第2話 始まり
「はいっ、じゃあ、お誕生日おめでとー! カンパーイ!」
「はは、ありがと、乾杯」
カキンと小気味よい音を鳴らす2つの透明なグラス。
中には黄金色の液体の上部にキメの細かい美味そうな白い泡がなみなみと注がれている。
いろいろと全部忘れるためにも、乾杯の1杯目を素早く流して2杯目の注文に移るためにも、注がれたビールを一気に呷る。
目の前の彼女と僕は同じ動作で、杯をあおいで、ゴキュッゴキュッと喉を鳴らしながら一口で中ジョッキを空にする。
「ぷはぁっ! 美味し〜い! 店員さーん、ビール2つおかわりでー!」
彼女がカウンターに向かってそう元気よく叫ぶと、奥の方から「はいよー」と店のおじさんの声が返ってくる。
「お、ありがと」
代わりに注文してくれた彼女に短く感謝を告げる。
うん、長い付き合いの相手だし、こういうの気楽にやってくれるのはありがたい。
特に傷心のさなかには、こういう気遣いが身にしみるようだ。
「いえいえ〜。ほらっ、何か食べ物頼もうよっ。焼き鳥とか美味しそうじゃない?」
突き出しの枝豆を頬張りながら、紙に筆で手書きされたようなメニューをホクホク顔で眺めつつ、そう呟く彼女は、
さっき言った僕と妃依瑠の1つ年上の昔なじみってやつだ。
今朝、携帯を抱きながらさめざめと涙を流す僕のもとにメッセージを送ってきた『Meiko』の中の人。
ここしばらく会ってなかったけど、昔から変わらない明るくて優しい彼女の様子は少しも変わっていないように見える。
「ここは
「えー、もぅ、しょーがないなぁ〜。スズくんってば甘えん坊さんでちゅねぇ〜。バブちゃんかわいいでちゅねぇ〜♡」
僕の挑発的な言葉に、明陽恋の方もニヤつきながら冗談を返す。
歳上なのに呼び捨てたり、こんな軽口を叩きあえるのも、長い付き合いの為せる技だろうな。
「やーでも、バブちゃんにもなりたくなるよ、ほんと」
「あぁ......。まぁそうだよね......。今日はその残念会も兼ねてるわけだし......」
「まぁね。とはいえそっちはあんまし蒸し返してほしくないんだけどさ」
「そりゃそっか。でも未だに信じられないなぁ。
「うん。そうしてくれると嬉しいよ」
というわけで、今朝、アプリに
このクッソ傷心の中、他の人からの誘いなら即断っただろうけど、明陽恋からの誘いなら、まぁノるよね。
彼女はいつでも明るくテンションを上げてくれるし、僕らの昔からのことも、2ヶ月前に僕が振られたことも、もろもろの事情を知ってくれているのでかなりやりやすい。
今更、妃依瑠のことを新しく根掘り葉掘り土壌を荒らすかのように掘り返して話すことを強要されて、落ち込んだ気持ちをぶり返させられることもないだろう。
......と思っていたんだけど。
「いやぁ、でもホント、あの妃依瑠ちゃんがスズくん以外の男の人と結婚するだなんてねぇ〜。しかもこの短時間で〜」
「..........................................は?」
何やら聞き捨てならないことが聞こえてきた。
油断してた。
何? どういう話?
「え、待って待って、なにそれ?」
「ん? なにそれって?」
明陽恋は僕の質問に質問で返して、店員さんが新しく出してくれたビールに口をつけた。
は? いや、そんな呑気な感じになる状況か、これ?
冗談か? ......いや、こんな冗談、明陽恋らしくないよな。
彼女はそんな風に、軽率に人を傷つけるような嘘はつかない人だ。
............だとしたら......?
「い、いやいや。え? いやだから、結婚? なに、どういうこと?妃依瑠が......?」
「......え? まさかと思うけど、スズくん、知らなかった......?」
「知らない......っていうか。ちょっと意味がわかってないんだけど......」
「そうなんだ。......ってちょっと待って、もしかして......。嘘......まさか、そんなことある......?」
「こっちこそちょっと待って、一旦落ち着かせて......」
まじか、まじなのか?
結婚? 妃依瑠が?
僕と別れて2ヶ月だぞ。
さっきから心拍数が急激に上がるのを感じてる。
まかり間違ってもビールを飲んだからってのが理由じゃない。
知るべきじゃなかったかもしれない情報に、脳が危険信号を出しているんじゃないだろうか。
本能が『これ以上考えない方がいい』と警鐘を鳴らしてるのがわかる。
でも自分では思考を止められない。
現代なら別に2ヶ月で恋愛して結婚まで進んだって可能性が無いわけじゃないだろう。
僕の友達にもマッチングアプリで出会ってすぐに結婚したやつはいたし......。
でも状況証拠は............。
僕が振られるよりしばらく前から、妃依瑠は僕に何か言いたいことがありそうな、気まずそうな表情を見せてた。
たまに実家に行ってくるって言って、僕たちの家に帰ってこない日があった。
そして......妃依瑠は結婚することになった......らしい?
ここから考えられるのは......妃依瑠は前から浮気していた?
僕に後ろめたさを感じて、何か言おうとしてた?
それで結局、僕を捨ててそっちと一緒になることを選んだ?
なんの証拠も無いけど、辻褄は合う。合ってしまう。気がする。
「ス、スズくん......大丈夫? 顔真っ青だよ?」
「......大丈夫じゃ、ないかも」
「えと、何があったか聞いても、いいのかな?」
明陽恋が心配そうな表情で、掘りごたつのテーブルの対面から顔を倒すように僕の顔を覗き込んできている。
「..................もしかしたら、妃依瑠に浮気されてた......かも......」
「っ!?」
僕の言葉に明陽恋が息を呑む。
僕自身、軽い過呼吸のような症状に襲われている。
妃依瑠のことは、今朝、きっぱりと振り切ったはずだったけど、浮気されてたって可能性があるならちょっと話が変わってくる。
いや、吹っ切れなくなった、とかそういう話じゃないんだけどさ。
意識とは別の力が呼吸をはっはっと短く浅く早くしていく。
「確証があるわけじゃ、ないんだけど、さ。前からよそよそしかったり、帰ってこない日が、あったりして......。振られたときも、理由もよくわからないまま、だったし。そうだとしたら、辻褄は合うかな、って」
「そ、そんな......。って、今はそれどころじゃないよ! スズくんの体調が大変だよっ。ほ、ほらっ、しっかり息を吐いてっ」
明陽恋に促されて、ひとまず考えるのを無理矢理止めて、過呼吸を収めるように深く息を吐く。
いつの間にか明陽恋が対面から僕の隣に移動してきて、背中を擦ってくれている。
「あ、ありが、とう」
「もぅ、今はそんなの良いから、ほら、呼吸して!」
そんなやり取りを5分くらい続けて、ようやくちょっと落ち着いた。
「はぁっ、はぁっ............ふぅっ。あー、なんとかなったみたい。ごめん、明陽恋」
「もう大丈夫?」
「うん、とりあえず大丈夫そう」
「よ、よかった......。急に過呼吸になるからびっくりしたよ。............でも、ウチが変なこと言ったから、だよね。ごめん......」
「い、いや、きっかけはそうだったかもしれないけど、別に明陽恋が悪いわけじゃないから。そ、それより......妃依瑠が結婚って、マジバナ、なの?」
「え?う、うん。ウチはお母さんから聞いただけだけど......」
「ま、まじか」
奥様方のネットワークは決してナメてはいけない。
あれほど強力で迅速な情報共有のプラットフォームは、高度情報化社会へと移行しつつある現代においても、他に類を見ない。
明陽恋のお母さんが言っていたというなら、多分本当だろう。
それくらいの信憑性はある。
どうやら情けない僕は浮気されて捨てられたらしい。
「............そっ、か。ま、まぁ、ショックだけど、終わった、ことだし」
なんて嘯いてみたけど、浮気されてたとなるとそう簡単に納得できなさそうな気持ちが湧く。
「スズくん............。いっぱい、泣いていいんだよ」
気づいたときには、僕の頭はいつの間にか明陽恋の胸元に抱きしめられ、優しく撫でられていた。
彼女の胸元が濡れている。
どうやら僕は涙を流しているらしい。
朝だけだって、思ってたのにな。
明陽恋の包容力のせいで、なんか我慢してたものが吹き出してしまいそう。
「ぐすっ。ぼ、僕......。頑張ってきた、つもりだったのに......!」
「うん、スズくんは頑張ってた」
「うまくいってるって、思ってたのに......!」
「そうだね、ウチから見ても......うまくいってるように見えてたよ」
「僕の何がダメだったのかな......」
「妃依瑠ちゃんの気持ちはわからないけど、スズくんに駄目なとこなんて無いよ」
「でも、実際妃依瑠は僕を捨てたじゃないか」
「......そうだね。でも、わからないけど、もし妃依瑠ちゃんがほんとに浮気してたんだとしたら、それはスズくんのせいじゃない。浮気する人は何があったとしても、するほうが悪いんだよ! だから気にしちゃダメ!」
なんて、僕のネガティブな発言全てに、優しくも力強い肯定的な言葉で返してくれる明陽恋。
彼女の言葉に、しばらく何も言えなくなって黙り込んでしまった。
何か考えて黙っていたわけでもない。
単に言い返す言葉が見当たらなかっただけ。
結局、何も思いつかないままだったけど。
「でも......」
僕のマイナス思考と発言は止まってくれない。
こんなことを言いたいわけじゃないのに、口をついて勝手に出てくるようだ。
「『でも』も『だって』もないの! スズくんは悪くない! ほらっ、今はあんな尻軽のことは忘れて、たくさんお酒飲んで忘れちゃお!」
でもそんな僕に対して明陽恋はそう勢いよく言って、さっきから横に置かれたままで少しぬるくなってしまったビールを差し出してくる。
「......だね。ありがと。今晩は付き合ってくれるかな?」
そんな彼女の言葉に鼓舞されて、少し気持ちが切り替わる。
「もちろんだよっ。ふふっ、朝までだって付き合ってあげる♡」
「それは頼もしいね。......じゃあ」
「うん、それじゃあ、もう一回」
「「かんぱいっ」」
*****
「ん......。ふわぁ......。......痛ってぇ。なんだこれ、すげぇ頭痛ぇ......。ん? ここは......?」
あくびをしながら目を覚ますと、ガンガンと頭に響く鈍痛に悶えて、こめかみを抑えながら起き上がってみる。
目を開くと何やらピンク中心のパステルな色でいっぱいな部屋のベッドに寝ているらしかった。
部屋にある窓は透明なやつじゃなくて、窓の絵が書かれた部分が開けられるようになっていて、隙間からほんの少しだけ光が漏れている。
そこは典型的なラブホテルの一室だった。
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