【3話・斜陽世界のフェアリーテイル】

 私が使った鈴乃音鈴乃という偽名は、急に思いついた様な全くのでたらめという訳でも無かった。その名前にはちゃんと持ち主がいるのだ。

 私には昔から鈴乃音鈴乃という存在が側に居た。

 他の誰にも見えない、私だけが見える存在。そんな存在が自分の事を、鈴乃音鈴乃だと名乗っていた。

 現実と空想の区別が付かない幼少期の子供は、その混乱から空想上の友達を作り出してしまう事がある。本人にしか見えない想像上の友達、通称イマジナリーフレンドは、とある統計では30%近くもの子供が経験するのだと言う。子供が見えない誰かと会話していたりする様子は、案外多く目撃されているらしい。

 とはいえ、その殆どは現実の対人関係に慣れていくうちに消失し、その記憶も忘却してしまう。

 けれども、彼女は今も私の側にいた。物心付いたときからずっと、私の側にはずっと、鈴乃音鈴乃という存在があった。そしてこの瞬間にも。

 彼女は金糸の様な見事な金髪で、それを耳の後ろで束ねてサイドテールにしている。くっきりとした目鼻立ちで瞳は蒼い。小さな唇は絶えず笑みを浮かべていて、怪しげなものであった。その髪色と顔立ちは明らかに東洋人離れしている。その容姿だけでも、彼女の存在は空想上のものであると言い切っても良い程であった。

 そして、鈴乃音鈴乃が目の前に居る時は現実ではない。

 鈴乃音鈴乃が、私にしか見えない空想上の存在であると気付いた時から、彼女は私の夢の中にしか現れなくなった。彼女が夢の中に出てくるときは、必ずこの部屋の中であった。

 真っ白で、あまりにも真っ白で、何処が壁紙かも分からないくらいで。その最果てすら無いような部屋。夢の中では、部屋の様相まで描ききれない想像力の欠如した人間だと、私は誰かに言われているようで。しかし、だからこそ、これは夢であるのだと直ぐに気が付く。

 しかし、そう思っている反面、彼女が現れる時はいつだって鮮明で。それが夢の中である分かっているのに、私はいつもそれは現実であるかのように錯覚してしまう。真っ白でベッド一つだけが置いてある部屋に、突然移動しているなんて有り得ないのに、私はいつもそう錯覚してしまう。今、私の目の前にいる鈴乃音鈴乃という存在は、私の意識一つで消え去っても良いはずなのに。

 けれども、鈴乃音鈴乃は楽しそうに私に言う。造り物の様な可愛い声で私に嫌味を言う。

「柚子乃ちゃんって、鈴乃音鈴乃だったんだぁ」

 私は今日、鈴乃音鈴乃という名前を使った。結女之柚子乃という名前では居たくなかった。それを鈴乃音鈴乃は詰る。

 彼女の喋り方はいつだって、人を小馬鹿にしたような舌っ足らずで間延びしたもので。私はいつも夢なんて早く終われと思っているのに、彼女は私の意に反してゆっくりと喋る。それはまるで私が苛つくのを楽しんでいる様で。

「うるさい」

 私の苛ついた声を聞いて、彼女は演技がかったような表情とジェスチャーを付けて驚いてみせた。そうした後に、彼女は笑顔を作る。私はつい拳を握り締めてしまう。彼女は楽しそうにステップを踏みながら、このの真っ白な部屋の中を歩き回る。

「別に鈴乃は気にしないよぉ、鈴乃と柚子乃ちゃんの仲だもん。名前の一つや二つ、身分の一つや二つ、何だって貸したげるよぉ」

 目の前の存在を私は睨みつけた。彼女は私に構うことに飽きたのか、ベッドの上に背中から飛び込んで毛布をかぶった。そうして毛布を身体に巻き付けてベッドの上で転げ回っていた。まるで子供の様な仕草だった。私はそんな姿から目を逸らして吐き捨てる。

「私はあなたが嫌いだ。いつだって人を小馬鹿にして、何にも知らない癖に知ったような口を利く」

「何も知らないってのはご挨拶だよぉ」

 私の言葉に彼女はベッドから勢い良く立ち上がる。彼女の長い髪が揺れた。憤慨していることを表すかのように、頬を膨らませ口を尖らせていた。そんな嘘くさい仕草に、私が冷たい視線を向けると、彼女はその胸に手を当て自慢げに言う。私の敵意を無視してしまう。

「鈴乃は柚子乃ちゃんの事なら何だって知ってるよ。だって鈴乃は柚子乃ちゃんの事が大好きだからさぁ」

「あなたからそう言われても何も嬉しくない」

 私の夢の中に現れて、好き勝手に物を言っていく、そんな鈴乃音鈴乃が私は昔から嫌いだった。彼女は私の何だというのだ。

 得体の知れないその存在は、とても「フレンド」と呼べるような友好的な関係ではなかった。

「じゃあ、雲雀ちゃんに言われたら嬉しいのかなぁ」

 そんなの、とそこで私は言葉を飲み込んだ。今、日張丘雲雀は一切関係ない。でも何て答えたとしても鈴乃音鈴乃は喜ぶのだろう。彼女はそういう「性質」なのだから。だから私は答えなかった。それでも彼女は笑顔で続ける。

「彼女の好きはきっと重たいよねぇ」


◆ ゆびきたす ◆


 ふと気が付くと、窓の外は見たことのない景色であった。姿勢を変えようとして手を着いた感触が、ざらついていて、私は驚いて手元を見た。何て事はない、電車の座席のあの独特の質感であった。私は今、電車に乗っていることを思い出す。

 あの白い部屋は何処にもなく、鈴乃音鈴乃も夢の中へと帰ったようであった。私は、汗の滲んだ額に手を当てた。

 日張丘雲雀と水族館で別れた後、私は急に疲れてしまって真っ直ぐ帰路に付いた。その電車の中で私は寝てしまったらしい。

 夕方の下り電車は休日であるというのに人影まばらであった。その理由は明白で、私が乗っているこの電車が、もう終点近くせいであった。車窓の外を、ゆっくりと通り過ぎていく景色の殆どは、木々と山肌ばかり。私は頭をかきむしる。

「寝過ごした」

 私の呻きを嘲笑う鈴乃音鈴乃の声がしたような気がした。降車駅を大幅に行きすぎてしまった私は、溜息を吐きながら現在地を確認する。これも鈴乃音鈴乃なんかが夢に出てきたせいだ。

 終点まで乗っていって、折り返した方が早そうだと思い私は両手をパーカーのポケットに入れた。突っ込んだ手に触れた乾いた感触に、私は日張丘雲雀から渡された封筒の存在を思い出す。封筒を取り出して中から二枚の札を抜いて私はそれを財布に仕舞い込んだ。封筒は手で丸めて潰した。私の手の中で封筒が悲鳴のような音を立てた。

 終点の駅に着いて私はホームの上に降りた。折り返しの電車に乗ろうとして私はふと立ち止まる。ホームにある売店で炭酸のジュースを一本買った。一万円札を出した。嫌がらせのような量のお釣りを財布に入れた。飲み慣れない炭酸に私は顔をしかめた。

 私は何をしているのだろう。折り返しの電車に乗って、座席に深く腰を下ろして、私はまた一つ溜息を吐く。日張丘雲雀の顔がふと脳裏を過ぎる。彼女の表情を思い出してしまう。また会えるか、なんて事を彼女は私に聞いた。あれはどういう意味だったのだろうか。鈴乃音鈴乃が笑顔で言った言葉がふと脳裏を過ぎる。

『彼女の好きはきっと重たいよねぇ』

 急に携帯が振動した。画面を見てみると霧野家桐野からのメッセージだった。文字だけの素っ気ない質問文が私に送られてきていた。

『どうだった?』

『何がですか』

 質問に返答を送ると、直ぐに返信が来る。

『援交相手』

『内緒ですよ』

 私が答えないと、絵文字だけで不満を送ってきたが、私はそれを無視した。高度に発展した情報化社会は、私達を絶えず何かと結び付ける事が出来るようになったが、それは少なくとも、今は、あまり快いものでもなかった。

 今、霧野家桐野と回線一つ通して繋がっている事が、私の全てを零して伝えてしまうかのようで。私達は絶えず何かと繋がってしまっていて、私の知らないうちに別の私が何処かに顔を出しているようで。私は今、何かを彼女に伝える気はなかった。自分の中で整理の付かない思考が他の誰かに見抜かれてしまうのが怖かった。

『人を好きになるってなんだろうな』

『何のドラマ見てるんですか』

 不満を述べていた文章から打って変わり、急に似合わないことを書いてきたので私は茶化した。どうせドラマのDVDでも借りてきたのだろうと思う。明日にはその感想を、芝居がかったクサい言葉で述べるに違いない。

 私には分からない。私はずっと人を愛したり、愛されたりしないと思っていた。そしてそれは今もそうであった。だから私に返せる言葉はこれくらいしかなかった。

 私の返信に彼女は今までとは変わって少し時間を要してからメッセージを送ってくる。語る言葉を探しているかのようなその時間に、私は何となく日張丘雲雀を思い出してしまう。

『そいつは何が欲しかったんだ』

 送ってきた一文に私の指は止まる。日張丘雲雀の顔を思い出す。霧野家桐野の送ってきたその質問文はどんな意図があるのか分からなくなる。

 私は同性愛者向けの援助交際をした。それが目当ての人達の掲示板に書き込んで、約束を取り付けて。そうして今日、彼女に会った。日張丘雲雀は私の書き込んだ内容に納得し、約束を取り付けた。そうして今日、彼女は会った。

 その関係には二万円の価値しかない。繋ぎ合わせたのは通貨でしかない。だから彼女が今日あの場に居たのは、彼女がそのような存在であることの証明に他なら無い。

 日張丘雲雀は同性が好きなのだ。けれども、と私が今日一日彼女と過ごした時間を思い出す。一緒にゲームセンターで遊んで、水族館に行って、カフェでお喋りをして。その時間に何か特殊なものはあっただろうか。

 ただの、そう、ただの友達であっただけではないか。

 今更になって、日張丘雲雀という人間がどうしても気になった。彼女は何故、私を買ったのだろうか。何が欲しかったのだろうか。三時間、私と過ごしただけで彼女は満足したのだろうか。きっとそんな相手、私以外に、買うことなんてしなくたって幾らでもいるだろうに。なのに彼女はお金を払ったのだ。そしてまた私に会えるかなんて聞いたのだ。

 もし私の前に居たのが日張丘雲雀でなくて、霧野家桐野であったなら。何か変わっただろうか。もし私でなくて霧野家桐野が日張丘雲雀と会っていたら何が違っただろうか。

 日張丘雲雀が欲しいのは何だったのだろうか。


        ◆ ゆびきたす ◆


 週が明けて月曜日。日常生活はあまりにも変化がなくて、生徒会長とデートした事で私の学校生活が何かが変わるわけでもなかった。それを知っているのは私と生徒会長だけで、何かと結び付く事もない。

 ただ気がかりが一つあった。生徒会長はこの学校にいるのだ。もし、彼女と会ってしまったのなら私はどんな顔をすれば良いのだろう。どんな言葉を交わせばよいのだろうか。どんな態度を取ればよいのだろう。彼女は私の姿を認めたとき、どうするだろうか。また会えた時、彼女は何を言うのだろうか。

 彼女は女子高生を買った。掲示板でお金を支払って女子高生を買った。

 それは異常な事だ。私にお金を出して口止めしようとしたくらいに。きっと、それが露呈するのを恐れている。でも私だってどうすれば良いのか分からないのだ。

 ただそんなことだけを考えていて、気付くと全ての授業が終わっていた。机に頬杖を突いたままの私の携帯が着信を知らせて振動した。ポケットから取り出す時に朝付けてきた羊のストラップが引っかかる。

 メッセージの差出人は立田達巳―たつだ たつみ―であった。

「立田からなんて珍しい」

 立田達巳は、一つ下の後輩で、パソコン同好会唯一の一年生である。貴重な新入部員ということになる。そんな彼が送ってきたメッセージは、今日の同好会の活動に参加するか、という問いだった。私はそれに短い肯定の文を返した。

 彼はたまに、何の規則性もなく、唐突にふらっとやってくる。そしてまた来なくなる。そんな部員であった。ただ彼は来る時、必ず私に連絡を入れる。霧野家桐野でなく私に連絡してくるのは、何故なのだろうかとたまに思う。

 パソコン室に行ってみると立田達巳は既に居た。私が入ってきたのを見て彼は顔を上げ、私に会釈するとまた俯いてしまう。彼は細い体型で目が隠れるほど程髪が長い。童顔で未だ中学生くらいに見える。私は欠伸混じりで言う。

「立田が来るなんて珍しいね。毎日来ても良いんだよ」

「すみません」

 正直、私は彼が苦手だった。内気で非社交的、無口で何を考えているか分からない。まともな会話を殆どしたことも無かった。けれどもそんな彼を霧野家桐野はいたく気に入っているようではあった。

 PCを触るわけでもなく、何をするわけでもなく、彼は俯いて黙って椅子に座っていた。少し迷ってから私は話しかける。

「そうだ。文化祭、何やりたい? なんか、予算出そうに無いけど」

 私がそう聞くと、彼は話しかけられた事自体に驚いた様子で慌てて顔を上げる。私は「文化祭」と、もう一度ゆっくり言い直した。すると立田達巳は小さな声で言う。

「あ、書きました」

「何を?」

「予算の申請書。部長に言われて」

 霧野家桐野はこの幽霊部員に書類を任せたらしい。彼が、今日参加してきたのもそのせいかと納得した。あれだけのことを生徒会長に言われたにも関わらず、新入部員に丸投げする霧野家桐野の精神の図太さに私は感服した。多少は、根性でも意地でも何でも良いから見せるかと思ったが、そんなことは無かった。私は損な役回りの彼に少し同情する。

「それは大変だったね」

「いえ」

 そこで会話が途切れてしまって彼は下を向く。私はどう取り繕えば良いか分からなくなる。そんな私達の沈黙を、勢い良く開いたドアの音が破った。振り返ると霧野家桐野が居た。ドアが開くと一斉に私達がそちらを見たからか、彼女は狼狽していた。

「なんだよ、なんだよ」

「先輩、立田に書類任せたんですか」

 非難を挨拶代わりとすると、霧野家桐野は悪びれずに答える。

「だって、たっつーは書記だもの」

 いつの間にか書記に就任していた「たっつー」こと立田達巳の方を私は見た。彼は特に反応を返さず、私達の会話を気にしている様にも見えなかった。この同好会に書記なんていうポストが用意されている事自体、私は初耳であった。そもそも、それは必要なのであろうか。

「書記なんていつ決めたんですか」

「今かな」

「質が悪いですね」

 私が呆れて肩をすくめると、霧野家桐野は口の端を上げて不貞不貞しく笑った。彼女はいつもの場所に陣取ると脚を組んで座る。短いスカートの端が踊って、立田達巳は更に顔を伏せた。私は自分のスカートの裾を、軽く指先で触れた。私の顔を見て、霧野家桐野は何かを喋ろうとしたようであったが口を閉ざした。

 視線の先は顔を伏せている立田達巳の方で、彼女が口を閉ざした内容は、例の援助交際の事であろうと私は勘付く。仕切り直しの様に、彼女は高らかに宣言した。

「さて、わたし達は文化祭の準備をしなくてはならない。まず決めるべきは、文化祭で何をするかということだよ」

「そっからですか」

「何したいよ?」

 立田達巳が書いたという申請書の中身が気になってきた。空白なのは書類ではなく、霧野家桐野の脳内なのではないだろうか。

 私の無言の非難と、その視線を無視して霧野家桐野は進行役を続けていた。彼女の思い付きによって繰り広げられる纏まらない議論の様なものが、展開されるに違いなかった。

 そこで丁重な三回ノックの音がした。霧野家桐野がノックという行為自体に驚いていた。何か悪いイタズラをした子供の様で。わざわざこんな辺境の地へ赴いてきたのは誰だろうかと、私は間延びした返事をする。静かに開いたドア、顔を覗かせた存在に、私は息を呑んだ。急な緊張が、私の喉を鳴らす。

 入ってきたのは生徒会長であった。

「失礼致します」

 シワ一つ無い制服を、一切の着崩しなく着ている生徒会長は、一歩足を踏み入れてから私達の方を見た。一瞬、私と目が合ったけれども、何の言葉もなかった。彼女は霧野家桐野の方を向く。視線を向けられて、彼女は慌てて姿勢を正した。

 生徒会長の姿を私はただただ見ていた。土曜日に、私が会った存在とは似ても似つかない彼女。目元にかかった細い髪を撫で上げてから、彼女は口を開く。

「申請書、受理しましたので。後日顧問の先生を通して詳細を連絡します。それでは、失礼しました」

 凛と、芯の通った声。用件だけを述べた彼女は、丁寧にお辞儀して部屋から出て行った。まるで部屋に取り残されてしまったようで呆気に取られる。あんなにも悩んでいたのに、こんなにもあっさり終わってしまった。

 生徒会長と私は、土曜日に会った事など無かったかのように。変わらない日常に溺れてしまったようだった。どうすれば良いなんて、私の思い上がりでしかなかった。

 ドアの外から聞こえる彼女の足音が遠ざかって、霧野家桐野は大きな溜息を吐いた。気怠そうに頬杖を突いて、やる気なく言う。

「わざわざ、これだけの為に出向いてくださるとは有り難いことで」

 その言葉を聞いて、私は椅子から立ち上がる。私は今すぐに確かめたくなって。私だけがこんな思いをしているのかと叫びたくなって。彼女は平気なのかを知りたくなって。意味を求めたくなって。

 私は部屋を飛び出した。履き潰した上履きがのっぺりとした床を叩く。乱暴な足音だった。放課後の、人影疎らな廊下を駆け抜けて、生徒会室の前であの後ろ姿を見つけた。

 呼吸が乱れて、それを抑えようとすると喉が変な音を鳴らした。東向きの窓からは、沈み始めた日が射し込みつつある。

 生徒会長は、三年生らしい女子生徒のグループと何かを話していた。その様子を前に、私は一歩退いて終わるのを待っていた。他愛の無い雑談をする彼女達は楽しそうで、それは普通の光景であるように見えた。一人が冗談を言って、生徒会長は手を口に当てて笑っていた。

 そんな彼女達に、私は生徒会長と土曜日に会ったのだと言ってしまいたくなる。彼女は、お金を出して私を買ったのだ、なんて打ち明けてしまいたくなる。それを言ってしまったら彼女達は何て言うだろうか。私の言葉を信じるだろうか。

 賑やかに去っていく彼女達に手を振って、一人になった生徒会長の背中へと私は言葉を投げつける。

「口止めになんて来なくても、誰にも喋りませんよ」

 私の言葉に、驚いて振り返った彼女は、私の姿を見て呆けたように口を開けていた。私は今更、どんな言葉を口にすべきか迷ってしまう。喧噪は気付けば消えていて、私達の沈黙が世界すら支配していて。廊下の窓から射しこんできた西日に、生徒会長の姿は茜色に溶ける。

 光の線を受けた彼女の長い髪が、艶やかに煌めきを返すその様子から私は目が離せなかった。目を離した瞬間に消えてしまうのではないかと、そう勘違いしてしまう程の光景で。私は動けなくなっていた。

「鈴乃音さん」

「結女之ですよ」

 生徒会長の言葉に、私は頬を噛む。一瞬、朗らかになった彼女の表情に、私は苦いモノを噛み潰す。彼女が見ている私に、私は何故か苛ついてしまう。矛盾だ。混乱だ。この奇妙な感情はきっと錯覚なのだ。でなければ、私は酷く矛盾している。

 私はあの日、鈴乃音鈴乃と名乗ったのに、鈴乃音鈴乃という身代わりを立てたのに。今、この一瞬に、鈴乃音鈴乃が求められた事に私は苛ついた。

「まだあんな事続けるのですか」

 向けられた質問に、私は一瞬戸惑ってしまった。なんて答えれば良いのかと迷ってしまった。

 その質問のニュアンスが読み取れなくて、分からなくなって。だけど、だから、私は急に意地が張ってしまって。きっと意地悪であろう台詞を吐く。

「きっと今日の夜にでも」

 私は何が欲しかったのか分からなかった。

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