慢だよねぇ。もしかしてさぁ、援助交際をした相手に惚れるとでも思ってた? 雲雀ちゃんが自分に惚れるとでも期待してた?

 人を愛したり愛されたりしないと思ってたんでしょ。それで良いと思ってたんでしょ。

 そういう人間であろうとしたんでしょ。そんなの要らないって言い聞かせてたんでしょぉ。なのにさ、こんなにも柚子乃ちゃんは固執してるよねぇ」

 鈴乃音鈴乃がそう言うと、その手で私の顔に触れた。私の頬から顎にかけてその指先を這わす。白く細い指が、長く細い髪が、私に触れる度に私の嫌悪感を逆撫でる。私の耳元で囁くそれを拒否したくて、その手を払おうとした。けれども私の手を急に掴まれた。私が振り向くと、彼女はその表情を、満面の、そう本当に楽しそうな笑顔へと変えた。

「柚子乃ちゃんが欲しいのは愛だよ。それも自分勝手な」

「そんなの有り得ない」


        ◆ ゆびきたす ◆


 目が覚めると朝になっていた。鈴乃音鈴乃の夢と、昨日の日張丘雲雀の言葉が、私の頭の中で何度も響いていた。反響する度に、それは頭痛に変わる。夢の中の様に、今も耳元で囁かれているようで、私は舌打ちする。

 ベッドから起きあがろうとしたが、昨日立田達巳へ言った忠告を思い出す。学校は休みであった。

 呻き声を吐いて、もう一度ベッドの上に倒れ込んだ。何もしたくない気分なのに、何もしていないと嫌な事ばかり考えてしまう。

 枕元の携帯電話を掴んで、私はメール画面を開いた。アドレス帳に並んだ名前の中から、日張丘雲雀を選び出す。そうして真っ白なメール画面を前に私の指は止まる。鈴乃音鈴乃が背中にもたれかかってきた時の、あの絡み付くような感覚が背中を過ぎる。

 私が欲しかったのは何だったのだろう。

 私はずっと人を愛したり愛されたりしないと思っていた。それで良いと思っていた。そういうものだと思っていた。その切っ掛けは思い出せないが、私の手で海の底へと沈めた様な気もしていた。

 なのに不感症になってしまったような指先で、感じたいのはガラス越しの冷たさでなくて。でも、そんなのを何と呼ぶか私は知らない。

 私は霧野家桐野へと電話をかけていた。ベッドの上で寝返りを打って私は天井を眺める。

『ゆずっち、どうした?』

「昨日の話の続き、しても良いですか」

 私はとある人物の話をした。同性を好きになってしまう彼女は、それを隠匿しておくことが、何も知らない相手を傷つけてしまうと思っている。一緒にいる時間を裏切ってしまうことになるから、と。だから、彼女は、誰からも距離を置いた。

『で、ゆずっちはどうするのさ。どうしたいのさ』

 霧野家桐野は私の話をずっと聞いていたが、ふとそんなことを言った。

 私は救いたいと思った。救うという言葉は、どうしても似合わない気がしたが、他の言葉が思い浮かばない。同情でも優越でもなく、彼女を助けたいと思った。それは、彼女が沈み込んだ場所は、悲しすぎると思うから。

 あの時、私を遠ざけた時の彼女こそがきっと。彼女が作り出した、誰かと繋がるための「彼女」なのだと感じた。でも、それは、本質的な面で見てしまえば。私がやってきたことと、そう変わらないのだろう。

「だから、どうすれば良いのか分かんないんですよ」

『青春だねぇ』

 霧野家桐野の茶化すような言葉に、私は低い声を出した。電話の向こう側で笑い声がして。ひとしきり笑い声が聞こえてきてから、似合わない真面目な声が聞こえてくる。

『でもそれは伝えなきゃ。じゃなきゃ、ゆずっちはその人にとっての誰かと変わらないよ』

 携帯電話のスピーカーの向こうで、別の声が聞こえてきて、霧野家桐野は慌てて別れの挨拶を言った。通話終了を合図する断続的なブザー音だけが私に残された。

 私は通話画面を閉じて、援助交際の掲示板を開く。「鈴乃音鈴乃」と「ひつじ」との過去のやり取りを探す。そうして、過去のやり取りに新しい返信を打った。そうしてから日張丘雲雀にメールを送る。「掲示板を見て欲しい」と一文だけを打ったメールを送る。

 掲示板を開いて暫く待っていると、反応があった。「ひつじ」が私の書いた条件を呑むという。約束は今日の12時。場所は池袋。三時間、二万円で会う。私は彼女の時間を二万円で買った。

 洗面所に降りて顔を洗う。コンタクトをして瞬きを数回した。目を強く瞑って、開く。鏡に映っている私をもう一度見直す。短くしてある強い癖のかかった髪、一重瞼で化粧も薄い地味な顔立ち。薄手のパーカーにジーンズなんて色気もない。そんな姿を何度も見直して、私は「私」を確認した。そこに確かに居るのだと認識する。

 電車に乗って池袋に向かった。駅前のいつもの場所に彼女は居た。私の姿を認めて、日張丘雲雀は前髪を指先で払う。

「今日のあなたはどちらなのですか。鈴乃音さんなのですか、それともまた別の名前を借りるのですか」

「結女之柚子乃ですよ」

 私の言葉に反応した彼女の表情の意味は読み取れなかった。日張丘雲雀が、私の言葉を待ったまま黙っているので、呼び出した理由を拙い言葉で紡ぐ。

「どうしても、あの時の言葉を信じたくなくて」

 返事は無い。私の言葉がまるで栓をしてしまったかのように。私達はそこで立ち止まったままだった。何処に向かうわけでもなく私は言葉を探す。足下から沈んでいく様な感覚に溺れていくことを恐れ、私達はいつも足を止めることを嫌う。けれども、今の私は踏み出せず。そんな私達を避けながら、通行人の群れは歩みを止めない。平日の昼間にも関わらず、混み合う駅前の人の群れは、まるでそれ全体が一纏まりりの個体の様で。

「日張丘さんの言葉が聞きたかったんです」

「あの時の言葉だって、わたしの言葉です」

「違う、違うんです。そうじゃないんです。あなたの作った日張丘雲雀じゃなくて、本当の日張丘雲雀の気持ちを私は知りたい」

 曖昧な言葉過ぎて、自分でも何を言っているのか分からなかった。それでも私には、正しい言葉である様に思えた。

 日張丘雲雀が私から隠した表情を、あの時の仮面みたいな彼女から暴き出したかった。何度も見てきた彼女自身を見たかった。私が知りたいのは、誰かと繋がるためのツールじゃなかった。彼女が作り出した誰かと繋がるためのツールは、それ故に誰かとの距離は遠いままで。不器用な私は、その距離を縮める事が出来たのに、また距離を作り出してしまって。

「日張丘さんは、そんな風に誰かを遠ざけなくたって良いんです」

「だって、どうすれば良いのですか。誰かに近付く度、わたしはまた傷付けてしまう。わたしは裏切ってしまう」

 彼女は思い詰めすぎているだけだと思う。でも、それを解く方法を私は知らなかった。

 だから私は彼女に伝えたいのだ。そんなに思い詰めなくたって、近くにいたいと思っている人間がいることを。けれど、日張丘雲雀と鈴乃音鈴乃の関係では、心の方向は一方的過ぎた。

 それでも、私は彼女に近付きたいと思った。誰かを傷付けてしまうのが怖いから、誰かから距離を置いた彼女に、近付きたいと思った。こんなにも強く惹かれている私がいた。この感情を、私は何と呼ぶのか知らない。きっと同情なんて言葉じゃない。

 彼女の誰かと繋がるためのツールじゃなくて、私が知りたいのは、私が近付きたいのは、私の知っている彼女なのだ。

 私達が綺麗に引いた平行線では、交わることは決して無くて。眼鏡も、名前も、今日は捨ててきた。そうして私は、また新しい線を引こうとする。

 伝えたい私の言葉が、自分の中で一杯になってしまって。それを表す言葉を私は知らなくて。彼女に手を伸ばして、その細い腕を取ろうとする。けれど、私が差し出した手を、彼女は払いのけた。力なく私を払いのけた彼女の手が、一瞬過ぎったその後ろに、涙を浮かべた瞳が見えた。嗚咽混じりの咽せた声を、彼女は必死に絞り出す。

「わたし、あなたの事が好きです。知れば知るほど、あなたの事が好きになってしまうのです。もっと、あなたに近付きたくて、あなたの側に居たくて、本当のあなたの事を知りたくて。でも、だから、近付けばまた傷付けてしまう」

 日張丘雲雀はそう言って泣き出した。

 その突然の告白に、私は何かがこぼれ落ちた感覚を覚えた。何かが崩れ落ちた気がした。ガラスが割れたような音が聞こえた気がした。

 最初から分かっていた筈なのだ。彼女が好きなのは、女の子なのだ。それを私は知っていた。

 私は日張丘雲雀に何を言って欲しかったのだろう。そんな事を今更考える。私は彼女に特別視して欲しかった。お金で価値を付けられた、区切られた時間。それで終わる関係が嫌になって、それ以上のものを望んでしまっていた。それを何と呼ぶのか私は知らなかった。

 日張丘雲雀は、女の子を好きになってしまうから、誰からも距離を置いた。近付きたくて、側にいたくて、本当のその人を知りたくて。好きという感情を吐露した彼女の言葉が、私の中で渦を巻く。音が、言葉が、空気の振動を越えていく。

 鈴乃音鈴乃の言葉を思い出す。言葉の意味を理解する。私が欲しかったのは、こんな簡単な言葉だったのだと。私も、きっと同じだった。同じ言葉を伝えたかったの。

 私は日張丘雲雀が好きだったのだ、と。

 目の前で泣く彼女へと手を伸ばす。指先が肩へ触れた。

「私は結女之柚子乃と言います。あなたのことが好きです。付き合って下さい」

 私の言葉は日張丘雲雀の頷きで完結した。

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