第7話 スタンドバイミー

「宮崎と別れてる!?」


私を自転車に乗せながら、伊織が驚いたようにそう口にした。

人を後ろに乗せたことがないのか、随分と頼りなく自転車が進んでく。


「やっぱり、あの時私の話聞いてなかったんだね」

「あ、ああ。悪い。ちょっと動揺してて」


周りにはしばらくまだ付き合ってるって事にしないと世間体的にまずかったからそうしてるだけで、

きっぱり宮崎くんには別れを告げたって伊織にはちゃんと話していた。


なのに本人はその時、別のことに気を取られてたように見えた。


「みゆきちゃんとのラインに夢中だったの間違いじゃないの?」

「い、いや違う。本当に混乱してたんだ」

「どうだか」


伊織が困ったように後頭部をさすってる。

その姿が可愛くて、つい意地悪をしたくなる。


学校を抜け出してから、三十分ぐらいたったのかな。

行き先は特に決めていない。

伊織と一緒なら、どこでもいい。


無防備な彼の背中に抱きつき、体を預けた。

好きな人の匂いがする。


「絵理?」

「ふらふらしてるから、しっかり掴んでおかないと」

「余計危ない気が...」

「じゃあ、離れる?」

「いや、そのままで」


私の好意を、それ以上の好意で返される喜びに頬が緩んでしまう。


風の心地よさ。

太陽の温かさ。

鼓動の高鳴り。

背中越しから伝わる彼のぬくもり。


私は、この時この瞬間を、生涯忘れない。



☆ ☆ ☆


「絵理、海が見える」

「本当だね。綺麗」


しばらく自転車を進めると、いつのまにか海が見える場所まで来てた。

自転車を駐輪所へ止めて、二人で砂浜まで歩く。

だけど、伊織の歩き方がおかしかった。


「ふらふらだね。普段運動してないでしょ?」

「久しぶりに重労働したからかな」

「私が重いって言いたいの?」

「そんなことは言ってない。ただ、自転車がパンクしなかったのが奇跡だとは思ってる」


砂を手に取り、伊織の制服の中にたっぷり入れてやった。


「や、やめろ。あー、服の中が気持ち悪い」

「自業自得だよ?」

「ほお、なら俺が同じ事をしても自業自得なんだな?」

「ちょ、ちょっと伊織?」


伊織が砂じゃなく、泥を持ってこっちに近づいてくる。

あれを制服の中に入れられたらただでは済まない。

この人ならやりかねない。

全力で、逃げることにした。


「待て、絵理!泥には美肌効果があるんだぞ?」

「だからって、服の中に入れられたいとはならないよ!」


砂浜を蹴り上げ、彼から逃げているうちに自然と笑いが込み上げてくる。

何が面白いのかわからないけど、私たちはただひたすらに笑い声を上げていた。


「ぐふっ!」


伊織が手に持った泥を落としながら、盛大に砂浜の上でこけた。


「バチが当たったんだよ?」

「くそー。絵理、ちょっと手を貸してくれ」

「はいはい、ってちょっと!」


手を差し伸ばすと、彼がその手を引っ張り私を砂浜に巻き込んだ。

伊織に抱きつかれ、砂浜の上で転がされ、二人して砂まみれとなってしまった。


「顔に砂が付いてるよ?」

「伊織のせいでしょ?取ってよ」

「お、俺が取るのか」

「早く」


遠慮がちな彼の手が、私の顔に触れる。

優しく輪郭をなぞるように、砂を落としてくれている。

恥ずかしいのか、目は合わせてはくれない。


「ねえ、伊織」

「うん?」

「私の目を見て」

「あ、ああ」


ゆっくりと視線を上げていき、時間はかかったけど目が合った。


胸が高鳴る。


やっぱり、伊織のことが好き。


私は静かに、目を閉じた。


海の波の音が、さっきよりも鮮明に聞こえる。


温かく、柔らかい、そして、砂で少しざらついてる感触を、唇に感じる。


胸の内から湧き上がる感情が、涙腺を脆くさせた。


私は、伊織とキスをした。


☆ ☆ ☆


「結構、暗くなってきたな」

「うん、そうだね」


海風が冷たくなってきた。

日も時期に沈む。


それでも俺たちは、変わらず海を見続けた。

波が引いては押し寄せる。

肩越しに感じる彼女の感触に、心が落ち着く。


「あっ」

「どうした?絵理」

「お母さんに何も言ってない事を思い出して」

「たしかに、俺も家に何も言ってないな」


そろそろ帰ろう。

その一言が引っかかって中々出てこないでいる。


「今日は帰らないってライン送っとこ」

「え...?」

「なに?」

「い、いや。俺もそう伝えよう」

「うん」


そう言い、俺に体を預けながらラインを打ち込む彼女。

同じ気持ちだった。

それだけで、なんでこんなにも嬉しいんだ。


「もしもし兄ちゃん?今どこ?」

「今、海にいる」

「海!?なんで?」

「自分の中の空気を読まなかったらこうなった」

「はぁ、なるほどね。お母さんには今日は友達の家に泊まってるって伝えておくよ」

「頼む沙織」

「まあ、なに。良かったね兄ちゃん。んじゃ」


通話終了の通知音が鳴る。


「妹?昨日すれ違った!可愛かったなぁ」

「ああ。俺にはもったいない、よく出来たやつでさ」

「伊織のそんな顔、初めて見た。お兄ちゃんなんだね」

「ふっ、からかうなよ」


寄り添う彼女の肩を抱き寄せた。

こんな時間がずっと続けばいいと、今日何回思わされたことか。


この愛以外、俺はもう何もいらない。


茜色の水平線を眺めながら、


そんな事を思ったりした。


☆ ☆ ☆


「バレたら怒られるね」

「でも、こんな所があってラッキーだった」


海のそばに、使われていない小屋を見つけそこで夜が明くまで過ごすことにした。

多少のお金があったから、コンビニでおにぎり数個とパンを買った。


「どれ食べたい?」

「ツナマヨ一択だな」

「えー、私もそれ食べたい!」

「じゃ、鮭にしようかな」

「そう言われたら、鮭も食べたくなってきた」

「デブ」

「あ?」

「い、いや。食欲旺盛で可愛いなーって」

「本当にそう思ってる?」

「いや全然」

「バカ」


そう言って、彼女がそっぽを向いた。

ツナマヨのおにぎりの包みを剥がし、二つに分け彼女に差し出した。


「なんで大きい方を渡してくるの?やっぱり私のことデブだ...」

「好きだから」

「あ、う...うん。ありがとう」


そう言って、顔を赤らめておにぎりを食べる彼女を見ているだけで満たされる。


「ツナマヨ美味しいね」

「ふふ、そうだな」

「なに笑ってるの?どうせ食欲旺盛な女ですよ」

「いや、ただ絵理と出会えて良かったなって、そう思って。ただ、幸せだって思っただけだ」


絵理のそばで食べるおにぎりが、この世で一番美味いものだったなんて、知りもしなかった。


これも全ては、あの日彼女に出会えたから手に入れたもので、だからただ単に感謝するしかなくて。


「私だって、伊織に出会えて良かったって思ってるよ。もし、出会えていなかったら、こんな気持ち知ることなんてできなかった」

「そんなことないよ。絵理ならきっと出来てた。臆病で、弱くて、卑怯なところもあるけど、最後の最後には自分の正しさを貫く強さがある人だから。そんな君だから、俺は無性に憧れたんだ」


彼女の場合は、遠回りするかしないかだけの差だ。

芯の部分では、正しさを持った人だから。


それは、俺が逆立ちをしても一生手に入らないものだけど。

でも、真似ぐらいならできると思ってはいる。


「憧れ?伊織が私に?」

「実は俺たちが初めて出会ったのは、高校からじゃないんだ。絵理は絶対に覚えてはいないけど、中学二年の時に一瞬すれ違ったことがある」

「ご、ごめん。覚えてない。その時私、周りを見てる余裕がなくて...」

「そうだったんだろうなって思ったよ。それは表情から読み取れていた」

「ひ、ひどい顔だったでしょ?あはは、忘れてね」

「忘れねえよ。ずっと忘れない」


忘れられる訳がない。


「伊織...?」

「だって、俺はあの眼差しに、心底惚れたんだから」

「あの時の私に...?」

「どんな環境でも、自分の正しさを信じ抜く強さをあの瞳に教えてもらったんだ。あの日からずっと、俺はその瞳に映れる自分になろうって思って、今日まで生きてきた」


その瞳から、涙が溢れてはこぼれていく。


「え、絵理?」

「だ、大丈夫!大丈夫だから...」


小刻みに震える彼女の肩を抱き寄せ、髪を撫でた。


大丈夫な人は、大丈夫なんて言わないだろ。


過去の彼女に何かあった。


ずっと引っ掛かっていた事だが、今はそれを知らないことが、なによりもどかしい。


☆ ☆ ☆


「私、中学の時皆から無視されてさ、孤立してた」


絵理は少し落ち着いたのか、ありがとうと言った後、俺から離れ、自分のことを語り始めてくれた。


親友だった原ちゃんを庇って、クラスの目立つ子に目をつけられ、その日から無視が始まったこと。

先生を頼ってもあしらわれ、母親には頼ることもできず、あまつさえその親友からも見放されたこと。


その去り際のセリフが、空気を読んでさえいれば、お前はそうはならなかった。


「私は自分を恨んだ。バカで、偽善的で、空気が読めない最低な自分を」


絵理は意外にも、淡々と話している。

彼女はそんなに強くはない。

もっと取り乱したり、動揺するものだと思っていた。


「あの頃の自分が、私は大っ嫌いだった。蓋をして、二度と開く事のない過去にして、生まれ変わろうって思ったんだ」


高校が同じだと知り、俺は高鳴る胸を抑えきれなかった。

中学が違うから、もう二度と会えないと思っていたから。


嬉しくてしょうがなかったが、実際に会って愕然とした。

その姿が、あの日とはまるで別人のようで。

その理由を、今やっとで知ることができた。


「だけど、過去の自分に蓋をすればするほど、すごく胸が苦しくなった。あの頃の自分はいないって思おうとするほど、毎日が少しずつ楽しくなくなっていったんだ」


過去でも、自分は自分だから。

否定すればするほど苦しくなって、いつのまにか今の自分まで嫌いになっていく。


彼女は、そんな状態の中で過ごしていたらしい。

ずっと見てきたつもりだったが、俺は彼女のことどれほど知っているというのか。

それなのに、軽々しく好きなんて言っていいのか。

そう思わずには、いられなかった。


「だけど、伊織がその苦しさを取り除いてくれたんだよ」

「俺が...?」


俺は嫌というほど、自分のことしか考えられずに生きてきた。

彼女に何かした覚えなんて、本当に一つもない。


「嫌いだった自分を肯定してくれたのは伊織、君なんだよ?」


絵理は潤んだ瞳で、俺の手を握りそう言った。


「私、本当はずっと、ずっと自分のしたことは間違いなんかじゃないって誰かに言って欲しかった。本当は自分を嫌いになんて、なりたくなかった!」

「絵理...」

「伊織はわかってない!私がどれほど君の言葉に、行動に、存在に救われたか。全然わかってないよ...」


救われた。

彼女はたしかに、そう言った。

俺の手のひらの上には、もう一つの手のひらが乗っていた。


がむしゃらに暗闇を突き進んだ。

道標を失っても、あの頃の自分の衝動を信じて進み続けた。


いつか、誰かを救えるほどの強さを持つために。


だけどどうやら、


俺はいつの間にかもう、そうなれていたらしい。


もしそうなら、


嬉しい。


本当に。


「伊織がいなかったら、私...」

「俺こそ、絵理がいたから...」


引き合うように、互いを求め、抱き合った。

視界が霞む。


泣くのなんて、いつ以来だろう。


彼女の温もりと香りに包まれながら、そう思った。


☆ ☆ ☆


「おはよう、伊織」

「う、うん。おはよ...」


あの後、夜が明けるまでお互いのことを語り合った。

生まれた日から現在に至るまで、互いに知っていることの全てを。

飽きることもなく、ずっと語り合い、気がつけば体を寄せ合いながら眠りについた。


「制服がヨレヨレだ」

「私も。って、伊織はもともと制服が所々崩れてる」

「ワイルド系って言ってくれ」

「だらしないだけだよ。ボタンも取れてるし、後でそれ渡してね」

「いいよ。そんぐらい」

「私が、伊織の制服のボタンを直したいの」


物好きなやつだと思いながら、後で渡すと伝え、居座っていた小屋から出た。


「いい天気だね」

「そうだな。綺麗な空だ」


本日も晴天。

昼前の海風が清々しく、顔を通り抜けた。


俺たちは、学校に戻らなければならない。


「そろそろ、戻らないとね」

「あ、ああ。そうだな」


俺たちは、そろそろ戻らなければならない。


俺たちは、他人に戻らなければならない。


「俺さ、この日のこと一生忘れないから」

「うん。私も」


砂浜を歩き、来た道を戻り駐輪場へ向かう。


絵理の顔を見る。


見たところで、何を考えているのかなんてわかりもしないのに。


進んでいると、砂浜からアスファルトに切り替わる直前ところで足が勝手に止まり、


彼女は軽々とアスファルトへ乗り移った。


「伊織...?」


結局、現実逃避は現実逃避でしかなかった。


互いのことを知ったところで、何かが変わる訳でもなかった。


俺たちの関係は昨日と同じ。


ただの他人だ。


学校へ戻ったら、また絵理は宮崎と付き合っていることになっているし、


俺はクラス中の嫌われ者で、


まともに彼女と話をすることも許されなくなる。


人というのは、なんて強欲な生き物なんだろう。


「ごめん、佐々木。俺の自転車を使って、先に帰ってくれ」


俺は自転車の鍵を彼女に手渡しながら、そう言った。


「え?どうしたの、伊お...」

「頼む...。行ってくれ」


もう今更、ここから動ける気がしない。


気丈に振る舞ったところで、俺の根っこの部分は佐々木とは違う。


弱くて、どうしようも無く脆い。


ここでの幸せを知った以上、もうあそこへは戻れる気がしない。


もう耐えられない。


「わかった。田仲くんがそう言うなら、そうする」


少し怒っているのか、声に棘を含ませながらそう口にする。


自転車の鍵を開け、それにまたがった。


俺は未だ、砂浜の上に立ったままだ。


「気をつけて」

「うるさい」


そう言って、ドリフトをするように自転車の後部車輪を俺に勢いよく向けてきた。


「お、おい!」


そして、俺の制服を無理やり引っ張り、自転車の荷台まで引っ張り上げ、自転車を走らせた。


「ちょ、ちょっと待て...」

「待たない!ってか動かないで。転んだら怪我するから」


佐々木に怪我をさせられない以上、無理にここから降りる事もできはしない。


「俺はもう...」

「私は田仲くんに付いて行った!なのに、私には付いてこないの?」


必死に自転車を漕ぎながら、彼女がそう言い放った。


「佐々木、俺はもう戻りたくないんだ。お前と話もできないあんなところなんて...」

「そんなの、私だって同じだよ!でも、あそこに残ったってそれは一緒でしょ!?」

「そ、そうだけど...」


逃げて何か解決するとは思ってはいない。

ただ、この想いの分だけの傷を受ける場所にはとてもじゃないけど、行こうと言う気にはなれそうもない。

怖くて、仕方がない。




「どんなところでも、二人でならきっと楽しいよ伊織...」




彼女の不安、背中越しでも伝わる。


震えた声色。


その悲しみ。



どうやら、それらが一番俺にとって苦しいものらしい。


「何とかしてよ伊織。逃げないで、助けてよ...」


俺はとんでもないバカだ。


あの砂浜にいたら、そんな彼女の苦悩を知ることも、


手を差し伸べることもできはしなかった。


「自転車を止めてくれ」

「やだ!また逃げる気...」

「もう、逃げないよ絵理」


ブレーキ音と共に、ふらついていた自転車が止まる。

自転車から降りて、


涙を流し、下を向く彼女の顔を優しく持ち上げ


唇を重ねた。


「ひどい顔だ」

「誰のせいだって思ってるの...」

「ごめん絵理。ありがとう。俺が絶対に何とかするから。だから、それまで待ってくれないか?」

「あんまり待たせたら、私が伊織のそばに行くからね?二人で教室でチョコフォンデュを食べるの」

「あはは、それも悪くはねえなぁ」


本当に、こいつに追いつける日が来るのか。

疑問で仕方がない。


だけど、もう諦めない。

例え、どれほどの苦痛がその先にあろうとも、どれほど打ちのめされようとも、もう逃げたりなんてしない。


みっともなく、しつこく、無様に食らいついてやる。


「ゴキブリ男の名は伊達じゃない」


蟻女を後部座席に乗せ、俺たちは元に進む。


望んでやまない、明日を迎えるために。


胸の内にある言葉は、それまでとって置く事にしよう。


「スタンドバイミー」 -終-

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