三、
さすがに走り続けたためか、センは肩で呼吸をしていた。もう少しで日は完全に沈む。その前 に道場にたどり着けて良かったと思いつつ、おそらく夕餉の席についているであろう姉夫婦に顔を合わせるのは気まずかった。
菊之助はともかく、かえでの方は嫌味の一つでも投げかけてきそうで。センはしばし、「いかに姉に小言を投げかけられる前に羽織を持ち去るか」と、頭の中で自分と話し合いをしていた。
結局、「どうにもならん」という結論に至る。
かえでの小言から逃げるにはそれこそ忍の如く素早く塀を飛び越えるくらいしなければ難しかろう。
深く呼吸を繰り返し、跳ねた心の臓を落ち着けようとする。しかしそのとき、鉄の臭いが鼻についた。もう一度空気を吸い込めば、それが気のせいでないことがわかる。
そろそろと門の横の戸を開け、中をうかがう。道場に隣接する、姉夫婦の住まいからもれる明かりの手前に動く人影があった。
強烈な鉄の臭い......血の臭いだった。
それだけで心の臓に爪をたて、握りつぶしてくる嫌な予感がセンの頭を駆けめぐる。呼吸が浅くなり、手のひらに汗がにじんだ。
人影は刀を何度も何かに突き立てている。彼奴の足元に転がっていたのはほんの少し前に見 送った背中と、胸元を一層赤く染め上げた姉だった。
人影は黒い頭巾を被り、手に持った大刀で幾度も幾度もかえでの胸を刺していた。もう息はないのだろう。それでも何かブツブツと言いながら、かえでの胸を突くその姿は悪鬼と いって差し支えなかった。
足元に転がる菊之助の背中には、大きな斬り痕がある。刀が抜かれた様子もなく、ただ地に伏 していた。
瞬間、センの血は一気に頭を駆け上がり、次の瞬間には木刀で頭巾の男に殴りかかろうと走り出す。
「貴様ああアッ!」
頭をかち割ろうと、明確な殺意を持ってセンは男に木刀をふるう。
あまりにも屈辱的な死に様に、センは法も理性もかなぐり捨てた。憎しみも恐怖もなく、純然たる怒りが骨を軋ませるほど力となり、男に襲いかかる。
センの声に男が振り返り、血に濡れた刀を振り抜いた。刀をかわし、頭巾男の胴を力一杯打ち据えてやれば「ぎゃあっ!」と汚い悲鳴を上げる。
木刀は肉を斬ることのできない。故に素早く木刀を引き、衝撃がはらわたや骨を傷めつける事を狙う。
たしかな手応えにセンは二撃目を加えようと再び木刀をふるった。頭巾の男が意味のわからない言葉を叫んでいたが、そんなものは関係ない。センはまっすぐに頭を狙い振り下ろす。目を血走らせ、激高した男は刀を真上に振り上げて木刀 を真っ二つにした。
急に軽くなった木刀の切っ先を一瞬、目視したセンはそのまま男の懐に飛び込む。喉を木刀の尖った部分で突けば殺せると、力いっぱい地面を蹴り、渾身の力で木刀を突き出す。
しかしその殺意の乗った切っ先は寸でのところでかわされた。木刀の先が突いたのは男の着物で、その手応えにセンは舌打ちをする。一度距離を取らねば助走も付けられない。そう判断したセンが後方に足を運ぼうとしたとき、男の乱れた着物の胸元に「水」という文字が逆さまに彫られているのを見た。
「(逆さの、『水』......?)」
一瞬の注視がセンの隙となった。
センの側頭部に衝撃が走る。
夜の暗い視野に火花が散り、天地がひっくりかえる。
刀の柄で殴られたのだ。
幸いだったのは外に振り抜くように殴られなかったこと、不幸だったのはそれほど勢いがな かったために男の足元に転がってしまったということ。
頭を揺さぶられたセンはうめきながら、それでも男に立ち向かおうとからだを奮い立たせる。しかし揺れた視界を立て直すには時間がかかるだろう。
頭巾の男はセンに殴られた脇腹を押さえ、瞳孔の開いた目でセンを見下ろした。不快さと苛立ちを混ぜ合わせた視線に、センは抵抗するように睨み上げた。 頭巾の男はセンのからだを踏みつけ、刀を頭の上に構える。手を踏みつけるのではなく、胴着の下の肉や骨を確かめるように踏みつけてくる辺りに、この男の嫌らしさが感じ取れる。嗜虐趣味を疑わずにはいられない。足の裏でセンの命を感じ取っているようだ。
両手で絞り込むように柄を握った姿は、最も貶められる罪人の処刑役、首討ち人のそれだ。ひたりと切っ先があてがわれたのは耳の辺り。姉の、かえでの血が滴り落ちた。その真直ぐな構えが振り下ろされればセンの頭部は石榴のように割れるだろう。それでもセンが砂を握りしめ、男を睨めつけたのは、顔めがけて砂で目潰しをしてかけるため。その機を逃さぬよう瞬きもしなかった。
今まさに刀を振り下ろさんと後ろにタメを作った瞬間、足音が聞こえた。
ーー夜廻り組だ。
そう確信したセンは男に向かって砂をかける。からだを起こし、できるだけ息を吸い込み声を 張り上げた。
「誰か! 誰かおりませぬか! 賊にござる!」
喉が裂けそうになる痛みを覚えても声を上げた。頭巾の男が刀を苛立たしげに下げ、そのまま 背を向け裏口に向かって走っていってしまう。
呼吸を整え、膝に手をつき、なんとか立ちあがろうとするも遠くで裏口の戸が開く音がセンの耳に届く。
――逃がしてしまった。
そう落胆した瞬間、センは再び地に伏せる。先ほどまでの命をやりとりした打ち合いが終わったのだ。その緊張感からの解放で一気に力が抜けてしまう。あいたままの玄関横の扉を開け、夜廻り組が駆けよって来るのが足音でわかる。 今一度、玄関の方に視線をやれば夜廻り組が三人、駆けてきた。
「花房さん! 一体何が?!」
がん灯の光が近づき、ひとりがセンに駆けよる。センは顔を上げれば、先ほど言葉を交わした 夜廻り組の男だと気付いた。
「賊が、裏口に逃げました......黒い頭巾に、胸に、逆さに......水の字の、入れ墨の、男が......ッ」
ひり出されたその言葉に、ひとりは笛を鳴らしもと来た道を走り、もうひとりの男は裏口へ 走った。がん灯で照らされた惨状に、夜廻り組の男は息を呑む。そして母屋の方から活丸の泣き声がその場にいたふたりに届いた。
――ああ、活丸......生きていたか......
活丸が生きていることがわかった瞬間、センは一気にからだから力が抜け落ちた。そのまま意識を手放し、意識を暗闇に沈めてゆく。
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