第6話 伊織と絵理

「伊織どうしたの?こんな早く帰ってきて。その鼻は?」

「大丈夫だ、母さん。ちょっと転んで鼻をぶつけたんだ。心配いらない」


学校を早退し、氷で鼻を冷やしながら家に着いた。

母さんに心配しないよう伝えて、すぐに自分の部屋へ向かった。


部屋に入り、扉を閉め、乱雑に鞄をそこら辺に置き、ベッドへ体を預けた。


制服のままであったが、いろんな疲れと、昨晩の徹夜もあって知らぬ間に眠りについた。


眠ってから、何時間が経ったのだろうか。

わからないが、ただそばに人の気配を感じる。


「か、母さんか?大丈夫だから。だいじょ...」


目をゆっくり開き、視線を気配の方へと移した。


「おはよう。田仲くん」


寝ぼけているのか。

あるいはまだ夢の中なのか。

どちらにしろ、さすがに情けなく感じる。


佐々木がそばにいる。

そんな叶わぬ夢を本気で見ていることが、ただただ恥ずかしい。


「ふふ。だせえなぁ、俺」


いくら、寂しいからと言って、よりによって佐々木がここにいる妄想をするなんて。

あの時、去っていく佐々木の手を取り損ねたのは自分自身だというのに。

あまりにも都合が良すぎる。


「ダサくて、情けないね。田仲くん」

「まあな。夢見がちで、態度ばかりデカくて、救われることも、誰かを救うこともできない。あんたみたいには、中々なれないみたいだ」


自分で言っていていたたまれなくなってしまう。

早く目を覚まして、夕飯でも食べて、ウジウジしてる自分と別れたいところだが。


「私みたいにって、どういうこと?」


佐々木に目をやった。

キョトンとした顔になっている。

見たことがない顔だった。

記憶にないものを、俺の脳みそはどうやって再現しているというのか。


「ちょ、なにいきなり!?」


佐々木の頬に手を触れた。

やけに生々しい反応と、手のひらの温もり。


「佐々木、俺をつねってくれ」

「えっ?い、良いけど...」


佐々木が俺の頬を思い切りよくつねると、鋭い痛みが走った。


「痛って!ストップ!てか、夢じゃねえ!」

「え?そうだよ?ずっと寝ぼけてたの?」


待て待て!

結構恥ずかしいこと言ってなかったか、俺。

なんかきもい弱音も吐いてた気がする。

羞恥で、自分の顔が赤らめていくのがわかる。


「顔赤いよ?熱あるの?」

「ちょ、ちょっと、お前...」


何の躊躇もなく、佐々木が自分のデコと俺のデコを合わせてきた。

佐々木の顔が至近距離で目に入り、柔らかい吐息を肌で感じる。

羞恥で悶えそうなのに、何故だろう。

佐々木が近くにいるだけで、全身が穏やかな気持ちで満たされていく。


「熱はないみたい...。ってごめん!」


佐々木はようやく自分のしている事に気がついたのか、パッと体を俺から離した。

視線を床に移し、落ち着きなく両手の人差し指をクルクルと動かしている。


「な、なんでここに?」

「え、えーと、先生にプリントを渡すように頼まれて」

「そ、そっか。机の上にでも置いてくれ。わざわざありがとう。迷惑かけてごめんな」

「う、ううん。全然大丈夫!置いとくね!」


そう言って、鞄からプリントを取り出し、机の上に置いてくれた。

早退をすると彼女に迷惑がかかるのなら、今後はもう少し考えてから帰らなきゃな。


「ありがとう。家ここから遠いんじゃないか?お金渡すから、タクシーで帰ってくれ」

「ううん。大丈夫だよ!そんなに遠くないし」

「そ、そうか。まあ、プリントはもう受け取ったし。今日はありがとうな」


もう帰っても良いと遠回しに伝えているつもりではいるが、彼女は一向に動く気配がない。

仮にも彼氏がいる身分だ。

こんなのでも一応男だから、この部屋に長居しても良い事なんてないだろう。


「佐々木?」

「...」


彼女は黙って、そっと俺の袖を掴んだ。

彼女は下を向いているから表情がわからない。


「心配、したんだからね...」


また、震えた声色をしている。

俺は再び何かを、間違えたらしい。


「先生に、田仲くんがケガをして早退したって聞いて。私...、怖くなって...」


瞳からの雫が頬を伝って、地面へとこぼれていく。


俺の好きな人が、泣いている。


「佐々木...」


ひと雫ごと溢れるたびに、声にならない苦しみが胸の内から湧き上がってくる。


「な、泣かないでくれ...。絵理、頼む。泣かないで...」


彼女の悲しみや不安を取り除きたくて、瞳から溢れる涙を手で拭うことしかできずにいる。


「ごめん。ごめんね...。ありがとう」


佐々木は俺の手を握り、頬を手のひらに預ける。


涙の冷たさと、彼女のぬくもりが伝わってくる。


その冷たさは胸に穴を開け、

そのぬくもりはそれを埋めてくれる。


俺はこんなにも、君のことを愛している。


それが握られた手のひらから伝わりそうで、

今の俺には少し怖い。


けど、もう少しだけ。


あと少しだけ、このままで。


☆ ☆ ☆


「兄ちゃん、さっきの人が佐々木さん?めっちゃ美人!」


佐々木と入れ違いに、沙織が俺の部屋へ入ってきた。

あの後、佐々木が落ち着いた頃を見計らって、鼻の怪我は心配いらないと納得させ、今日はもう帰ってもらう事にした。


「ああ。プリントを届けに来てくれたんだ。申し訳ない事をした」

「プリントを?それだけ?」

「それだけだ。あいつは、彼氏がいるからな。長居させたのが申し訳ない」


沙織はそう言って、俺の机の上にあるプリントに手を伸ばした。


「プリントってこれ?」

「ああ」

「兄ちゃん、これ白紙だけど?」


沙織からプリントを受け取った。

確かに、何も書かれていなかった。


「間違えたんだろ。意外と不注意なところ...」

「それ以上言ったら怒るよ?」


沙織に睨まれ、続きの言葉が出てこなかった。

これじゃ、どっちが兄なのかわかったものじゃない。


「佐々木さんに好意を持たれることが怖いんでしょ?」

「ふっ...。本当にお前とは言葉を交わす必要がないらしい。よくわかるな」

「中学二年から兄ちゃん変わったもん。良くも悪くもね。毎日楽しそうで、だけどそれと同じぐらい辛そうだった。家族だもん。そんぐらいわかるよ」

「沙織...」


中学二年の秋頃。

俺が初めて佐々木にあった日。

自分にとっては人生最大の転機ではあったけど


ある日突然、人が変わったように生活態度を改めれば、家族からしてみれば心配しない理由がどこにもない。


「佐々木さんと近い関係になったら、憧れることができなくなるのが怖い?目標を失うみたいな...」

「昔はそんなことも思ったりもしたな。けど今は違う」

「じゃあ、なんで?」

「さっきも言ったけど、あいつには彼氏がいるんだよ。色々あったけど、あいつはそれでもなお、その彼氏と共にいる選択をした。


期待したくねえんだよ。勘違いしてさ、それで俺の想いを伝えて、拒絶されたらって思うと怖く怖くて仕方ねえんだ。それなのに日を増すごとに想いは積もっていって、逆にそれが巨大な重荷になってさ。もうどうしても一歩前へ踏み出せないでいる」

「兄ちゃん...」

「だから俺は素直に...、って、痛って!」


沙織が突然思いっきり俺の背中に平手打ちをかましてきた。

痛さのあまり、思わず無駄に良い姿勢で立ち上がってしまう。


「何すんだ!沙織!」

「ウジウジしててうざかったから叩いた」

「お前から聞いたんじゃねえか!それなのに...」

「でもそのおかげで今、背筋伸ばして立ってんじゃん?」


沙織はそう言って意地悪そうに笑顔を見せた。


「空気読まないで、自分の欲求にまっすぐでバカなのが兄ちゃんでしょ?」

「あ、ああ」


バカは余計だ。



「だったらさ、自分の中でできた空気も無視すればいいんだよ?」



沙織の言葉を受け、不意に笑みが溢れた。

ものは言い様だなと突っ込みたかったが、飲み込む事にした。


その瞳があまりにもまっすぐで、穏やかに見えたから。

無粋な事を言いたくても言えはしなかった。


「ありがとう、沙織。情けないお兄ちゃんでごめんな」


本当、どっちが年上なのかわかったもんじゃない。


「べ、べつに情けないとは...。ご、ご飯できてるから!特別に私が作ったから、感謝して食べて!残したら、どうなるかわかるよね?」


そう言うと、沙織が不敵な笑みを浮かべながら、指をポキポキと鳴らしている。


「ああ。残さない。おかわりするかもしれないぞ?」

「言ったね?今日の献立は生クリーム大福親子丼だよ!最低三杯はおかわりしてね?お兄ちゃん」

「あはは...」


空気読まずにこの家から飛び出そうかな。


「ここは空気読むところだよ?お兄ちゃん!」


どうやら、

どうやっても沙織には敵わないらしい。


☆ ☆ ☆


「知ってる?三組の宮崎くん暴力事件起こしたらしいよ?」

「この前も女の子を襲ったって噂があったけど、もしかしたら本当かも」


学校へ登校すると、しきりに佐々木の彼氏である宮崎の噂があちこちから飛び交っている。

しかも、どれもろくなものではない。


「みゆきちゃんも知ってる?宮崎くんのこと」

「知らない。やばいん?」


そのおかげもあるのか、綾野の噂がパタっとなくなりいつも通りの日常に戻れているらしい。

地獄の通知ラッシュがなくなったのは大変喜ばしいが、佐々木の様子が気になる。


彼氏にこんな噂がされていて、喜ぶ彼女などこの世にはいない。

そう思って、彼女の方へ目をやった。


「ふふーん♪ふーふん、あっ!」


ご機嫌に鼻歌を歌っているかと思いきや、俺と目が合うや否や頬を赤らめてすぐにそらした。

噂のことなど気にしていないようにみえるが、あの浮かれようはなんだ。


そんな事を気にしていたら、珍しい来客が俺の前に現れた。


「ちょっと、ついて来い」


注目の的である宮崎が、俺をどこかへ連れて行きたいらしい。


「何でこうも男ばっかりにモテるんだ俺は?」

「は?何言ってんだお前?」


俺の苦悩を宮崎が理解できるわけもなく、適当に流された。

肩を掴まれ、強引に教室の外へと連れ出される。


途中、佐々木の不安と恐怖の入り混じった視線を感じ取ったが、反応する暇もなかった。


黙ってついて行くと、俺が鼻を殴られるスポットにたどり着いた。


「俺を殴るんだろ?」

「よくわかったな」

「ここまでくると、わからない方がバカだ」

「まあ、ここは基本誰も来ないからな」


そういう意味じゃない。


「んで、理由は?」

「知ってんだろ?俺と絵里との時間を邪魔したからだ」


他はどうでもいいが、佐々木のことを呼び捨てにしていることが何よりも腹立たしかった。


「何で今更?結構日数経ってるけど」

「思えばあの日から俺はろくな目にあってねえんだよ!童貞だってからかうやつをちょっとこづいて病院送りにさせたり、俺に気がある女にセックスさせてやろうとしただけで皆から嫌われてんだ!」


こいつ、まともな精神状態とは思えないな。


「思い返せばあの日、絵里とやれなかったことが全ての元凶なんだよ!そして、それを邪魔したのはてめえだ!だからお前を殴って絵理を抱く!そもそもあいつは俺の女だしな」


全身の血が頭に昇っていく。

この男を八つ裂きにしてやりたい衝動が止まらない。

こいつさえいなければと思わなかった日なんて一度だってない。


ただ、あいつの愛してる男だから。

傷つけたら、あいつもその分傷つくから。


手が出せない。


この世で一番憎い相手は、この世で一番大事な人の愛する人だから


だから、俺がすべきなのはこいつを痛めつけることでは決してない。


「暴力で人を思い通りにする快楽に溺れたか、宮崎」

「あ?」

「始まりは確かにあの日だったんだろうな。自分の中の欲望を抑えきれず、強引な行動に出た。性欲の強いお前のことだ。押さえ切ることができなかったんだろ?」


やることを前提に思春期の男の部屋に女子がいて、いつも通りの理性が働くかどうか。

だからと言ってこいつのとった行動は、決して許されることではないし、許すつもりなんて毛頭ないが。


「だったらなんだよ?何が言いてえんだ?説教か?何様のつもりだよお前」

「何者でもねえよ。あいつにとって、お前は恋人で、俺は友達ですらねえ。


何の肩書きもクソもねえ!

一方的に恋人であるお前に嫉妬で狂いそうな、ただの他人だよ!

それでも、たとえ他人でも好きだから。

大好きだから、あいつの幸せを常に願ってんだよ。


俺なら、んな思いはさせねえって考えても、何のクソにもならねえから

だから、せめてあいつに選ばれたお前がすごいやつなんだって、さすがあいつが選んだだけはあるって思いてえんだよ。


頼むから、思わせてくれよ宮崎!」


宮崎は俺の顔面に拳を入れた。


「グダグダうるせえんだよ。殺すぞ?」


もう一層、殺してくれとさえ思ってしまった。


神様、もしいるのなら教えてくれよ。


何のためにこんな想いを、人に与えたんだ。


俺はこの気持ちのせいで、毎日楽しいけど、たまに死ぬほど苦しくなるんだ。


胸が引き裂かれて、引き裂かれて、痛くて、悲しくて、苦しくて。


それでも、この気持ちが消えてなくなることがなくて、呪いのように俺を蝕み続ける。


佐々木がどんなクズと愛し合おうがどうでもいい。

どれほど傷ついてもどうでもいい。

どんなやつにその笑顔を向けても、クソどうでもいい。


そんなふうに思えれば。

そんな事を思えさえできれば、俺は楽になれる。

楽になって、そして




二度と、佐々木絵理に触れられなくなる。




「宮崎...。暴力じゃ、何も解決しない。もう知ってんだろ?」


口から溢れる血を吐き出して、地面から立ち上がり宮崎の目をまっすぐとらえる。


「少なくても気に入らないやつを殴って気分を良くできる」

「お前がしたいことは本当にそんなことなのか?」

「お前に何がわかるんだよ、クソ陰キャ!お前と違って俺達は日々努力してんだよ。お前みたいにならないように、勇気を出して人とコミュニケーションを取って、金使って見た目に気を使い、興味もねえ流行りに敏感に対応するために日々頑張ってんだよ!」


それに比べ、俺は誰にも話しかけず、中学の頃から私服が増えることもなければ、最新の曲一つも知らない。

人間関係において何も頑張ってはいない。

俺では宮崎の苦労も、努力も分かち合うことができはしない。


「教室の隅っこで縮こまってるだけの根暗が、わかったような口聞いてんじゃねえよ!お前が女を知らないのなんて当たり前だが、俺はわけが違う!バカにされんだよ。毎日、毎日!そうしてるうちにグループでの俺の立ち位置がどんどん下がってくんだ。あんなに必死こいて上げたのによ!女知らねえだけで勝手に下げられちゃ溜まったもんじゃねえんだよ!クソ!」


当たり前だが、どれほど嫌っていたとしても、こいつだって必死で毎日生きている。

あらゆる理不尽、苦しみをその身に受けながら毎日自分なりに耐えていた。


俺はそれを理解せずに、こいつを非難するわけにはいかない。

そう思った。


「必死で積み重ねたもんが崩れたから、一層のこと全部ぶち壊したくなったのか?」

「ああ。そうだよ。すげえ気分がいい」


積み重ねたものが崩される。

俺にもそんな感覚が昔にあった。

だからこそ言える。


「崩れてからが意外と面白いぞ」


早く、それに気づけるようになってほしいが、恐らくそれは今じゃないんだろうな。


「だから、陰キャが知った口を叩くな!最初から何も持ってねえゴミが。無くした人の気持ちをどう理解できんだ?自分の手を見てみろよ!そこには何がある?何もねえだろうが!」


俺の手には、相変わらず自分の血しか乗っていなかった。


「確かにな。何もねえなぁ。ずっと。掴み損ねたり、手のひらからするりと全部落ちてさ。そして、結局いつも通り空になる」


友達も彼女も楽しい学校生活も、俺には何もない。

そして、宮崎には全てある。

わかってるんだ。

ただの意地だって。

その意地の先には、何もない、誰もいない場所にしか続いていないことぐらい、俺にだってわかってる。

強がってはいるけど、内心ではずっと不安で仕方がない。


だってさ、あいつは俺じゃなく、宮崎のそばにいる事を選んだんだから。


二ヶ月前、佐々木と宮崎が付き合ってから、俺の道標は途端に目の前から消え失せた気がした。

暗くて何も見えない道をずっと一人で歩き続けているようで、怖くて、寂しくて、不安でさ。

何も考えないように、いつも通り振る舞うことに必死だったけど

でも、時々思うことがある。


「俺がこの世で一番欲しいものがお前の手の中にあるって考えたら、もしかしたら本当に、俺はまちが「間違ってなんかない!」


俺と宮崎の間に、彼女が割って入ってきた。


手が震え、膝が笑ってる。


あの日の恐怖が、彼女をそうさせている。


「絵理、どけ。俺はそいつに用があるんだ。ぶっ殺してやる」

「ど...、どかない!」

「忠告はしたからな?」


宮崎が徐々に佐々木との距離を詰める。


彼女は、泣きそうな顔をしている。





ただ、まっすぐ前を向いている。




「伊織は、間違ってなんかいない!」





今ここで


この人の瞳に映らなかったら


いつ映ればいいのだろう。




「どけ、絵理!」


佐々木に伸ばされた拳を、両手で受け止めた。


こいつが佐々木の彼氏だろうが、誰だろうがもうどうでもいい。


佐々木を守りたい。


俺を貶めるために泣きまねをする。


蟻みたいなまとまった生き方をしている。


意味のわからないあだ名をドヤ顔で人につける。


空気を読んでクラス一の嫌われものとクラス委員になる。


意味のわからないタイミングで怒る。


すぐにどこかへ逃げていくところも。


そのシャンプーの匂い。


そのぬくもりも。


その優しさ。


その笑顔が。


全て、全てただ愛おしい。


「絵理、愛している」


俺はそう言って、佐々木の彼氏を殴り飛ばした。


「...」


宮崎は地面に倒れ、動かない。


俺の手に、佐々木の愛する人の血が付着した。


悪い。

そう言いたかったが、喉から言葉が出なかった。


俺はその場に佐々木と宮崎を残して、歩き始めた。


歩いている最中に、自分の手のひらに目をやる。

もうこれで見るのは恐らく最後だろう。

そこに収まってて欲しいものがあるから、人は自分の手を見るものだと思う。


俺はもう、それをなくした。

後悔はしてはいない。

例え俺がこの道でたどり着いた終着地点が、何もないところだったとしても


それでも、その道にたどり着くまでの道のりに何もなかったわけでは決してなかった。


手のひらから目を離し、俺は前を向くことにした。


前を向いて歩いていく。


手のひらを閉じようとした瞬間



柔らかく、温かい感触に包まれた。



手のひらを閉じることも、前に進むこともできなくなってしまった。



「どこに行くの?」

「何もないところに」

「なら、私も一緒に行く」


振り返ると、俺の手を握ってくれている佐々木がいた。


「きっと楽しくないぞ。考え直した方がいい」

「私も、伊織を愛してる」


握られた手からはぬくもりが、


彼女の表情からは俺の進むべき道が伝わった。


「だったら、一緒に行こう絵理」

「うん。何もないところでも、二人でならきっと楽しいよ伊織」


絵理の手を引き、学校から抜け出した。


ゴキブリ男と蟻女の抜け殻をそこに残して。

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