二、
日が傾き、空の色が変わり始める。その時刻はぴゅぅ、と吹く小さな風さえもかなり冷たく思える。
センは不機嫌そうに木刀を担ぎ、大股で花房邸へ歩んでいった。姉であるかえでの言葉には心底 うんざりし、思わず菊之助に愚痴をこぼすのはよくあることだった。
「父上が以前のように稽古をつけてくだされば、もっと上達するし、姉上も口うるさくなくなると思うのです。なのに父上ときたら『儂はもう隠居の身故』とのらくらと逃げるのですよ! 中途半端に私を師範代にまでしておいて!」
おかげで姉上はいつまで経ってもやかましい! と半ば八つ当たりを叫ぶ。しばらく前に道場 に顔を出すことを辞めた父・道元。最近は日がな一日、母と白黒の盤上遊びをしたり、母の弾く琴にあわせ調子外れな音で笛を吹いたりしている。センとしてはそれが不服でならなかった。
「はは、先生らしい」
道元の様子がありありと想像できたのか、菊之助は快活に笑う。センは両人差し指を立てて歯を剥き出しに、睨みをきかせた。
「最近の様子はかつて加賀守の城主様お抱えの剣術指南役として『鬼道』と恐れられた人物とは思えませぬ。まあ、私は城勤めの頃の父上をほとんど覚えておりませぬが......」
剣術指南を辞した道元が、今の花房道場を開いたのが十数年前。幼かったセンは出来たばかりの道場の床を駆け回っていた覚えがある。しかしそれ以前の父の記憶というのはなかった。道場主となった頃の道元は、母の話では「大分丸くなった」とのことらしい。
散々文句を言った後、気持ちが少し落ち着き、センはふう、とため息を漏らした。
「......師範代までとはいえ指導してくださり、今も道場通いを許してくださっているのです。父上 も応援してくださっていると思っておりましたが、違うのでしょうか」
ぽつ、と零すセンの横顔は酷く寂しそうで、親猫とはぐれた子猫のようだった。そのしょぼく れた姿に菊之助は歩みを止めぬままゆっくりと言葉をつむぐ。
「帝様が栗沢様と楠木様を従えてキギスの国を統一しました。そして今や戦国乱世は遠い昔。誉 れを求めた武士は民草を守る侍となりました。人を斬る重みが、今と昔とでは違いすぎます」
菊之助が腰の刀に触れ、まっすぐに先を見据える。その眼差しが過去を見ているのか、未来を 見ているのか。センにはわからなかった。
「乱世と今では命の重みが違いますゆえ」
「左様。戦国乱世であれば一人斬り、二人斬ってもそれが誉れであれば誰も咎めぬものでした。しかし今は太平の世。侍以外が人を斬ればほぼ罰を受け、侍であっても道理なき人斬りは罰せられます」
「人殺めたるは国力を削ぐ行為である。故に道理なき殺しは偽金作りに次ぐ逆賊行為なり」とされている。今の世は侍であっても軽率に人など殺せぬ、というのが広く知られたることだ。 私塾にて学んだセンにとって常識である。深々と頷き、菊之助を見た。
「存じております。故に侍は誰より道理に従わねばなりません」
「左様。だが侍の死に様というのは未だ、平穏と呼べるものは少ない......」
菊之助は刀の位置を整え、背を正した。そしてまっすぐにセンを見つめる。
「先生は心身を強くあれ、と剣術を極めること自体は反対はしていないでしょう。しかしセン殿 に侍の道を歩んで欲しいと考えているとは思えぬのです」
そう告げる菊之助の表情はどこか憂いを帯びていた。少なくともかえでの言葉よりもセンの心 に後ろめたさを感じさせたが、それでもセンは唇を曲げる。
「私は花房の家を繋ぐより糸ではなく、一瞬の光となりとうございます」
その言葉に菊之助は複雑そうな顔をした。義妹の意思を尊重したい反面、刀の上を歩むことを センにさせたくない気持ちが含まれている。
「俺としては義妹には春は花を愛で、夏には花火を楽しみ、秋には紅葉を見て、冬は囲炉裏で餅を焼くような人生を歩んで欲しい。そんな人生に、刀は重すぎる」
刀を傾けて見せた菊之助にセンは眉をハの字にして見せた。
「私の刀には樋を多く入れるつもりですので、義兄上の物より軽くなりましょう」
つん、とそっぽを向くセンに菊之助は後ろ頭をかいた。それだけセンの中で侍への情熱があるのだ。花房の道場に毎日のように通うのも、その熱意の表れである。それも理解している。
「あまり拗ねないでくれないか、セン殿」
「拗ねておりませんー」
そんなやりとりは花房邸の門が見えるまで続いた。
「義兄上、寄ってはゆきませぬか?」
戸に手をかけたセンが、菊之助を振り返る。菊之助は軽く手を上げ、その誘いを辞した。
「いや、かえでも活丸も待っているからそのまま帰るよ。先生と義母上によろしく」
そうきびすを返して菊之助は走って行く。その足の速さはそこいらの飛脚も追い抜き、あっと いう間に豆粒くらいになってしまった。義兄の足の速さに感心すると同時に思わず己の力の足りなさを実感する。
菊之助が見えなくなってから後頭部をかきつつ花房の門をくぐれば、下男夫婦の息子の佐吉が いた。髪をまとめて三角布に隠し、前掛けをしている。夕餉の仕度の後なのだろう、センを待っていたらしく、小走りで駆けよる姿は小さな柴犬のようだった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ふわりと佐吉から良い匂いがする。今夜の夕餉を作っているうちに染みついたらしい。出汁の 匂いがして、センは思わず腹を鳴らしそうになった。
「ただいま佐吉。夕餉は何かな?」
佐吉の言葉を待つセンの目は期待に輝いている。しばらく前から台所の一部を任されるように なった佐吉の料理を、センは好んでいた。昨日の甘く煮た油揚げとネギは絶品だったし、しばらく前の鴨肉のおろしのせも麦飯がすすん だ。どちらも佐吉が作ったらしくよく覚えている。
「鶏が卵を生みましたので、山芋と合わせて出汁で炊きました」
「わぁっ、いいね! 佐吉の作る飯はいつも美味しそうだ!!」
年も近く、家族のように育った佐吉にセンは砕けた言葉遣いになる。足取り軽く玄関へ向かっ た。
佐吉は照れくさそうに頬を赤らめ、はにかむ表情は穏やかで優しい。
「お嬢様が喜んでくださるので、佐吉はいつも腕によりをかけております」
「ありがとう、佐吉」
肩に担いだ木刀を佐吉に預けると、玄関には佐吉の母、なつがいた。佐吉の父、田助は膳の準 備をしているらしい。
桶が置かれ、半分水が入っている。
「お嬢様、湯を用意しますので少しお待ちを」
足を清めるためにいつもなら水だが、寒くなってきた時分である。なつは気を利かせてきれた らしい。
「ありがとう、おなつ。今日は卵と山芋の出汁炊きらしいね。義兄上と手合わせをしたし、今日 は腹が減って仕方がないよ」
玄関に腰を下ろしたセンは腹をさすってなつを見る。なつはくすくすと口元を押さえて笑う。
「まあ、お嬢様。朝も味噌汁をおかわりして、麦飯も二杯も食べましたのに」
「おなつや佐吉の作る飯が美味いのがいけないのだ。私のせいではないぞ」
「まあまあ、嬉しいことを」
空腹娘のひょうきんなやりとりに、センの両親が寄ってきた。 好々爺としているものの、その体つきと足運びは相変わらずの父・道元とふっくらとした頬の 母・冨実が迎える。
「セン、お帰りなさい。今日は菊之助さんから一本取れましたか?」
髪を結わえず背中に流した母のたたずまいは凜々しい。夕餉の時間だというのに、彼女の姿は 姉同様乱れがない。そんな母が「一本取れたか」と問うてくる辺り、戦果を尋ねられるというの は緊張と圧に襲われる。
「......一本、取れました」
センにとっては一本しか取れなかった、という意味でしかない。情けなくついうつむいてし まった。
「道場通いも音を上げるかと思えば、存外続いておるではないか」
道元の言葉に少しだけ気持ちが上向きになる。センは少し胸を張ってみせた。
「当然です。センは侍になりますので」
「ただ侍になるというならば、身なりもきちんとせい。おぬし、羽織はどうした?」
セン、はっとする。 動き回って熱かったせいで、うっかり胴着のまま帰ってきてしまったらしい。
「道場に忘れたのですね。まったく......」
母の言葉に思わず恥ずかしくなった。
「......今すぐ取りに行きます!」
「止めておけ、日が大分傾いておる。黄昏時は魔がおるぞ」
「走れば陽が落ちるまでに戻れます。それに今時妖怪物の怪は流行りませぬよ父上!」
再び木刀をひっつかみ、草履を履いて玄関を飛び出す。 出汁の良い匂いに後ろ髪引かれつつ、日が沈む前に道場へひた走る。 ちょうど道場までの道の半ばにさしかかったとき、夜警のための夜廻り組を前方に見つけた。 センは三人のうちそのひとりの顔に見覚えがあった。たまに道元の元に訪れる小柄な男である。
「ああ、花房さん。どうしたね」
がん灯を手に持つ夜廻り組とすれ違い、そのまま通り過ぎる。
軽く振り返りながら肩越しに夜廻り組の男に向かって声を張り上げた。
「花房の道場に羽織を忘れたのです! 取りに行くところなのですよ!」
「四半時にはその辺り通りますから、途中まで送りましょう」
親切に夜廻り組の男がセンの背中に声をかける。センはくるりと体を回転させ、笑みを飛ばした。
「ありがとう! でもお気になさらず!」
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