名前のない少年

「君は絵が上手だね」

 アジア某国のスラム街。路地裏には身寄りのない子供が集まって、力を合わせて暮らしている。

 ある日現れた日本人の初老の男は、地面に絵を描いていた少年に声をかけた。

「君には才能があるよ。名前はなんていうんだい?」

 少年に名前はない。生まれてすぐに捨てられたからだ。彼は仲間内で呼ばれていたニックネームを告げた。現地の言葉で「ダニ」という意味の語にすぎず、それは彼の名前でこそなかったけれど。

 初老の男は、定年退職後に絵を始めたと話す。彼は滞在中のホテルに少年を招いて、買ったはいいが使いこなせない油絵の画材を自由に使わせた。

 今思えば、あれは時間を持て余した男の気まぐれだったのだろう。

 少年は自分が育ったスラム街の絵を描いた。仲間の顔も、よく遊ぶ猫も、好きな缶詰も、好き放題に描かせてもらった。初老の男は少年の絵を気に入って、国に持ち帰った。

 その数ヶ月後。初老の男がまた訪ねてくる。

「君の才能は本物だったよ」

 彼は少年に何枚もの絵を描かせた。何度も訪れて、絵を持ち帰り、やがて少年そのものを国へ連れて帰った。少年を連れて世界を旅して、その先々で彼の育ったような貧困街の絵を描かせた。

 少年は彼のアトリエで、そして旅先で、絵を描き続けた。自分の絵が「藍沢孝介」という作者名で出回っていることは気づいていたが、この環境で絵を描かせてもらえるのならばそんなことはどうでもよかった。少年が絵を描けば、初老の男の名前で売れる。売れれば男の羽振りが良くなって、少年も画材を買ってもらえた。

 ただし、初老の男は少年の存在をひた隠しにしてきた。絵の本当の作者が間違っても明るみに出ないよう、彼そのものを隠し続けた。


 少年が十八歳になった頃。応接室に自分と同じくらいの女学生が訪ねてきて、初老の男に絵を見せていた。

「私に絵の才能はありますか。もしもこの絵に魅力があれば、私は『世界のアイザワに認められた』と、家族に言えます。そうすれば、私は画家を志すことができます。でも、この絵を評価してもらえなければ、画家の夢を諦めます」

 廊下から見ていた少年は、そのキャンバスに目を奪われた。

 蒼い、碧い、青い。一面の、青いネモフィラ。なんて美しい。

 しかし対面していた男は、首を横に振る。女学生は素直に頭を下げて、絵を置いて帰った。

 そして、少年と初老の男が出会って、十年が経った頃。少年の絵は人気が落ち、男は金の入りが悪くなった。

 最初は、ただ絵描きの少年に絵を描かせてやりたかっただけ。でも今の彼にとっては、地位と名声と富を運んでこない少年に価値はない。

 男は、過去に置き去りにされたネモフィラの絵に自分のサインを入れた。この美しい青を、自分の名前で売り出すために――。

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