【4話・雨音の落ちる朝】
生徒会長と別れた私がパソコン室に戻ってみると、霧野家桐野が立田達巳と腕相撲をしていた。白熱していた試合であったが、私の入室で注意をこちらに逸らした隙を突かれて、霧野家桐野の敗北で終わったようである。何がどうなって、こうなったのか意味が分からない。出来れば関わりたくなかった。
「ゆずっち、どこ行ってたのさ」
「先輩こそ、なにやってんすか」
「文化祭のアイディア出してたんだよ。IT腕相撲」
その言葉の意味について、詳しくは聞かないことにした。恐らく私の様な凡人では理解できない話になるであろう。やはり関わりたくなかった。振り回された可哀想な彼は力尽きていて、机に突っ伏していた。かけるべき言葉が見つからず、私が椅子に腰掛けると、霧野家桐野は頬杖を突いて言う。
「にしても、まさか生徒会長からお許しが出るとは」
まさか、では困ると私は指摘する。その返事の代わりに、IT腕相撲の説明が始まったので、私はそれを遮った。
「そういえば、先輩。生徒会長の名前って知ってます?」
「いや? 生徒会長は生徒会長っしょ。誰かが名前で呼んでるとこさえ見たことないよ。急に何でさ」
「別に。生徒会長と仲の良い人っているんですか」
霧野家桐野と生徒会長は同学年である。少しくらいは、生徒会長について知っているだろう、と私は何となく期待した。
「そりゃいるんじゃないの。いつも誰かしら側にいるしさ。それだけの人徳とやらが生徒会長にはあるっしょ」
何とも似合わない台詞をはいた。立田達巳は、私達のやり取りを黙ったまま不思議そうに見ていた。
結局、今日の同好会の活動は、まあ大方の予想通り、霧野家桐野が適当なアイディアをただ喋りまくるだけで終わった。文化祭について具体的な案は纏まらず、恐らくそれを何とか形にするのは、不幸にも私の役目になりそうだということしか決まらなかった。
学校から帰宅した夜、私はあの掲示板のURLを開く。私は其処に、鈴乃音鈴乃の名前で、援助交際の相手を募集する旨の文章を書き込んだ。時間と料金は明日の夕方から三時間で二万円。場所は池袋。条件は前と全く同じ。霧野家桐野に最初に教えて貰った通りの文面で書き込んだ。
でも今回、私は写真を一緒に載せた。制服姿の私を、目元を隠し携帯電話で自撮りした。それを一枚、添付したのだ。暫く時間を空けてから掲示板を確認してみると、私の書き込みに実に三件もの返信があった。この反応の良さは、私が写真を載せたからであろうか。
三件の返信は、いずれも別人物からのもので、その内の一人は、私の提示した条件の二万円に追加して五千円を出すと言う。私は驚いて、つい声を漏らした。ベッドの側に脱ぎ捨てた制服のスカートの裾を、指先でつまみ上げた。
「まじかー」
気を取り直して、返信してきた三人の内の一人の「ひつじ」というハンドルネームの人物のトリップを確認する。過去ログを漁って私の初めての書き込みを探した。私の初めての書き込みに返信してきた人物のトリップと「ひつじ」という人物のトリップが同じであることを確認する。
私の初めての書き込みに返信をした時のハンドルネームは「H・H」というイニシャルであったが、トリップの一致から「ひつじ」という人物は生徒会長だと私は推測した。
私の提示した条件で「ひつじ」は会いたいという。私は他の二人に丁重な謝罪の文を打って、「ひつじ」に返信する。そうして私は、彼女と約束を取り付けた。
また私は、彼女と会う。
◆ ゆびきたす
翌日の放課後。「ひつじ」と約束を取り付けた16時30分の五分前。
池袋駅のトイレの鏡の前で、私は自分の顔を眺めていた。コンタクトを外し赤い眼鏡をかけた制服姿の私は、鏡の中で何処か無愛想な表情をしていた。鏡越しの自分を携帯電話で撮ってみる。
画面の中の私は私でありながら、何処か余所余所しい。無数の0と1の情報で構築された私の顔は間違いなく私であるのだったが、それはただ0と1であることに違いはないと私は思った。
今撮ったばかりの何の意味もない写真を削除して携帯電話をポケットに仕舞おうとして気付く。携帯電話に付けていた羊のストラップを外して鞄に仕舞った。
そうして私は池袋駅の地下から出口へ向かう階段を上っていく。階段を一段ずつ登る為に、私の中で思考が渦を巻く。私はひどく矛盾していた。今、此処にいることが矛盾だ。二万円の結果でしかない日張丘雲雀との関係を、私はあの三時間だけに閉じこめようとした。鈴乃音鈴乃という偽名で、私以外の私を演じた。
なのに、学校で、日張丘雲雀が鈴乃音鈴乃の名前を出したとき、私はそれに嫉妬した。そして今、私はまた日張丘雲雀に会おうとしている。
池袋駅の東口から外に出ると、直ぐに日張丘雲雀を見つけた。彼女の姿は人混みの中でも一際目を引いた。約束の待ち合わせ場所で、落ち着きなく周囲の様子を窺っている彼女に私は声をかける。
「日張丘さん」
彼女は私と同じで制服姿であったが、私はどうしてか見慣れない姿であるように思えてしまう。学校の中で見ているのと同じ筈なのだが、何処か違うようにも感じた。私の方を見て、彼女が表情を明るくする。
「鈴乃音さん」
日張丘雲雀が鈴乃音鈴乃の名前を呼び、彼女の鞄から封筒を取り出そうとしたのが見えて、私は素早く彼女のその手を取った。私が手を握ると、彼女は驚いて声を漏らす。
私は何も言わず手を引いて歩き出した。池袋は、制服姿の高校生で溢れていて、その中を縫うようにしながら手を引いて歩く。彼女は、上手く歩く事に苦心しながら私の背中に問いかけてきた。
「何処に行くのですか」
「何処に行きましょうか」
私はそう返事をしながらも、歩みは留めなかった。少し小走りになって私の横まで追いついてきた彼女は、声を落として言った。
「鈴乃音さんはレズビアンなのですか」
「違いますよ」
私は即答した。
「じゃあ何故、こんな事をしているのですか」
「私にお金を払ってくれる人がいるからですよ」
日張丘雲雀の質問に、私は思考を挟む余地もなく即答した。霧野家桐野に誘われて、私はこのバイトを始めた。そうして現に今、私に二万円を払ってくれる約束をしている人がいる。私の回答に、彼女はどうも釈然としていない様子であった。
「じゃあ何で日張丘さんは」
そこで私は問いかけるのを止めた。霧野家桐野の言葉を思い出す。日張丘雲雀が欲しかったものは何なのだろうか、と。
気付けば、私達はまた、あの水族館に来ていた。受付で、日張丘雲雀がチケットを二枚買って、水族館に入場する。入り口でスタッフに、アシカのショーが始まると声をかけられたので、私達は屋外の海獣類コーナーに向かった。アシカコーナーの前に集まった人混みから外れ、傍らの椅子に座った。一頭のアシカが、その鼻の頭の上にボールを乗せたまま出てくると、日張丘雲雀は控えめな拍手をした。
「アシカとオットセイの見分け方知ってます?」
私は日張丘雲雀にそんな事を言ってみた。首を横に振る彼女に、私はアシカとオットセイの違いの話をする。
「知りませんでした。今まで全部をアシカだと呼んでいたのかもしれないですね」
そんな事を言う日張丘雲雀に向かって、アシカが器用に前脚を上げ手を振っていた。アシカショーが終わって私達は館内に戻る。屋外で見えていた沈みそうだった夕焼け、それが見えなくなって急に夜になった様で。私がそんなこと言うと、日張丘雲雀は妙に納得していた。平日の夕方であるせいか、館内は人影疎らで物静かである。
大きな水槽を独り占めした私達は自然と言葉を無くす。何処かに仕込まれたスピーカーから流れてくる水音が、近いようで遠いようで、私は距離感を失ってしまう。ゆっくりと泳いでいく魚の群れは、そのどれもが同じ方を向いていて。脱落者の居ない行進だと、私はふと思った。
水槽の向こうを眺めたまま、先程のやり取りを思い出して、私は疑問を口に出す。
「日張丘さんは、何が欲しかったのですか」
それはどうしてか、使い古された言い回しみたいで。私の問いに、日張丘雲雀が顔をこちらに向けた。私達の後ろを高校生のカップルが通り過ぎていった。彼等はクラゲの水槽を前にはしゃいでいて、日張丘雲雀がそちらに視線を遣ってから小さく口を開く。
「わたし、女の子が好きになってしまうのです」
その告白に、私は何も応えなかった。彼女は掲示板で女子高生を買った。三時間という時間を二万円という通貨で買い取った。私は腕時計をちらりと見る。秒針が進む度、無言の時間が何かに変わっていく。
日張丘雲雀の告白は、彼女の行為の裏付けと言えるだろう。彼女は、その目的に違わぬ理由で、あの掲示板で女子高生を買ったのだ。
でも、それで。彼女が手にしたものはあったのだろうか。あの時、私達が過ごした三時間はきっと完璧に、普通な時間だった。特別な価値なんて無かった。
私はぽつりと呟く。身体でなく時間を買った彼女に、その意味を問いかける。その時間は、ただ友達と一緒に過ごしただけと変わらないではないか、と。私の言葉に、彼女は水槽の方を向いたままで答えた。
「わたし、お友達というものが居ないのです」
その答えは、何かの冗談かと思って。私は笑おうとした。けれども彼女の横顔は、真剣そのもので。私は口を噤む。友達がいない、なんて下手な嘘だと思った。彼女の様な人間の周りに、誰もいないなんて有り得ない。例えば、あの廊下で喋っていた彼女の様に。
呟くように、そっと、彼女は言葉を紡ぐ。
「わたしが、女の子に近付いたらいけないと思って。裏切ってしまうことになると思って。
だって、わたしと、その人が、互いに思ってる事は全然違うんです。その人は思ってもいないんです。本当は私は、その人に好意を抱いてしまっている、なんてそんなの、相手は知らない、思っているわけがない」
日張丘雲雀の少し辿々しい言葉に、なんて応えれば良いのか分からなくなってしまう。目の前の水槽が乱反射させる光の出所を探して、私の視線は上を向いた。光を求めて上を見た視界を、何かの魚影が横切っていく。
「それって、裏切ってしまうことになると思って。だから、わたし親しい人が居ないのです」
彼女は動けなくなってしまったのだ。
彼女は他のものが見えてしまっているから。他のものを見てしまうから。一緒に過ごす時間の中で、彼女だけは違うものを見ているから。それを彼女は裏切りだと思った。
でもそんなの、誰だってそうではないのか。
日張丘雲雀が言葉を続ける。まるで自分の身を支えるかのように、彼女は水槽に手を当てた。
「でも掲示板で買ったお金だけの関係なら、何の後ろめたさも無くて良いかと思ったのです。私が好意を向けても、何の裏切りでもないからですから」
私の手はいつの間にか彼女の手から離れていた。チケットを買った時だろうか、アシカショーの時だろうか、それとも今だろうか。私の手が離れていたのが、いつかなのか分からず。
大きな水槽の前で二人並んだ私達の姿はどんな風に見えるだろうか。ガラスに微かに反射した私達の姿に目を凝らす。金銭だけが形作った三時間の関係がそこにあった。それを何と呼ぶのか私には分からなかった。
日張丘雲雀は女子高生を買った。同性愛者向けの掲示板で。女子高生が女子高生を買った。それならば、彼女は嘘を吐く必要が無かったから、裏切りで無かったから。なら彼女が欲しかったモノは何だろう。あの掲示板で私が書き込んだ文字を思い出す。彼女が欲しいのはセフレでも恋人でも友達でも仲間でも同志でもない。
じゃあ、それは何て名前なのだろうか。
「おかしいと思いますか、おかしいですよね。でもわたしは誰かを好きになってしまうことが怖い。何も知らない誰かへと一方的な好意を向けてしまうのが怖い」
誰かを好きになってしまうのが怖いから、誰かから距離を置いて打算の関係を買う。彼女はそれを選んだ。
私には分からない。私は人を愛したり、愛されたりしないと思っていた。それは誰かに言われた言葉がきっかけだった様な気もするし、物心付いた時には、私は自身をそう思っていた様な気もしていた。
だから、私には分からない。そうやって誰かを好きになってしまうということが。そしてそれを恐れるという感覚が。どうしても、私には分からない。彼女をそこまで追いつめたものが何なのか。
「そんなのきっと、あなたの世界だけの話じゃないと思いますけど」
私はただそんな言葉だけを呟いた。その意味を問い返そうとしたであろう彼女が私の方を向くも、しかし何も言わずに口を閉じた。床に落ちた青白い照明の光が、足下で揺れていて。それは大きな歪んだ円形で、そこはまるで立ち入れない聖域みたいで。
「でも、鈴乃音さんはわたしとは違います。鈴乃音さんは女の子を好きにならないのでしょう」
「その区切りには意味があるんですか」
「ないと思うなら、わたし達はきっと此処には居ないと思います」
私の左手が作った影が、私達の間で揺れる光の円の中で揺れた。
私達はどれくらいの間、水槽の前で黙り込んでいたのか分からない。閉館を告げる放送が流れて私は目が覚めた様な感覚になる。日張丘雲雀を見ると、彼女は水槽のガラスを指先でなぞりながら何か物思いに耽っている様子だった。私はそんな彼女に声をかける。
「帰りますか」
水族館から外に出るともう真っ暗で、夜の空気には湿り気が混ざっている。大気が水気を含んだ時の独特の匂いがする。明日の朝には雨になるだろうか。
私には分からない。彼女の言葉を聞いて、それで私は何がしたいのか。私と彼女の関係は二万円で買い取られた三時間でしかない。私はお金が欲しかった。ただ楽に稼げたら、なんて軽い気持ちで霧野家桐野の誘いに乗った。霧野家桐野の言葉がふと脳裏で蘇る。
『普通じゃない。ゆずっちはその辺考えてるのかなって』
私には分からない。私は一体何を考えていれば良かったのか。
私は自分を打算的な考えが出来る人間だと思っていた。いや、今も思っている。だから霧野家桐野にこのバイトに誘われたとき、私は上手くこなすだろうと思っていた。何も感じず、打算の関係を作れると思っていた。
鈴乃音鈴乃という名前を使って、あの時間限りの関係を作ろうとした。なのに、日張丘雲雀と学校で会ったときに無意識に何かを求めてしまった。私は鈴乃音鈴乃に嫉妬してしまった。それは矛盾であるし、私の傲慢であるとも思えた。
そして今も、鈴乃音鈴乃という名前を使って三時間の関係を作っている。
「鈴乃音さんは何が欲しかったのですか」
水族館から駅までの道をゆっくりと歩く私に向けられたその問いかけ。それは日張丘雲雀の声だったような気がするのだが、それはどうしてか鈴乃音鈴乃の問いかけの様にも聞こえた。周囲を見回しても、駅前の喧噪の中に、鈴乃音鈴乃がいるわけもなかった。
駅の改札の前で私は急に目を醒ました様な気分になって、足を止めた。改札の手前で立ち止まった私を見て日張丘雲雀が不思議そうな表情をした。池袋から地元の駅まで、私は無意識のうちに彼女と同じ電車に乗ろうとした事に気が付いた。私はそこで立ち止まって、慌てて別れを告げる。
「じゃあ、私はこれで」
私の別れの言葉を聞いて急に思い出したのか、彼女は鞄の中に手を入れた。その手には白い封筒があった。それを見て私は思い出す。
この二万円で私達の三時間区切りの関係は完結する。そうして私達はまた何事も無かったかのように日常に溺れていく。日張丘雲雀と学校で会った時の、あの冷たい感覚が戻る。
そうだ。私はきっと欲しかったのだ。私達の関係が彼女の中で、あまりにも綺麗に完結していたから、私は傲慢にも日張丘雲雀に特別視して欲しかったのだ。だから私は矛盾にも鈴乃音鈴乃という存在に嫉妬したのだ。
「三時間超えちゃったんで、追加料金ですね」
日張丘雲雀からお札の入った封筒を受け取りながら、私がそう言うと彼女は驚いた表情をした。私はそのまま言葉を続ける。駅の喧噪は一瞬、沈黙に静まり返ったようで、私の声だけが私の耳の中で反響する。私は彼女に私が欲しているものを教えた。
「だから日張丘さんのメアド、教えてください」
「鈴乃音さん?」
私の言葉に動揺してか、私の顔を見て呆けた声を出していた。私はそんな彼女に笑顔で言う。
「結女之です」
日張丘雲雀の携帯には羊のストラップが見えた。
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