第19話 月下の猟の始まり
夜更け。
そうはいっても、まだ時計の針が頂点を指すには間のある頃合い。
郊外の森に近い道路に二台の車両が停車していた。
道路の片側は森に面しており、反対側は開けた芝生のなかに枝分かれした小道が幾つかの建物に繋がる。独立した平屋ごとに旅行客などが宿泊する型の施設だ。
街の中心からはかなり外れていて、建物の遠方で街明かりの余波が空の闇を和らげている。
喧騒の届かぬ静謐を破るのを嫌うように、そっと車の扉が開かれた。
運転席から降り立ったのはエンパで、扉は閉めずに後部座席の扉を開いた。まず九 紫美が現れ、それからクオンが車外に出てくる。
それにあわせて後ろの車両からもハチロウとエンパの部下達が近寄ってきた。
「あれが巡裁の宿だってことです」
エンパが顎で示す。
「ああ、敵の数は六人。二人ずつ三ヵ所に別れているそうだ」
「それなら私と旦那で片づくわ」
「ええ? あたしは出番無しっつうことですか!」
エンパは声を低めてはいたが語気は強い。
「仕事が無いわけではないわ。あなた達はクオンの警護と相手を逃さないようにしておくことが役目よ」
「でもなあ、せっかくこれを用意してきたってのに」
まだ不満げにエンパが機関銃を掲げてみせる。ここで言い争って相手に襲撃が露見する恐れがあると、九紫美は苛立ったように両目を細めた。
ふと、九紫美がエンパに歩み寄る。
まさか殺されもしないだろうが、思わずエンパは身を固くした。
おもむろに九紫美が顔をエンパのそれに近付ける。
顔を接近させて威嚇のつもりかもしれないが、荒事慣れしているエンパは脅しなど通じないと高を括っていた。
九紫美の表皮がエンパの肌に触れ、そのまま輪郭が溶け合うように顔が埋まっていく。昼間に壁を擦り抜けたときと同じく、物体をものともせず九紫美とエンパの頭部が重なり合った。
「私も不服だけれど、あなたしかいないから頼んでいるの。あなたはクオンを守っていて。でも、もしクオンの身に傷一つでもついていれば……」
半面をエンパの頭部に混ぜ合わせながら九紫美が言う。
エンパは直接鼓膜に声音が響く奇妙な感覚に戦くしかなかった。
「あなたも無事では済まないと思いなさい」
エンパは動けずに九紫美の言葉を聞いているしかない。
「いいこと?」
「……はい」
このときばかりはエンパも素直に首肯した。九紫美が顔を離すと、物理的な拘束が解かれたようにエンパが荒い息を吐く。
「それでは行きましょう。旦那」
振り向いた九紫美は常の無表情で何事もなかったかのようだ。
「うむ。影嬢、俺の方の頼みは聞いてもらえるのかな」
「それは構わないのではなくて?」
「ありがたい」
ハチロウはあらかじめ頼み事をしていたらしく、九紫美はあっさりと許容した。
「何せ、水華王国の武官は剣の修練が必須。聞こえた剣士の輩出国だからな。それも〈巡回裁判所〉となれば、手合わせしてみたい」
ハチロウはいつものように剣を一揺すりし、建物の方に踏み出した。
「クオン、行ってくるわ」
「ああ、無事に帰ってきてくれよ」
一瞬だけ目元に微笑をはくと、九紫美はハチロウの背に従った。
九紫美が見せた穏やかな表情とは反対に、エンパは心中を波立てていた。
何が、無事に、だ。あの化物女が死ぬようなもんか。
そう胸中で吐き捨てていた。
〈巡回裁判所〉審問官のロレンは、二人組で宿の部屋にいた。昼間に各自で調査した結果報告を、上級審問官のリヒャルトの部屋で話し合うことになっている。
一間だけの室内は一組の寝台と冷蔵庫など最低限の家具が揃っており、掃除も行き届いていて宿泊するのに不便は感じない。
「おい、早く行こうぜ。またリヒャルトに嫌味を言われるのはたくさんだ」
ロレンは同僚のリオッツに声をかける。二人とも二十台半ばほどで、長身のロレンに比べてリオッツは小柄な男である。
「まあ、これだけ飲んでから行きますよ」
寝台の端に腰かけるリオッツは慌てることもなく缶の酒を呷って応じた。
ロレンは上官であるリヒャルトの小言がよほどに厭なのか、寝台に立てかけてあった剣を腰に差すと、その場に立ってリオッツを待った。
そのとき、外から扉が叩かれる音が部屋に響く。
「ほら。リヒャルトが痺れを切らしたぞ」
ロレンが扉を開くと、そこに立っていたのは見慣れぬ壮年の男だった。
ロレンが戸惑ったのはほんの刹那。男が帯剣していると知り、後方に飛び退きながら剣を引き抜く。
ロレンが後退したのに乗じて男が室内に踏み込んだ。
さすがに〈巡回裁判所〉の一員だけあって、それまで酒を飲んでいたリオッツが瞬時に反応、缶を男に投げ打ちながら胸元の拳銃に手を伸ばす。
缶を避けるか防ぐかして生じるはずの男の隙を突こうとしたリオッツの目論見は外れた。
男は即座に長脇差を抜くとそれをリオッツに投擲する。刃は缶を貫通しながら飛来し、そのままリオッツの胸板を突き刺した。
リオッツが声もなく寝台の後ろに転げ落ちる。一隊のなかでもっとも射撃に長じたリオッツが手もなく討ち取られ、ロレンが息を呑んだ。
「来い、若いの」
男が挑発するように両腕を開いて無防備な姿勢をとっとみせる。
ロレンは同僚に危機を告げようともしたが、敵はロレンの呼吸を計っており、大声を出そうとロレンが息を吸えばその瞬間に牙を剥くのは必至だった。
ロレンにも審問官としての意地がある。徒手の相手に引けをとるのは、王国選り抜きの剣士としての自負が許さない。
鋭く息を吐きながらロレンが剣を振り下ろす。
直撃すれば頭頂から胸までは真っ二つになるほどの強烈で、それでいて躱す暇もない斬撃。
凡庸な剣士ならば血塗れになって崩れ落ちる攻撃を、男は右半身になりつつ上体を沈めて回避していた。
男と擦れ違ったロレンが胸部に激痛を感じ、身体の内側から噴き上げる苦痛とともに血の泡を吐き出す。
呆然とロレンが振り返ると、男の右手は手刀の形になっている。
「拙いな」
そう吐き捨てて向き直った男の姿に、ロレンは自身の生命の終焉を見出した。
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