天空の破片

植原翠/授賞&重版

青い写真

 蒼い、碧い、青い。

 病院の天井は白いのに、僕の頭の中では延々とそれが繰り返されていた。蒼い、碧い、青い。

「まだなにも思い出さないか」

 ベッドから天井を見上げる僕に、隣に立つ男がぼやく。ベッドの上で体をよじると、体の節々がずきっと痛んだ。

 僕だって思い出したい。自分の名前くらい。

「それじゃアオイくん、今日はこれを見てもらおうか」

 男が鞄から封筒を取り出す。

 彼、広海ひろみ清志郎きよしろうはベテラン刑事である。封筒から取り出されたのは、青い海と白い砂浜の爽やかな写真だった。

「隣の県のビーチの写真だ。君の『青』はこれかい」

 僕は布団の上に置かれた写真を、しばし見つめた。

 青い。青いけれど、この青は違う。ふるふると首を振って、こたえる。

「いえ……違います」


 絵画の巨匠、藍沢孝介が殺された。享年、七十五歳。

 藍沢は、煤けた茶色を使用して海外の貧困地域を描くのを得意とする油彩画家である。そのノスタルジックな作風は世界各地で高い人気を誇り、「世界のアイザワ」と呼ばれ彼の絵はセレブの間で高額で取引されている。

 その藍沢が、自宅兼アトリエの豪邸のリビングで、背中を刺されて死んでいるのが見つかった。

 僕は、この事件の重要参考人である。彼の死体と同じ部屋で、頭から大量の血を流して意識を失っている状態で発見されたからだ。頭部を殴打した凶器は、彼の部屋にあった世界的な絵画コンテストのトロフィー。

 僕は藍沢が殺された時点でその場に居合わせた可能性が高く、僕自身が彼を殺したと考えられる。自分が人殺しだなんて信じたくないが、現場の状況からすると有り得なくもない。例えば僕が藍沢を背後から刃物で刺し、死んだと思われた藍沢はまだ息があり、僕が油断している隙にトロフィーで殴った、とか。トロフィーは僕から溢れ出た血液で浸されてしまって指紋が取れなかったらしいが、今のところこの説が有力だ。

 当事者であるはずの僕がこんな曖昧な表現をするのは他でもない。僕には記憶がないのである。藍沢を殺した記憶がない、なんて生ぬるいものではない。自分に関する全ての記憶が抹消されているのだ。

 僕の所持品に個人を特定するものはなかった。年齢は大体二十代くらいと推定されているが、それすらあやふやである。

 目を覚ましたら、僕はこの病室にいた。意識が戻った日から三日目の今日も、なにも思い出せずにいる。

 自分の名前さえも分からなかった僕に、この刑事、広海さんは「アオイくん」という仮名をつけた。僕が目を覚ましたとき、最初に「青い」と呟いたから、「アオイ」なのだという。

「やはり思い出さないか」

 広海さんがため息をつく。

 病室は殺風景だ。白い天井に白い壁、白いベッドの個室である。一応家具は一式あるが、身元不明の僕には荷物などなく、中は殆ど空といっていい。必要最低限の着替えが用意されているだけだ。

 僕は人を殺した可能性が高く、精神鑑定の結果も出ていない。状況によっては手錠を嵌められることもあった。病室を出るときは刑事が同行する。正直言って、こんなことをされなくても人を襲う余裕なんかない。自分自身を思い出せない戸惑いでいっぱいいっぱいだ。

「せめて、アオイくんの記憶に引っかかるなにかが分かれば、足掛かりになるかもしれないのにな」

 広海さんが写真を持って僕から離れる。そして僕の正面にあたる壁に、海の写真を画鋲でぷすりと刺した。

 蒼い、碧い、青い。僕はまた、頭の中で繰り返す。繰り返そうとしなくても、脳が勝手にそう歌い出すのだ。

 真正面の真っ白な壁には、青い花、青い国旗、青い水槽、青い鳥。青い写真が、びっしり貼り付けられている。これらは全て、広海さんが集めてきた写真である。インターネットで拾ったものから、彼自身が撮った写真もあり、様々だ。

 僕の頭には、なぜだか「青い」というキーワードだけが頭の中を延々と回り続けている。記憶を全てなくしてしまったが、“青いなにか”が引っ掛かっているのはたしかなのだ。

 それを聞いてから、広海さんは毎日こうして僕に青い写真を見せに来る。「青い」は僕の中に唯一残っている記憶。青いなにかは、僕の記憶を呼び戻すヒントなのだ。

 僕の枕元には、殺された藍沢の画集がある。これも広海さんが持ってきてくれたものだ。

 話に聞いていたとおり、アジアや中東をメインに世界の貧困街を描いたものばかりである。無表情の子供や細い路地が、こってりとした茶色の絵の具で厚く塗られて、物悲しさと同時に力強さを感じた。藍沢は子供たちに同情していたのか、それとも、ここで生きる子供たちに強さを感じていたのか。

 巻末の解説によると、藍沢が画家として名声を得たのは彼が五十代後半からだそうだ。それまでも彼は日本にいることは殆どなく、世界各地の貧困地域を旅していた。若い頃からそうしていたためか、結婚もせず家族はいない。謎めいた人物ではあるが、ある種一本筋の通った印象だった。

 カチャリと、ドアノブが回る。

「広海さん。単独では行動しないルールでしょう」

 入ってきたのは、冴島さえじま瑠璃子るりこだ。手にはコンビニの袋を吊り下げている。

 彼女は僕と同じくらいと思しき若い女で、広海さんの部下である。

「アオイくん、お菓子を買ってきました。食べられますか?」

「ありがとうございます」

 コンビニの袋が、布団の上に置かれた。小さなショートケーキがひとつ、袋の口から覗いている。

 僕を気遣う彼女に、広海さんはマイペースに喋った。

「聞いてくれ瑠璃子くん。これだけの写真を見せてもアオイくんはなんの記憶も戻らない。他の方法を考えた方がいいかもしれんぞ」

 言ってから、彼は自分で否定しはじめる。

「しかし記憶を戻す具体的な方法なんてあるだろうか。DNAは過去の犯罪歴には一致しなかったし、なぜかアオイくんの家族や会社からの捜索願らしき情報もない。一体、何者なんだ」

 どうやら僕は、誰からも捜されない存在のようだ。

 僕はちらりと、冴島さんの顔を窺い見た。にっこりと静かな微笑を浮かべている。

 思い起こすのは、僕が目を覚ました日。あの日冴島さんは、広海さんがいなくなった途端、僕に秘密の約束を迫った。

「なにか思い出しても、絶対に黙っていてください」と。


 三日前。

「青い」というキーワードが出て、広海さんはすぐに、僕に青いものを見せて記憶を戻す捜査を思いついた。冴島さんはそれに賛同したように見えたが、広海さんが席を外すなり、例の「約束」を呈してきた。

「私は、あなたが無罪であると考えているんです。あなたはあの現場に居合わせて藍沢先生と一緒に攻撃された被害者で、藍沢先生と同時にあなたを殺そうとした、真犯人が別にいるはず」

 少し早口に、それでいて落ち着いた口調だった。

「広海さんはアオイくんが犯人であると疑っています。あなたが“青いなにか”を思い出して迂闊に不都合なことを口走れば、容疑はより深くなりかねない。私はあなたが無罪である証拠を探しますから、あなたは余計なことは喋らず、たとえ“青いなにか”を思い出しても、なにも知らない振りをし続けて時間を稼いでください」


 幸か不幸か、僕は振りではなく、実際になにも思い出していない。捜査はなかなか進展しない。僕は病院に閉じ込められているままで、容疑は晴れなければいつまでもこうして、目の前に青い写真を打ち付けられていく。

 僕は白い壁を彩る青色を見つめた。全て統一して青い写真なのだが、どれも色彩が違う。ひと口に青と言っても、明るい青もあれば暗い青もあり、浅い青も、深い青も、鮮やかな青も、くすんだ青もある。

「青って、絵画の世界では少し特別な立ち位置にありますよね」

 僕が呟くと、広海さんと冴島さんはきょとんとした顔で僕を見た。僕はふたりを一瞥し、また写真を注視する。

「ほら、フェルメールブルーとか、ヒロシゲブルーとかホクサイブルーとか……」

 画家、フェルメールが愛したウルトラマリンブルーの絵の具は、ラピスラズリという鉱石から作られている。「天空の破片」の異名を持つ、美しい石だ。その石が貴重だったことからウルトラマリンブルーは他の絵の具よりずっと高価だった。だがフェルメールは惜しみなくこの絵の具を使用したという。故に、あの美しい青色は「フェルメールブルー」と呼ばれるようになった。

 日本画においても、深い藍色は世界的に高く評価された。歌川広重や葛飾北斎の名のついた青が広く轟く。

 青は人を魅了する。国境を越え、時代を超え、人々を虜にする。

 冴島さんが目をぱちくりさせた。

「よくご存知ですね。自分の記憶はないのに」

「本当だ。こんなことは、知識として覚えてるんですね。僕はなにか絵に携わる仕事をしていたのかな」

 自分のことなのに、僕は他人事みたいに驚いた。広海さんが呆れ顔をする。

「そうだろうよ。画家の藍沢先生のご自宅にいたくらいだからな」

「あっ、そっか」

「そうだろうと思ってな、今日はもう一枚ある」

 マイペースな広海さんは、ゴソゴソと鞄を漁り出して別の封筒を取り出した。出てきたのは、一枚の写真。また、青い写真だ。

 だが、壁に貼られたいつもの写真とは、少し違う。

「これは藍沢先生の部屋にあった、油絵を写したものだ」

 広海さんがそう言ったのは、透き通るような高い青空と、深く、それでいて爽やかなブルーのネモフィラ畑の絵だった。

「アオイくんの記憶に残っている“青いなにか”は、もしかしたら殺された藍沢先生の絵じゃないかと思ってね。藍沢先生はセピアを基調とした街の絵ばかりで青を使ったものは少なかったんだが、ひとつだけ、この絵だけは違った。茨城のネモフィラ畑を描いたもののようだ」

「へえ。なんだか、藍沢先生らしくない絵ですね」

 画集で知った彼の絵とは、随分趣きが違う。あの力強い物悲しさはなく、この絵は淡く繊細で脆く、そして凛としている。

 広海さんは困惑顔で頭を掻いた。

「俺は絵に疎いもんだから、分からんがなあ。画家もたまには違う雰囲気の絵を描きたくなることくらいあるんじゃないかね」

「これ、本当に藍沢先生の絵なんでしょうか? 別の画家の作品が部屋にあっただけなのでは?」

「それはない。右下に彼のサインがある」

 広海さんが言うとおり、キャンバスの隅っこに筆記体で書かれた藍沢の名前があった。ならば、広海さんが言うように心境の変化としか捉えようがない。

 広海さんが僕に回答を促す。

「なんで絵柄が変わったかは、今は関係ないんじゃないか。それよりこの絵は、君の記憶と関係ありそうかい?」

「これまでの写真より、引きつけられます。なにか思い出すかも……。不自然すぎる。これ、同じ作者の絵とは思えない」

 僕が作風の違いに気を取られてばかりいると、広海さんは痺れを切らして話し出した。

「絵柄が急変したのは、藍沢先生自身が変えようとして変わったんだろう。なにせ彼の絵は、近頃、値が落ちはじめていたから」

「えっ、そうなんですか?」

 顔を上げると、広海さんは頷いた。

「聞き込みで明らかになってきたんだが、世相の変化で彼の作品のような現実主義な絵はウケが悪くなってきたそうだ。そこで藍沢先生は、一発逆転を狙って作風をガラッと変えた。著名な画家が作風を変えれば注目が集まる」

「そうか、そういう戦略だったんですね」

「絵画界では既に、この美しく澄んだネモフィラの紫がかったブルーを、藍沢先生のファーストネームに由来して『コウスケブルー』と名付けているのだとか。そこで、ここからは俺の仮説だが……」

 広海さんはそこでひとつ、咳払いをした。

「例えば、君、アオイくんが画商だったとする。そしてこのコウスケブルーのネモフィラの絵を買い取ろうとした。しかし交渉中にトラブルが発生した。なんとしてでも絵画を手元に置く必要があったアオイくんは、藍沢先生を殺し、契約書に彼の判を自らの手で押して絵を持ち帰ろうとした。しかし藍沢先生はまだ生きており、絵を取りに行くアオイくんを殴って相打ちに。とか」

「はあ」

 全く思い出せない僕は、自分が犯人の推理を聞いても他人事に聞こえた。

「或いは、アオイくんは藍沢先生の個展を企画する担当者で、展示や予算なんかの関係でこれまたトラブルになったのかもしれない」

 なるほど。いずれにせよ僕は藍沢先生と取引する立場で、折り合いが悪くなったのが理由で彼を殺したというわけだ。それなら僕が彼の部屋にいたことも、僕に多少絵の知識があるのも辻褄が合う。家族がいなくて、そして画商やイベント業を個人で運営していたのならば、捜索の声が上がらないこともありうる。

 僕ははあ、と口から空気が抜けるような相槌を打ち、それから首を傾げた。

「そうなんでしょうか?」

 自分が犯人である仮説に納得しつつも、ちょっと腑に落ちない部分もある。広海さんは僕の煮えきらない態度に、諦めのようなため息をついた。

「だよなあ。『お前が殺したんだ』と仮説を立てられて、『はいそうです』とはなかなか言わんな。たとえ、本当は記憶があったとしても」

「僕に記憶がないというの自体、嘘だと思ってるんですか?」

 思わず噛み付くと、広海さんは面倒くさそうに身を引っ込めた。

「いくらでもどうとでも言えるからな。ま、真相は俺が突き止めるさ」

 広海さんがネモフィラの絵の写真を、壁に当てて画鋲で刺した。僕はそのくたびれた後ろ姿を睨む。冴島さんが言っていたとおり、広海さんは僕を犯人だと仮定している様子だ。

「僕も藍沢先生と一緒に、第三者に殺されそうになったのかもしれないじゃないですか」

 僕は広海さんの背中に向かって反論した。

「たとえば僕は藍沢先生の弟子で、藍沢先生と取引に来た人が藍沢先生を殺したのを目撃し、口封じのために殺されそうになった」

「藍沢先生は弟子をとらなかった。弟子入りしようとして訪ねてくる者はいたそうだがな。全部断っていたそうだ」

 広海さんは自分で貼った青い写真の群れを眺めている。

 なんだろう。すごく胸がむかむかする。なぜだか無性に虚しくて、悔しくて、胸糞悪い。

「……僕が犯人なら罪を償います。必ず、真相を突き止めてくださいね」

 僅かな反抗を込めて、それだけ言った。広海さんは冷めた目で僕をちらと見て、無言で病室を後にした。

 僕は大きく息をついて、黙っていた冴島さんを振り向く。

「やっぱり僕を犯人扱いですね」

 冴島さんは無言で広海さんの出ていったドアを見据えていた。僕は勝手に続ける。

「こんなこと言っても無駄だと分かってますけど、このネモフィラの絵は他の絵と作者が違うって、僕にはなんとなく分かるんですよ。貫いているものというか、勝負したい部分というか、メッセージというか、そういうものが根本的に違……」

 ダンッと、真横で大きな音がした。

 思わず言葉を切って、冴島さんを見る。彼女の拳が、僕の布団に置かれていたケーキに振り下ろされていた。

「思い出しても黙っていてと、約束したじゃないですか」

 発された彼女の声は、酷く深く、抉るように重かった。

「冴島さ……」

 冴島さんはベッドの横のクローゼットを開けると、中からバスタオルを取り出した。それをくるくると絞って細長いロープ状にしたかと思うと、躊躇なく僕の喉へと押し当てた。

 顎の下にくい込んだ固いバスタオルが、頸動脈を締め付ける。なぜだか、抵抗できなかった。僕の目を覗き込む冴島さんの瞳が、燃えて見える。熱いのに冷たい。恐ろしいのに美しい。冷酷で、孤独で、それでいてとても澄んでいる……。

 なぜだか、この感情に色があるとしたら、青だと思った。蒼い、碧い、青い。揺らめくように彩度を変え、僕の記憶に色を落としていく。

「残念です。私、あなたの絵は好きだったのに」

 脳の感覚が遠のいていくさなかに、彼女がそう言ったのが聞こえた。その瞬間、僕の脳裏に突如、五十代程のおじさんの笑顔が映った。

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