【5話・Life is like a like.】
「だから日張丘さんのメアド、教えてください」
「鈴乃音さん?」
日張丘雲雀が私の提案に少なからず動揺しているように見えた。私の名前を口にした彼女に私は、笑みを返す。赤いフレームの眼鏡を外して言葉を返す。見つけた言葉を口にする。
「結女之です」
生徒会長は何度か口をパクパクさせていて、そうして、慌てて鞄から彼女の携帯電話を取り出した。その携帯電話に、あの時の羊のストラップが付いていたので私は小さく笑った。私も携帯電話を取り出すと、彼女の携帯電話と突き合わせる。
Bluetoothで互いのアドレスを交換して、私は携帯電話をポケットにしまう。その動作を生徒会長がじっと見ている事に気が付いて私は手を止めた。どうかしたのだろうかと思って私は彼女に向かって首を傾げてみる。
「ストラップ、付けてないんですね」
その声は少し沈んだものの様に聞こえて、私は鞄の中に手を突っ込んだ。指先に触れた柔らかい感触のそれを掴んで取り出す。私の手には、あの羊のストラップがあって、それを見た彼女は表情を明るくした。私が携帯電話を保持した右手の指先だけで、ストラップ穴に羊から伸びた紐を通すと感嘆の声が向けられる。
私のちょっとした特技への、思っていた以上の反応に、私は急に照れ臭くなって携帯を仕舞ってこの場を離れようとした。それを日張丘雲雀が引き留めてくる。
「あ、あの。最寄り駅は何処ですか」
「大泉学園ですけど?」
「じゃあ、西武線なのですね。わ、わたしも西武線なんです」
その言葉で、彼女が何を言わんとしているのかが何となく予想が出来た。
途中まで、一緒に帰りませんか。そんな誘いの言葉に私の思考は暫し停止した。眼鏡を外して少し滲んだ視界の中で、彼女は顔を真っ赤に染めていた。私は気付かぬ内に頷いていた。戸惑うような足取りで私達は、少し酒気臭い車内に一緒に足を踏み入れる。
静まり返り、車両のガタツく音だけが空虚に響く中で、その空間に遠慮して私達は口数が少なくなる。急に、何を話す気にもなれなくて、私はどうでもいい天気の話なんかを口数少なく口にした。時折遠慮がちに笑う日張丘雲雀の横顔をふと見た瞬間に、私はどうしてか叫び出したくなる。でも私は、その衝動を上手く言語化する術を知らなくて。
「少し混んでいますね」
「まぁ、帰宅ラッシュの時間ですし」
暗い外の景色を映し込んだ車窓には、吊革を掴んで並ぶ私達の姿が落とし込まれていた。闇に沈んで輪郭線のぼやけた私の姿が、眼鏡無しの視界の私の姿が、どうしてかそれは鈴乃音鈴乃の様に見えてしかたがなかった。今は夢の中でないのに、鈴乃音鈴乃がその窓に写っている様に思えた。
今はあの夢の中ではない。私が今認識しているのは現実だ。
◆ ゆびきたす ◆
翌朝。一晩寝てしまえば、まるで嘘の記憶の様だった。夢の中だけの出来事のようだった。私は枕元に置いた携帯電話を掴む。欠伸混じりに携帯電話でメールを打つ。宛先は生徒会長だった。短い文章。味気ない「おはようございます」の一文だけ。他に何て送れば良いのか私には分からなかった。それでもメールをしなくては、と思ったのだ。
私が癖毛と寝癖の混ざった髪を櫛で引っ張りながら歯を磨いていると携帯電話が振動した。彼女からの返信を私は歯ブラシを口にくわえたまま見る。
『はい、良いお天気ですね』
短い一文の末には、羊の絵文字が添えてあった。メールの返答にまで彼女の性格が出ているな、なんて思いながら私は携帯電話をしまう。今の生徒会長は、どっちだろうなんて良く分からない疑問が私の中で沸いた気がした。
指の腹に乗せたコンタクトレンズを付けて二、三度瞬きをする。何処かぼやけていた視界が鮮やかな色彩を取り戻す。最後に気合いを入れるように、もう一度強く目を瞑る。
ぱっと目を開くと鏡に写った私の横には鈴乃音鈴乃がいた。
「え!?」
勢いよく真横を見ても其処に誰かが居るはずもなく、見慣れた洗面所の部屋であった。私以外誰もいない。誰かが居るはずもない。私はもう一度鏡の方を見る。鈴乃音鈴乃の姿は其処には無かった。鼓動が速くなっていて、私は深呼吸をする。
今はあの夢の中ではない。鈴乃音鈴乃が見える筈がない。そう自身に言い聞かせる時、私の脳裏には車窓に映る鈴乃音鈴乃の姿が過ぎっていた。
まるで逃げ出すかのように私は家を出る。自転車の前カゴに鞄を放り込む。硬くて動かないスタンドに舌打ちをする。自転車のペダルを蹴って私は高校までの見知った道を駆ける。家の前の路地から車道沿いに出ると、前の方に自転車を漕ぐ見知った後ろ姿があった。声をかけるか少し迷ったが、信号待ちで止まったのを見て、その背中に声をかけた。
「立田、早いね」
立田達巳が驚いた様子で勢い良く振り向いた。
「あ、どうも」
「いつも、この時間なの?」
「はい」
彼の横に並ぶと、私を見た彼は少し伏し目がちになった。早速、気まずい空気になりそうで私は少し後悔していた。何を話したものかと悩んでいると丁度良く目の前の信号が青に変わる。
先に行ってしまおうと思ってペダルを踏んだ時、彼が私を呼び止めた。
「先輩って、水族館好きですか」
私は少し動揺した。問い返すも、彼はペダルを踏んで先に行ってしまう。彼を追いかけながら聞き返す。
「水族館がどうかした?」
「いえ、お好きかなと思って」
今まで彼が、水族館の話をしてきたことなんて無かった。水族館という単語すら出てこなかった。急にそんな話題を出してきた事に、私はどうしても警戒してしまう。
水族館で生徒会長と会っていたのを見られたのだろうか、と。
「まぁ、好きだけど」
「そうですか」
彼が私の答えを聞いて押し黙ったので、会話が途切れた。結局、彼の問いかけの意味が分からず私は逆に問いかける。
「立田はどうなの。水族館行くの?」
「はい。よく行きます」
「何処の? 池袋?」
「そうですね」
彼がそう頷いて私は視線を外した。池袋の水族館によく行くという立田達巳が突然、私に水族館の話をしてきた。普段、ほとんどそんな会話などしたことがないのに。だから、その意味はどうしても、まるで探りの様に思えてしまう。努めて平静に私は問いかける。
「立田、最近行った?」
「三ヶ月くらい行ってません」
その答えに私は胸を撫で下ろす。彼にだって、そんな話をしてくる日もあるだろう、と私は勝手に納得する。水族館に行くのが趣味だという彼の意外な一面を聞きながら私は高校に着いた。
「立田、明日は学校休みだから気を付けなよ」
「何故です?」
「今度の祝日が模試で潰れるから、その振替」
「パソコン同好会は?」
「やるわけがない」
彼は間延びした返事をした。
学年毎に区分けされた駐輪場に入ると、立田達巳は会釈をして奥の一年生のスペースに自転車を置きに行った。私はいつもの場所に自転車を止めて校舎に向かう。埃臭い下駄箱から上履きを落として、踵を潰しながら履いた。
階段の手前で私は生徒会長を見かけた。背筋を伸ばして歩くその後ろ姿は間違いなく彼女であった。声をかけようとした私の前を、見知らぬ女生徒が駆け抜けていった。快活そうな女生徒は、生徒会長に追い付くとその肩を叩き、そうして彼女の前に回り込んで笑顔を造った。
「おはよ、生徒会長」
女生徒がそんな挨拶をすると生徒会長は丁寧に挨拶を返した。女生徒が楽しそうに話をしながら二人は歩いていく。そんな二人の真後ろを私は歩いて付いていく。まるで置き去りにされたような感覚になって、昨日のテレビ番組の話なんかをする女生徒の会話に私は思いきって割り込んだ。生徒会長の前にぱっと出て、そうして私は彼女の腕を軽く掴む。突然現れた私の姿に目を丸くして、言葉を探して彼女はもたつく。
「おはようございます。昨日は楽しかったです。また誘ってください」
私はそう言うと女生徒の方に目をやってから、踵を返した。驚いて立ち尽くした二人を後にして、足早に私は教室へと逃げた。クラスメート達が押し込められた教室に入り、自分の席に座ると乱暴に鞄を下ろす。やることもなく、意味もなく、ポケットから携帯電話を取り出すと、それについた羊のストラップが宙ぶらりんで揺れていた。
羊が揺れる様がまるで私をあざ笑うようで、無性にストラップを外したくなってストラップの紐を引っ張る。けれども、紐は堅く縛られていてどうやっても外れそうになかった。
◆ ゆびきたす ◆
放課後、パソコン室に行くと霧野家桐野の姿は無かった。いつも彼女が鎮座している席のPCが起動していたので、恐らくジュースにでも買いに行ったのだろうと私は推測する。起動していたPCの画面を見るとブラウザが開かれたままで、そこには彼女のイメージには余程似付かわしくない男性アイドルの写真が載っていた。
私は気になって、PCの前に座り肩から提げた鞄を下ろす。彼女が開いていたのは男性アイドルグループのHPだった。グループ名を見ても私には思い当たる節は無い。コンサート告知記事に載っていた公演会場の規模から察するに、それほど有名なわけでもなさそうだった。
「アイドルかぁ」
霧野家桐野がアイドルを好きだなんて私は知らなかった。そんな話をされたこともない。本当に意外な趣味であった。
私がマウスを動かしているとパソコン室のドアが勢い良く開いた。視線を向けるとそこには、紙パックのジュースを手にし、ストローをくわえた霧野家桐野が居た。今更ながら、この部屋は飲食禁止であった事を思い出す。彼女はその手に持っていた紙パックを片手で潰しながらドアを閉めた。
「ゆずっち、来てたのか」
「先輩、アイドル好きなんすか」
「おぉぅ、何見てんだよ」
「画面開きっぱなしでしたよ」
「まだ誰も来ないと思ってたんだよ」
手を払うジェスチャーで私を席から追い出して、席を奪われた。彼女は手早くキーボードを押して、開いていたブラウザを消す。初期設定のよく分からない風景が浮かび上がる。私は隣のキャスター付きの椅子に座り、体重を預けて床を蹴った。ローラーが転がって少し後ろに下がった。
「そんな隠すような事でもないじゃないですか。女子高生らしい趣味ですよ」
「そういうイメージのキャラで売ってねぇのよ」
「それ、何の意味があるんすか」
「人生戦略?」
霧野家桐野はどっちかというと自分に素直な性格だと思っていたのだが、案外趣味を隠したりするらしい。人生戦略と言ってのけた回答に、私は気のない相槌を打つ。彼女は頬杖を突いて前髪を指先で分ける仕草を取る。染め直したのか、茶色の髪はいつもより明るかった。
「あたし達はそういうもんでしょ、少なからず。どっかで自分のイメージを作るじゃんか」
「そうですかね」
「自分には似合わないとか、自分らしくないとか、そういうのを作るのは他人からの印象ってのもあるけどさ。やっぱりそれを作るのは自分なわけよ。
私のイメージってのはアイドルなんて知らねぇ、なよなよしてて気持ちわりい。そんなこと言ってそうなイメージなわけ。それが霧野家桐野という人間なの。だからアイドルが好きとかは言わない。興味ないフリする。私はその存在に私をすり合わせてくのさ」
それを作り上げたのはどちらが先なのだろう。霧野家桐野は、霧野家桐野という存在を自身で作り出した。それが周囲の求める霧野家桐野という像であるから。ならその霧野家桐野を生み出したのは誰なのだろう。
誰かの姿が私の脳裏を過ぎった気がした。私は何となく呟く。
「それって寂しくないですか」
「ネットでファンのコミュニティーなんていくらでもあるぜ。今なんて何時でも何処でも誰とでも、ネットで繋がれる。てかむしろ、ネットの方がファン同士の交流はしやすいんじゃないの」
霧野家桐野がその手に持っている、私のものより一世代新しい携帯電話を軽く振った。
高度に発達した情報化社会は私達を絶えず何かと結び付ける事が出来るようになった。例えば、そう霧野家桐野の言うように、そのアイドルのファン同士。彼女達はネットの上で趣味を公開し、そして同好の士と交流をしている。限定された状況ではない、時間も時も選ばない繋がり。現実から乖離した場所だったそこは、気が付けば、現実よりも私達の近い場所になっていた。
そこには、霧野家桐野の言う様な、私の知っている様な、霧野家桐野という人物ではない霧野家桐野がいる。
じゃあ、それを作り上げたのは誰なのだろう。
「ネットの先輩はアイドル好きなイメージで良いんですか」
「ん?」
「その、アイドルが好きな先輩はネット上には居るんですよね。それって、先輩なんですか」
難しい事言うね、なんて言って私の前で彼女は口の端を上げた。
「そりゃ、あたしに決まってる。でもきっと、ゆずっちが言いたいことに倣うなら、それはきっと、あたしじゃないんだろう」
難しい事言いますね、なんて私は返した。
「バイトの方は順調?」
「まぁぼちぼち。二回会いましたよ」
同じ人と、と私が付け足すと彼女は感嘆符を上げた。足を組み替えて、身を乗り出してくる。短いスカートの端が踊った。私は自分の腿に視線を落とし、生徒会長の事を思い起こす。私の次の言葉を期待して、急かされる。
「その人、友達が居ないそうなんです。自分が女の子を好きになっちゃうから、誰かと仲良くなれなくて、だから女の子を買ったらしいんです。好きって感情の種類が違うから、一緒に過ごす相手への裏切りになると思って」
でもそれはきっと変な事だと私は思う。それを上手く伝える言葉を私は知らない。霧野家桐野に何かを答えて欲しくて私は彼女の話をした。けれども、逆に私に問いかけてくる。
「で、ゆずっちはその人の事をどう思ったの」
「どう思ったんですかね、私」
「さぁ?」
◆ ゆびきたす ◆
二十分程経つと、霧野家桐野が突然帰ると言い出して、本当に帰ってしまった。私は何となく、まだ残っていくと言って、彼女を見送った。立田達巳は今日も来そうもない、特に何かすることもない。けれども、やっぱり、何となくではあるが帰る気にはなれなかった。
目の前のPCが立てる駆動音だけが、静かに満ちている誰もいない部屋。そこに取り残されることを享受した私は、意味もなくキーボードを叩いていた。暫くするとそれにも飽きて、私はPCの電源を落とす。暗くなった画面に映っている私の顔に、私は何となく安堵した。
下校時刻の一時間前だった。鞄を担いで部屋を出て、パソコン室の鍵を顧問の先生に返しに行く。鍵を返して職員室を出ると、同じ廊下に面した生徒会室が見えた。特に用事もなく生徒会室のドアの前に立ってみる。耳を近付けてみても中から声はしなかった。
誰も居ないのかと思って、ノックをしてみる。返事は無く、私は思いきってドアを開けてみた。
「すいませーん」
生徒会室には生徒会長だけがいた。ドアが開いても反応しないのを不思議に思って、私は部屋に一歩踏み入れた。よく見れば、彼女は一番奥の窓の下の席でうたた寝に興じていた。クリーム色の光の溜まった真ん中で、静かな寝息を立てている彼女を起こさないように私は後ろ手でそっとドアを閉めた。外の音は消えて静寂がこの部屋を満たす。私はそっと眠る彼女の斜め正面の席に腰掛ける。
用事があったわけでもない。でもどうしてか、生徒会長の昼寝をしている姿を見て、何となく部屋に入ってしまった。
顔を斜め下に傾げて両手をスカートの上に行儀よく置いて。読書をしていたのか膝の上には文庫本が伏せてある。少し開いた唇から寝息が漏れる度、ブレザーの上着が膨らむ。室内は少し暑く、彼女の髪は頬にまばらに貼り付いていた。
私は眠っている彼女の姿を眺めながら考える。私は何を彼女に思ったのだろうか。どうして、そう今この時だって、私は彼女の前に座っているのだろう。
ふと気付けば下校時間を知らせるチャイムが鳴って、私は彼女の肩をそっと揺すった。甘い呻き声が上がって彼女は顔を上げた。数回の瞬きで彼女は意識がはっきりしたようで、私の顔を見て口を丸くした。そうしてから周囲を見渡して、そうしてもう一度私の顔を見た。
「何故、あなたが」
「おはようございます、もう下校時間ですよ」
私の言葉に時計を見て、そうして膝の上の文庫本を畳んだ。制服の襟を手で直して彼女は椅子から立ち上がる。そうして鞄を手に取った。私の型くずれした鞄とは違って、綺麗な鞄である。窓の外のオレンジに背を預けた彼女は私の方を見て言う。
「今日はたまたま仕事が無かったものですから、読書をしていたら少し寝てしまっただけで」
「一時間くらい寝てましたよ」
「普段から居眠りをしているわけではないですから。今日はたまたまです」
その弁明の言葉は少し意地になったようにも聞こえた。私が小さく笑うと彼女は咳払いをした。
「で、何か御用でしょうか。ずっと待っていただいたようですが」
「特に用事があったわけでもないんですけど。一緒に帰ろうかなぁ、と思って」
「それで一時間もですか?」
「なんか寝顔を見てたら可愛いなと思って」
彼女は私の顔をちらりと見て、そうして声の調子を変えずに言った。
「あなたがそう言うのなら、帰りましょう」
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