四、

 まぶたの向こう側が明るい。嗅ぎ慣れない酒精の臭いと薬の臭いが薄く鼻に届く。

 首を動かせば頭にかすかな痛みと違和感を覚える。センが寝かされているのが布団ではなく医術寝台であることから加賀守直下の組織に付属したであると見当がついた。

 夜廻り組がセンを運んだのだと合点がいった。身じろぎをすると、寝台のすぐそばに人の頭がある。寝台に背中を預けるようにして床で膝を抱えていたその人物はよく見知った相手だった。


「さきち……?」


 かすれた声がセンの喉から出た。そういえば手合わせの後より何も口にしていなかった。乾燥した喉に痛みを覚えていると、佐吉が振り返り、足をばたつかせてセンの手を握った。


「お嬢様! ああ、よかった……!」


 その顔は少しやつれているようにも見え。はらはらと涙を流す。佐吉は目元を腫らし、良かった、良かったと何度も繰り返した。


「さきち……かつまるは……?」

「活丸様は奥様が……」


 佐吉のその言葉で心が軽くなった。しかしそれと同時にかえでと菊之助が無事ではないことを理解する。


「お嬢様。旦那様をお呼びして参ります」


 佐吉は慌てて立ち上がり、部屋を後にした。佐吉が去った後、医者に問診と触診を受けているうちにドスドスと男の足音が近づいてきた。


 障子が開き、道元は見かけぬ男を伴い現れた。その顔は険しい。


「父上……」


 道元を見るセンの目に、道元の顔がぐっと歪んだ。言いたい言葉が百は有っただろう。それでもそれを飲み込み、道元は無言でセンを抱きしめ、絞り出すようにいった。


「お前が無事で良かった……!」


 その言葉でもうかえでも菊之助もこの世にないのだと言われたようだった。実感を伴うにつれ、じわじわとセンの眼球が熱を帯びる。震える唇がようやく紡ぎ出したのはまともな言葉にならなかった。


「父上……義兄上が、姉上が……」

「言うな、何も言うな……」


 センは父に後頭部を押さえられ、額をくっつけられた。父の唇も震えている。

 菊之助が背中を斬られ、かえでは何度も腹や胸を刺されていた。その光景が再び浮かび、息がつまりそうになる。

 しばし無言で涙を流していると、道元についていた男が声をかけてきた。


「道元殿、娘御と話しても宜しいか」

「杉山殿……」


 道元が杉山と呼んだ男は黒い羽織に家紋が縫われいる。そして立派な刀を二振り腰に帯びている辺り相応な身分の者であると察しがついた。

 身のこなしも隙がなく、菊之助よりも若いが彼と並ぶほど、腕の立つ侍だとも感じ取れる。


「どちら様で……?」


 渋い顔をする道元を横目に、センは杉山なる男に尋ねる。背中に定規でもはいっているのかと思うくらい腰から折って頭をさげ、彼は淡々と言葉をつずった。


「このたびは姉君とその御夫君のご不幸、お悔やみ申し上げまする」

「はい……」


 顔を上げたその男はセンの顔をうかがいつつも表情は面のように動かさぬまま言葉を続ける。


「加賀守様の使いで参りました、それがし杉山勘治と申す」


 「加賀守様」と言う言葉でセンの背筋がピンとなる。緊張が走ったのだ。少し慌てて寝台に正座し、せめてもの礼節を示そうと頭をさげる。


「花房センと申します。あの、杉山様、加賀守様が私に一体……」


 加賀守、と名乗れるのは左京を治める栗沢荘左衛門、その人のみである。

 此度のことで不幸を案じるのであれば、元指南役である道元の元に来るはずである。それが娘であるセンに使いを寄越すというのはただ事ではなかった。

 ただならぬ様子を察したことに気付いたらしい勘治はそのまま用向きを伝える。


「大事ないのであれば、今から加賀守城へお越しください。もしからだに障りがあればまた後日に」

「いえ、大事有りません。少しばかり身なりを整えさせていただけますか」

「小半時しましたら出発いたしましょう。籠を待たせてあります」


 勘治は了、と頷き部屋を後にする。部屋の外に控えていたらしい佐吉が着替えのはいった風呂敷を抱え、そこに立っていた。


「佐吉、手伝ってやれ」

「いえ、大丈夫です父上」


 佐吉から受け取った羽織には花房の家紋があった。

 センは自身が花房の家を代表して登城するという緊張と姉夫婦の喪失感で吐き気が込み上げてきそうだった。




「こちらでお待ちください」


 勘治に案内され、通されたのは広い部屋だった。自身で来たことはないが、高き位置があるこの間は加賀守様がそこに座し、家臣どもを見下ろす場である。

 きちりと正座をしているうちも緊張で手の中に汗をかいてしまう。握りしめたこぶしを膝に押しつけ、呼吸を繰り返して城主を待った。

 スタスタと廊下を歩く音が聞こえ、今一度背筋を正し、指をつく。本来であれば先触れの声があるはずだが、それも無い。この場が公式なものでないことがうかがえる。襖が開かれ、その人物が着席するのを待った。

 センは上座にかけた男の気配にかすかに視線をあげる。

 男はひとりだ。

 センは息を止める。


「面を上げよ」


 センは貫禄のある太い男の声かけに応じ、揺るぎのない発声で応えたつもりだった。しかし動きがぎこちなくなってしまった。

 顔を上げ、声の主を見る。

 相応の年であるはずにもかかわらず、結わえた髷は黒々と太い。その太い首や大きな手にもかかわらず、野蛮さではなく力強さと品を感じるのはその知的な眼差しゆえだろう。


「お初にお目にかかります。花房道元が娘、花房センでございます」

「うむ、よく参った。余が栗沢加賀守荘左衛門である」


 センは城主に対する口上を述べようとしたところ、荘左衛門は手をかざしそれを制した。


「此度は姉と姉婿の不幸から一夜明け、そなたも怪我を負わされて間もないうちに呼び立てたこと、許せ」


 その声の優しさから、荘左衛門の言葉がけっして形だけのものでない気遣いに思えたセンは深々と頭をさげる。


「栗沢様のお気づかい、ありがたく存じ上げます」

「そう何度も頭をさげずとも良い」


 優しげな声にセンの緊張がほぐれそうになる。思わず涙がにじみそうになったが、それも直ぐに吹き飛んだ。


「さて、おぬしを呼び立てたのは他でもない。姉夫婦を殺した相手……胸に逆さの『水』の文字が彫られていたそうだが」


 全身の血が沸騰するような感覚に目の奥が熱くなる。かえでと菊之助を殺した男のあの血走った目と胸に刻まれた逆さの「水」の文字が、センの頭に焼き付いていたからだ。歯が軋むほど噛みしめ、眼差しは怒りで赤く染まり、握った拳は震える。


「違いないな?」


 荘左衛門の声で空気にピン、と糸が張る。

 「加賀守城城主」の声だった。

 センは苛立ちと己の未熟さに目の前が赤く染まっていくような気さえしたが、この場においてそのような「個人」としてのふるまいは出来ない。

 センは今、花房の家を代表してこの場にいる。


「……はい、違いありまぬ」


 すべてを押し殺し、できうる限り熱を押さえた言葉を発した。センが未熟ながら己を律した様子に荘左衛門は鋭い眼差しのまま言葉を続ける。


「先に申しておく。その逆さに水の文字の入れ墨というのは、帝様に仇為す『逆さ五行』という悪党集団のひとりである」

「逆さ、五行……?」


 言葉を反復するセンに荘左衛門は大きく頷く。

 ず、と少しばかり膝を前に出す。密談のような気配に、センも身を乗り出した。


「左様、『逆さ五行』というのは我らの付けた名であるが……奴らは五行の文字をそれぞれ胸に墨を入れておる。少なくとも文字の入った者はそれなりの上位の者だ」


 センは目を見ひらき、荘左衛門を見た。

 義兄や姉の敵の男は逆さの水の墨がはいっていた。それはつまり「逆さ五行」の一味の幹部と言うことになる。


「わしはもちろん、右京の多磨守や各地できゃつらを追っている。そのような危険な賊どもの一味がおぬしの姉とその夫を殺した。我らが必ずや、逆さ五行どもを捕らえ、しかるべき罰を与えるつもりだ」


 荘左衛門の言葉にセンは顔を伏せ、怒りと屈辱に喉の奥で声が潰れた。

 かえでや菊之助は何か恐ろしい企み事に巻き込まれたのだろうか、そのために命を奪われたのだろうか。

 そんな考えがセンの頭の中をぐるぐると回転し続けていた。怒りでイノシシのような呼気を吐くのをこらえ、薄く唇から空気をもらすセンの様子を、荘左衛門はじっと見た。荘左衛門はセンの怒りにとりつかれた表情を見、口を開いた。


「花房セン。おぬし仇討ちの意志はあるか」

「勿論です……! お許し、いただけるのですか?!」


 センはばっと顔を上げ荘左衛門を見つめる。ひり出された声には火薬が込められているようだった。

 荘左衛門は大きく頷く。

 センは己の未熟さを理解はしている。しかし仇討ちを、しかも帝様にまで仇を為す逆賊に対して行うこと許されたことに感情が昂ぶる。かすかな引っ掛かりがないわけではない。それでもその引っ掛かりを無視してでも仇を討ちたい。

 家名にかけられた泥を雪ぐために、そして花房の家に誉を取り戻すために。


「そしてわしからふたつ提案がある。仇討ちとおぬしが花房家の当主代理となることだ」


 センはさすがに混乱した。

 佩刀も許されていない小娘には破格としか言いようがない。何故このようなことを許してもらえるのかがわからないのだ。「加賀守」の立場である荘左衛門の考えの深淵を理解できるほどの人生を、センはまだ歩んではいない。


「道元には幼き頃より剣術指南を受けてきた。その恩であると思え」


 荘左衛門はわかりやすい「恩」という形でそれを示した。セン自身に荘左衛門の考えすべてを理解することは出来なかったが、それでも一応の納得をする他ない。


「姉夫婦には子があったな。甥御が育つか、おぬしが婿でも取るか……その間、おぬしが家を守るが良い」

「はっ! 栗沢様の多大なる御慈悲、感謝いたしまする!」


 センは深く頭をさげる。

 これにより花房の家が即座に途絶えることはなくなった。センにはこれが何より大事だった。


「そしてそれらを許すにはふたつ、条件がある」

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