第3話

「このように頻繁に市中へいらっしゃって、本当によろしいのですか?」


 あまりに頻繁にいらっしゃる殿下に不安を覚えたわたしは、差し出がましいと思いながらそう尋ねた。


「わたしの息抜きも兼ねているから問題ないよ。それに馬車からは民たちの生活を直接見ることができるし、よい機会だと思っている」


 王太子ともなれば様々な苦労や気疲れがあるのだろう。殿下ご自身がそうされたいというなら、わたしが口出しするべきではない。それでもどうしても気になった。


(職務も兼ねてのようだし、息抜きのお手伝いができるのならとも思うけれど)


 そう思いながら、目の前に置かれた美しい本の表紙に視線が吸い寄せられた。

 殿下がお持ちくださったのは海を渡った先にある異国の本で、表紙に立体的な刺繍が施された大変珍しいものだった。同じように刺繍を施した本を一冊持っているけれど、随分と古いもので刺繍は色あせ、本来の模様がどうだったか判別することもできない。そのことを殿下にお話したところ、似たような本が蔵書にあったはずだとおっしゃり今日こうして持ってきてくださった。


(なんて美しいのだろう)


 表紙は本の顔だと言うけれど、これほど美しい刺繍に彩られたこの本は幸せに違いない。


(…………あ、)


 美しい装丁に夢中になっていたことに気づき、慌てて顔を上げた。物思いに耽って周りが見えなくなるのは、幼い頃から指摘されてきたわたしの悪い癖だ。いつもは気をつけているのに、こうして本を前にするとつい忘れてしまう。

 そういうことがこれまでにも度々あったけれど、ウィラクリフ殿下は咎めることも呆れることもなく、いつもわたしの好きなようにさせてくださる。そのことに気づくたびに気をつけようと決意するのに、こうしてまた同じ過ちをくり返してしまった。


(ええと、何の話をしていたんだったか……)


 そうだ、屋敷へいらっしゃる頻度について話していたのだ。


「それでも、頻繁においでいただくのは心苦しく存じます。父も恐れ多いことだと申しております」


 最近では殿下がいらっしゃっても父上が顔を出すことは少なくなった。どうやら殿下が「わたしの都合で来ているのだし挨拶は不要だよ」とおっしゃったようで、今日も最初からわたしがお相手をしている。


「気にすることはないよ。それに、きみは馬車が苦手なのだろう? それなら、わたしがこちらに来るのが一番いい」

「え……?」

「お母上のことは聞き及んでいる。それで馬や馬車が苦手になったとしても仕方がないことだ」


 整えられた殿下の淡い栗色の髪が、ぼんやりとした母上の面影を思い出させて胸がツキリと痛んだ。

 事故に遭ったあの日、わたしは母上と一緒に馬車に乗り、母上の生家が持つ別荘へと向かっていた。通り慣れた馬車道は前日からの大雨で大層ぬかるんでいたようで、途中何度も足止めされたそうだ。それでも引き返すことなく別荘に向かったのは、母上と仲が良かった伯母上の危篤を聞いたからで、少し無理をして馬車を走らせていたのだという。

 そうして崖道を通り抜けようとしたとき、土砂崩れに巻き込まれてしまった。馬車は呆気なく崖の下に落ち、母上はわたしを胸にしっかりと抱きしめたまま亡くなった。

 あの事故で生き残ったのはわたしだけで、五歳の誕生日を迎えた一月ひとつき後のことだった。

 事故の衝撃からか、わたしは大好きだったはずの母上との思い出のほとんどを忘れてしまった。事故を思い出させる馬や馬車も苦手になった。そのせいで遠出することもできなくなり、馬車での訪問が常識である王城や貴族のパーティに参加することがないままこの歳になった。

 勉学が好きだったから学舎には通ったけれど、それも徒歩で通えるところを選んだため貴族より商家や裕福な平民が多い学舎だった。数少ない貴族も徒歩で通うような人がいるわけもなく、徒歩通いのわたしは敬遠されたのか貴族の学友はできなかった。

 そんなわたしの唯一の楽しみは、屋敷に溢れるほどある本だった。本は、馬や馬車に乗らなくても遠い世界のことを教えてくれる。なにより様々な物語は胸を昂らせて飽きることがない。

 事故のことは多くの人たちが知っていたけれど、そのせいでわたしが馬や馬車が苦手になったことは知られていないはずだ。わたしが社交界に姿を見せないのは、事故以来父上が過保護になったからだとか人見知りだからだとか言われているようで、本当の理由は噂にすら上っていない。婚約者だったハルトウィード殿下にもお話したことがなかったのに、ウィラクリフ殿下はどうしてご存知なのだろうか。


「殿下、どうしてそのことをご存じなのでしょうか?」

「大きな事故に遭えば、そういうことも起こり得る。それに遠出が好きなハルトと出掛けたという話を聞いたことがなかったからね、そうではないかと思ったんだ」

「……そうでしたか」

「ハルトは、もう少し相手を慮ることを覚える必要がありそうだ。歳の離れた末っ子というのは甘やかされて育つようで、そういう意味でも弟のことは申し訳なかったと思っている」

「おやめください。殿下に謝っていただくなど恐れ多いことでございます。そもそも、わたしに至らぬところがあったのでしょうし……」

「きみに至らないところなんて何もない。こんなに美しく愛らしいうえに、頭もよく思慮深い。そもそもハルトにはもったいない婚約者殿だったんだ」

「それは、あの、買い被りすぎかと存じます……」


 このようなお世辞にはなんと返事をするのが正しいのだろうか。社交辞令すら経験がないわたしにはうまく受け答えできなかった。

 貴族の間では美辞麗句やお世辞は日常会話なのだと父上に聞いたことがあるけれど、そういう場面に出くわしたことがないわたしは、どう対応すればいいのか見当もつかない。それに相手は王太子殿下でいらっしゃるのだから、下手なお返事をするわけにもいかなかった。

 なにより困るのは、ハルトウィード殿下が悪いのだとウィラクリフ殿下が考えていらっしゃることだ。今回の婚約破棄でご兄弟が不仲になったりでもしたら大変なことになる。


「ハルトウィード殿下には大変よくしていただきました。毎回おいしいお茶やお菓子を頂戴していましたし、多くの衣装を賜りもいたしました。今回のことはわたしが至らなかった結果だと思っております」

「ハルトが贈り物をするのは昔からなんだ。それも自分好みのものを押しつけるばかりで、そういうところは一向に成長しない。まぁ、それでもいいのだとおっしゃる姫君がいるのだから、そういう相手と一緒になるのがハルトにとってもよかったのだろうけれどね。とはいえ、今回のことは本当に申し訳なかった」

「殿下、どうかおやめください」


 婚約破棄されてから二月ふたつきが経った。それなのに、ウィラクリフ殿下はいまだに頻繁に屋敷にいらっしゃっては、つまらないであろうわたしの話し相手までしてくださる。

 父上の話では、陛下やウィラクリフ殿下がハルトウィード殿下のことで大層胸を痛めていらっしゃることは広く知れ渡っているそうだ。はじめはわたしや父上に対するよくない噂もあったそうだけれど、ウィラクリフ殿下が熱心に通ってくださるおかげで、そういった噂話もなくなったと聞いている。

 殿下が最初にお話くださった目論みは、見事叶ったことになる。であれば、忙しいであろう殿下が頻繁に屋敷へいらっしゃる必要は、もうなくなったということだ。

 王太子である殿下が、いつまでもこのような底辺の貴族の屋敷に通っていては外聞もよくない。いくら弟殿下のためとは言え、そろそろやめてもいいのではないだろうか。


「それに殿下、おいでになるのは、どうかもうおやめください。よくない噂は消えたと父からも聞いております。王太子でいらっしゃる殿下がこのようなところへ通い続けては、今度は殿下に対してよくない噂が立ってしまいます」

「わたしは大丈夫だよ。それにわたしは好きでここへ来ているんだ。それは陛下もご存知だし、大方の貴族たちも知っている」

「それは、どういうことでしょうか……?」


 ふわりと笑った殿下に、思わず目を奪われてしまった。惚けたあと、不躾な視線を向けていたことに気づき慌てて目を伏せる。


(無作法にも、殿下をじっと見るなんて……)


 多少なりと親しくさせていただいているとはいえ、格下の自分が殿下を見つめるなんてことがあってはならない。そういった行儀作法はハルトウィード殿下のお妃教育で学んだはずなのに、すっかり忘れて見惚れてしまった。


(……そういえば、ハルトウィード殿下の顔を見つめたことはなかったな)


 見つめる以前に、何を話したのかさえほとんど覚えていない。


(わたしが話すことはほとんどなかったから、覚えていなくても当然か)


 会話と言えばもっぱらハルトウィード殿下がお話くださるばかりで、わたしは相づちを打つだけだった。社交界で話題になっているのだろう話もわからないことが多く、頷くことしかできなかった。せっかく頂戴したお菓子もわたしには甘すぎるものばかりで、いつも少し口にするだけで感想をお伝えすることすらできなかった。


(やはり、わたしはつまらない人間なのだろうな)


 そんなことを思い出していたわたしは、いつの間にか静かになっていた室内に「しまった」と思った。今し方気をつけなければと思ったのに、また考え事に耽ってしまった。

 慌てて視線を上げると、ふわりと微笑む殿下と目が合う。そうして再び見惚れてしまったわたしの耳に、とんでもない言葉が聞こえてきた。


「エルニース殿、わたしと婚約していただけないだろうか」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。奪われていたのは目だけでなく耳もだったのかと思うくらい、殿下の言葉がどこか遠くで聞こえているような気がした。

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