お兄ちゃんの日記帳

柚城佳歩

お兄ちゃんの日記帳


僕には十五歳のお兄ちゃんがいる。


体が弱くて、いつも自分の部屋で過ごしてばかりいる。

友達が、お兄ちゃんとキャッチボールをしたとか、同じサッカークラブに入ったなんて言うから、僕も外で一緒に遊びたくて誘ったら、お母さんからは止められるし、お兄ちゃんも困った顔で「ごめんね」って謝ってきた。


別に困らせたいわけじゃない。それに外で遊べなくても、ゲームやトランプで遊んでくれるから好きだ。

お母さんから「お兄ちゃんを支えてあげてね」って言われた時も、頼ってもらえたみたいで嬉しかった。不満なんてない。そう思っていた。




「遊園地に行くって言ってたじゃん!」

「ごめんね優次ゆうじ。お兄ちゃん、急に熱出ちゃったのよ。また今度連れて行くからね」

「この前もそう言ってた」

「そうだね、ごめんね。じゃあ皆で行くのは次の時にして、今日はお父さんと行くのはどう?」

「皆で行きたかったの!もういい、お兄ちゃんなんか知らないっ」

「優次!」


僕は乱暴にドアを開けて家を飛び出した。

すぐにお父さんが追い掛けてくる音がしたけれど、今は来てほしくなくて、大人が通れないような道を選んで走った。

僕の事を見失ったのか、名前を呼ぶ声がする。

でもすぐには帰ってやらない。

たまには僕の事も心配したらいいんだ。


今日は皆で遊園地に行く約束をしていた。

前も延期になったのに、お兄ちゃんのせいでまたダメになった。

いつも、いつも、優先されるのはお兄ちゃんだ。


お兄ちゃんは僕が生まれるまで五年もお父さんたちを独り占めしていたのに、大きくなってからもいっぱい大切にされていてずるい。

僕といる時だって、お兄ちゃんに何かあるとすぐにそっちに行ってしまう。

立ち止まったらもやもやした気持ちに埋め尽くされそうで、僕は走り続けた。




「はあっ、はあっ……」


結構遠くまで来たと思う。

周りは見た事のない景色だ。


「ここ、どこ……?」


近くの電柱に住所があったけれど、漢字が難しくて読めない。戻ろうにも、滅茶苦茶に走ったからどの道を走ってきたかわからなかった。

帰れなくなっちゃったかも。

不安になってその場から動けなくなっていると、唐突に名前を呼ばれた。


「もしかして、優ちゃん?」


声のした方を見ると、優しそうなおばさんが僕を見ていた。名前を知ってるって事は前にどこかで会ってるんだと思うけど……。


「覚えてないかしら?前に病院で会っているのよ。ほら、お兄ちゃんの付き添いで来た時に」

「あっ!」


思い出した。お母さんがお医者さんと話をして待っている時、よく話し相手になってくれていた看護師さんの姿と重なる。

私服だったから気付かなかった。


「こんな遠くまで一人で来たの?」

「……はい」

「そうだ。よかったら、あそこの公園のベンチに座って何か飲まない?そしてまた前みたいにお話聞かせてくれるかしら」


その看護師さん、永谷ながやさんに促されて、並んでベンチに座る。

自分で思っていたよりも喉が渇いていたらしい。

冷たいお茶がとても美味しかった。

こうしていると、前に病院でいろいろ話した時の事を思い出す。だからか、さっきあった事も自然と言葉が零れていった。

一度口から出ると今まで我慢していたものも次々と頭に浮かんできて、順番も滅茶苦茶なまま、永谷さんに話し続けた。


「お兄ちゃんなんていなくなればいいのに……」


僕がついそう言った時、それまでずっと穏やかに相槌を打ってくれていた永谷さんが静かに、でも厳しい声で僕を呼んだ。


「優ちゃん。そういう事はね、例え思ったとしても声に出してはダメ。優ちゃんは優しいから、きっといつか自分で言った言葉を後悔してしまうと思うから」

「……そんな事ないよ」

「私は優ちゃんじゃないから、気持ち全部はわからないけれど、ちょっとならわかるの」

「え?」

「私には年の離れた妹がいてね、最初はもう本当に可愛かった。母からお姉ちゃんって呼ばれるのも嬉しかったわ。でも、両親と一緒に過ごしていた時間も愛情も、一気に妹優先になった。そのうち“お姉ちゃん”って呼ばれるのも嫌になってきてね。妹なんか怪我くらいしちゃえばいいって言った事があるの。ある時、母が買い物に行く間、面倒を見るように頼まれて仕方なく頷いた。けれど私はよく見ていなかった。妹はね、私がテーブルに置いていたホットココアが気になったのか、手を伸ばして引っ掛けて溢したの。まだ熱いココアが手に掛かって泣きじゃくる妹を慌てて抱っこして水道で手を冷やしながら、私があんな事言ったからかもってずっと考えてた」

「それで、妹さんは?」

「幸いすぐに冷やしたからか火傷の跡は残らなかったし、本人も覚えていないと思う。でもね、今でも思い出す度、心を細い針でチクッと刺されたような気持ちになるの。ただの偶然、小さい子なら起こり得る事故だって頭ではわかっていても、もっとちゃんと見ておけばよかったって。あんな事本気で思ったわけじゃなかったのにって。だから優ちゃんには同じ思いをしてほしくないのよ。難しい事だけれどね」


永谷さんの言葉をゆっくりと考える。

僕だって本気でいなくなればいいなんて思ってはいないし、嫌いなわけでもない。

でも……。


「そろそろ帰りましょうか。お家まで送るわ。その前にまずはお家の人に連絡しないとね」




その後永谷さんに連れられ数時間振りに家に戻ると、ドアを開けた途端にお母さんに抱き締められた。泣きながら怒られて、何度も名前を呼ばれて、僕も泣きながら謝った。


お兄ちゃんは熱が下がらなくて、お父さんと病院に行ったらしい。これからお母さんも様子を見に向かうと言う。

一緒に行くか聞かれたけれど、なんとなくまだお兄ちゃんとは会いたくなくて、一人で留守番する事を選んだ。


お母さんが出掛けた後、やる事もなくて家の中を歩き回っているうち、お兄ちゃんの部屋に来ていた。

前はよく遊びに来ていたけれど、最近は全然だ。

久しぶりに入ったそこは、前と変わらず綺麗に整頓されていた。

壁にはたくさんの本が並び、僕が持ち込んだおもちゃも置いてある。その中に混ざるようにして、作りかけのボトルシップがあった。


「……覚えててくれたんだ」


僕は以前、テレビで偶然ボトルシップを見て「欲しい!」と言った事がある。

作るのが難しいものだと知らず、何日も言っていた。でもお父さんにもお母さんにも断られ続けるうちに諦めていた。

それを、お兄ちゃんは誰にも言わないまま頑張ってくれていたんだ……。


お兄ちゃんの勉強机に座ると、学校のノートとはまた別のノートが何冊も置いてあった。

気になって見てみたら、表紙には日記とある。

本当はダメだと思いつつも、ちょっとだけのつもりでページを捲ってみた。


〈弟が出来た。すごく可愛い。俺が守ってあげなくちゃ〉


〈まだ言葉を話せないけど、時々俺の真似をしてくる事がある。なんだか嬉しい〉


最初の方はそんな内容が、まだ拙い字ながらどれも丁寧に書いてあった。


〈皆と普通に外で遊べる優次が羨ましい。俺も体調なんか気にせず、一日中思い切り走り回りたい〉


〈本当は外で遊びたいんだろうに、俺がこんなだから一緒に遊べなくてごめん。優次はいつも良い子すぎるくらいに優しくて、よく我慢もしてくれている。俺が優次の歳だった頃なんてわがままばっかり言ってたな〉


〈優次がボトルシップに興味を持ったらしい。調べてみたらすごく大変そうだ。時間は掛かるだろうけど、完成させてプレゼントしたい〉


〈最近優次に避けられている。わざとじゃないけど、俺ばっかりお母さんもお父さんも取ってしまっているからだろう。本当は優次の方がたくさん甘えたいだろうに。俺は嫌われてしまったかもしれない〉


ちょっとだけのつもりが、全部読んでしまった。勝手に日記を見てしまった罪悪感はある。

でも同時に、お兄ちゃんがこんな事を思っていたなんて驚きもあった。

僕の事が羨ましいだなんて……。

いつも僕ばかりお兄ちゃんを羨ましがってると思っていた。

それに、ほとんどの内容に僕が登場している。

日記を見たらなんだか無性に会いたくなって、僕は病院へ向かって駆け出した。

何度も来たから道順は覚えている。


「着いたっ」


中に入ったところで立ち止まった。

ここからどうするかまでは考えてなかった。


「もしかして優次くん?」


受付のお姉さんに呼ばれて振り向く。

見覚えのある看護師さんだった。


「お母さんから、もしかしたら来るかもしれないって言われていたの。案内するわ」


お姉さんに連れられて一つの部屋に入る。

眠るお兄ちゃんの横で、お母さんたちが座っていた。


「今は薬が効いて眠っているところだから、ゆっくり寝かせてあげてね」

「お兄ちゃん」


起きたら話したい事がいっぱいあるよ。

謝りたい事もある。

外で遊べないのつまらないって思った事もあるけど、お兄ちゃんはすごく手先が器用で、プラモデルも、折り紙でいろんなものを作るのも得意だよね。

他の子のお兄ちゃんはきっとこんな事は出来ない。僕のお兄ちゃんだけだよ。

今日一日たくさん走ったせいかもしれない。

お兄ちゃんの手を握りながらベッドの隣に座っているうち、僕は眠っていた。




温かいものに包まれながら、目が覚めてくる。

隣にはお兄ちゃんがいた。


「優次、起きた?昨日寝ちゃったから、そのまま帰ってきたんだよ。優次が離れないから一緒に寝たんだ。覚えてる?」


久しぶりにちゃんと見たお兄ちゃんはやっぱり優しくて、僕の大好きなお兄ちゃんだった。


「あのね、日記、勝手に見ちゃった……ごめんなさい」

「……そう」


起きてすぐ、日記の事を謝った。

黙ったままでいるのはずるいと思ったから。

少しの沈黙があって、お兄ちゃんが話し出した。


「優次、まだボトルシップに興味はある?」

「え」

「今、半分まで出来たところなんだ。よかったら続きを一緒に作らない?」

「いいの?」

「もちろん。でもすごく難しいぞ」

「やる!頑張る!」


お兄ちゃんはいつも優しく見守ってくれていた。

これからは僕も、支えられるようになりたい。












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