第5話 ゴキブリ男とみゆきちゃん
「ねえお昼、みゆきちゃんと何話してたの?」
「名誉あるパシリに任命された」
放課後の恒例行事と課している、訳のわからない書類をホッチキスで留める作業を、佐々木と一緒にやっている。
学校内で唯一、二人っきりになれる上、話ができる時間だけあって本来なら至高のひと時であるが...
「ふーん。なんか楽しそうだったね。良かったね。みゆきちゃん綺麗だもんね。特に脚とか」
さっきから佐々木の機嫌が今まで見てきた中でぶっちぎりに悪い。
ライン♪
俺のスマホの通知音が鳴り響いた。
送り主は、見るまでもない。
「みゆきちゃん...?ラ、ラインしてるの?」
「してるというか、させられてるというか...。ごめん、ちょっと返させてくれ」
机の上のスマホに手を伸ばそうとすると、パッと佐々木が先にそれを横取りした。
「お、おい」
「今、作業中なんだけど?」
そう言って、俺を睨みつけた。
いつの間にこの作業にそこまでの責任感を感じていたんだこいつは。
「返してくれ。返信しなきゃいけねえんだ」
本当に、返信しないとまずい。
佐々木に俺の性癖がバラされちまう。
「やだ!」
「お前だって作業中に彼氏と電話してたじゃねえか。不公平だ」
「...んー」
佐々木がすごく不満そうにゆっくりと俺のスマホを手渡してきた。
それを受け取り、ラインの内容を確認する。
「それで、結局彼氏とはどうなったんだ?あの後、電話したんだろ?」
「う、うん。実はまだ付き合ってる。けどね...」
佐々木が長々と話していたが、まだ付き合ってると言う事実だけが脳裏にこびりつき、それ以降は一つも頭に入ることはなかった。
俺も取り憑かれているその一人だが、
恋というものはつくづく呪いのようなものだと思わずにはいられない。
あんなことをされてもなお、あいつのことが好きだという。
綾野とのラインに感謝する時が来るとは思わなかった。
少なくても、返信のことについて考えている間だけは、心が引き裂かれる瞬間を免れる。
「って聞いてるの?田仲くん!」
「あ、ああ。付き合ったままなんだろ。わかってる」
返信を終え、スマホを机の上に置き、書類に手を伸ばした。
「何も、わかってなんかいない」
今にも泣き出しそうな、震えた声色。
見上げたら、涙を溜めた佐々木の瞳が、俺を捕らえていた。
ライン♪
スマホには、綾野からの通知画面が映し出される。
「私、帰る...」
「お、おい。佐々木!」
去っていく佐々木の手を取ろうと手を差し伸ばしたが、ふと宮崎の顔が脳裏に浮かんだ。
この手を取れるのは、俺じゃない。
虚しく空を掴んでいるうちに、佐々木が教室から飛び出していた。
そのを手を開き、目をやった。
相変わらず、そこには何もなかった。
☆ ☆ ☆
「朝ご飯食べてるときぐらいスマホしまいなさい」
母さんにそう注意を受けるが、そういうわけにもいかない。
綾野への返信がまだできていない。
「返さないとうるさいんだ。昨日徹夜で連絡とって一睡もできてないのに」
ライン♪
返信した数秒後に通知がくる。
気が狂いそうだ。
何をこんなに話せることがあるというのか。
「お兄ちゃん通知うるさい。こっちまで頭がおかしくなる」
「わかってる「ライン♪」俺だって「ライン♪」なんだ「ライン♪」」
だーもー、うるせえ!
俺は残りの飯をかきこみ、さっさと家から出て学校へ向かった。
いつもは自転車で通学するが、さすがに返信しながら運転は危険すぎる。
渋々歩いていく事にした。
その間、ラインは延々と続く。
親に文句を言われただの、朝ごはんはこれ食べただの、家出ただの。
クソどうでも良い内容ばっかり送りつけてきやがって。
そのくせ適当に返信すると、謎に怒られるから気の利いた返信をできるだけ早くしなければいけない。
女子全員こうなら、俺はもう一生彼女なんていらない。
つくづくそう思わされた。
「おはよー。めっちゃ、ぐーぜん」
「綾野、おはよう。会いたかったよ。本当に」
登校中、偶然綾野と出くわした。
これでやっとで通知音から解放される。
本当に、よかった。
「なに?ナンパ?めっちゃうける」
ライン♪
ラインの通知を開いた。
『ナンパされたんだけど。まじウケる』
「綾野さん?俺ここにいるけど?」
「しってる」
ライン♪
『見てわかっし。てか、返信はやく』
綾野は目の前にいても、ラインは止めるつもりはないらしい。
俺にはもう、スマホを川に捨てる以外にこの忌まわしい通知音を聞かずに済む方法は無いようだ。
「近くにいる時はラインしなくてもいいんじゃないかな?」
ライン♪
『巨○のお姉さんに××お願いしてみた!』
俺はラインを開き、頂いたメッセージを一つ一つ丁寧に返信する事にした。
☆ ☆ ☆
「ここ、重要なところだから、教科書にライン引いとけー。って、田仲どうした?大丈夫か?」
授業中、先生から発せられた【ライン】の言葉で体が自動的にビクッと動き、スマホのしまってあるポケットに手を伸ばした。
「すみません!何でもないです!」
☆
「昨日久しぶりにライオンキング見てさー。ってなに?キモいんだけど?」
隣の席の女子たちの雑談の中に、ラインって聞こえた気がしてまた体が勝手に動いてしまった。
「ご、ごめん。なんでもない」
☆
「ライブがさー」
「ごめん!」
体が
「来月にね」
「悪い!」
勝手に
「ライト点けてー」
「申し訳ない!」
反応する。
もう無理だ。
こんな生活、続けられるわけがない。
ライン♪
ビク付きすぎて、椅子から転げ落ちてしまった。
早くあの悪魔を元のところに戻さないと、俺の頭がどうにかなりそうだ。
これだけは、はっきりとわかった。
☆ ☆ ☆
「今日は間違えなかったじゃん。えらいえらいー」
昼休み。
メロンパンとコーヒー牛乳を買って、綾野に手渡した。
元のグループに戻すためには、とりあえずどういう理由でハブられたのかを知る必要がある。
少しでも気分を良くさせないといけない。
「綾野さんに褒められて光栄だなぁ」
「っしょー?わかってんじゃん」
人の気も知らないで呑気にメロンパンを頬張ってる綾野に若干の苛立ちを感じつつ、バブられた理由を聞く事にした。
「バブられた理由ねー。なんかー、あたしが二股かけてるだの、パパ活してるだのっていう噂が流れて、それを皆が信じちゃったみたいな?」
「実際やったのか?」
「してないしー。てか、あたし彼氏一途だから」
綾野は今までに見た事ない真剣な眼差しをしながら、コーヒー牛乳をストローで吸っている。
少なくても、信じても良いのかもしれない。
「てか、彼氏がいるならなんで俺とラインしてんだ?」
「噂信じて、フラれた」
たったそんだけのことで見捨てられたのか。
蟻は役に立たなくなった他の蟻を、生きたままゴミ捨て場に落とすという。
ここでは、無益なら女王蟻でも容赦なく捨てられるらしい。
「下らねえな」
「言って良いことと、悪いことがあるっしょ」
初めて見る、綾野の怒り。
なぜその怒りの矛先を、身に起きている理不尽に向けないのか。
心底理解ができない。
「綾野、ちょっと机から降りてくれ」
「だる。どして?」
「チョコフォンデュを作るんだ」
「ちょ、あんた、また?恥ずいからやめな?」
「知ったことか。お前の価値観を俺に押し付けるな。あとさっさと降りろ」
綾野が降りたのを確認し、机の上にチョコフォンデュの機械を置いた。
チョコレートを大量に設置して、電源を入れた。
独特な機械音を発しながら、溶けたチョコレートが次々と流れていく。
「ちょ、本当にやってるし。あたおかすぎ」
「お前は教室でチョコフォンデュしたことがあるのか?」
「あるわけないっしょ。しまいなそれ。皆見てっから」
「やったこともねえのに、よく否定できるな」
「いや、だって普通やらんし...」
「そのクソみたいな普通のせいで、お前は皆からハブられてるんじゃねえのか?」
綾野の顔から、困ったような苦笑いがなくなる。
「皆ハブいてるからって、自分もバブく。そんな下らねえやつらと同じになるつもりか?」
「田仲...」
名前、覚えてんじゃねえか。
ずっとこっちを見てる佐々木に目をやった。
いたたまれなくなったのか、すぐに視線をそらされた。
「ほら、マシュマロ。串はねえから手で突っ込んで食ってくれ」
「あ、う...うん」
綾野は恐る恐る、俺からマシュマロを受け取り、それをチョコフォンデュに入れた。
綾野の指と、俺の机がチョコレートまみれとなってしまう。
その様子を周りのクラスメイト達が汚物を見るような目で眺めている。
綾野はそのチョコが溢れた指ごと、マシュマロを口へ運ぶ。
「ふふっ」
マシュマロを口に入れた瞬間に、吹き出す彼女。
「どうだ?」
「うーん...」
ライン♪
『悪くない!』
スマホの画面から視線を綾野に移すと、
魅入ってしまうぐらいに、
可愛い笑顔を浮かべていた。
☆ ☆ ☆
「お前ちょっとこいよ」
そう言われ、先日も鼻を殴られた場所まで案内され、そして鼻を殴られた。
「あんま、みゆきに近づくなよ。クソ陰キャ。あいつは俺のもんだ」
鼻血を手で抑え込み、目の前のイケてる風の男子生徒に向かって
「んな大事なもんなら離すなよ、クソナルシスト」
と言い、もう一発顔面に拳を喰らった。
その男は気が済んだのか、地面に倒れる俺を残し、この場を後にした。
あんな、へなちょこ野郎のパンチなんて微塵も効いてねえけど、今日はもう先生に言って早退しよう。
痛くねえけど、消毒して氷で冷やそう。
「田仲!」
って思った矢先に、そのへなちょこ野郎の彼女こと、綾野に見つかってしまう。
「どうしたん?血だらけじゃん!」
「チョコフォンデュの気持ちを知りたくなってな。自分で殴った」
「そんなわけないっしょ。返信ないから探してみれば、なんでこんな事になってるん?」
綾野に手渡されたティッシュで鼻を押さえ、その場に腰を下ろした。
「ほんとだ。100件近く通知きてる。お前、暇すぎるだろ」
「そういう、あんたはバカっしょ」
「なんて事を言うん...」
真っ直ぐ目を見られて、バカと綾野は繰り返す。
同い年の女の子に本気で叱られると、わりかしへこみ、そして、少し嬉しいものらしい。
「その、なんだ。悪い...」
「田仲損な生き方してる。無駄だらけで、ただ傷ついて、そして最後に手元には何も残らないよ。あんた、それでいいの?」
正論すぎてぐうの音も出ないとはこの事。
実際、家族には心配をかけ、誰からも嫌われ、そして、去っていくあいつの手も握る事ができない。
それが俺であり、俺の生き方だ。
側から見たらただのバカ。
変人。
空気が読めない。
これらの総称が何かはわからないが、普通の人は俺の事を陰キャと呼ぶ。
働けなくなった蟻はゴミ捨て場に落とされる。
じゃあ、他の蟻とは逆方向に進む蟻はどうなるんだろうな。
きっとそいつはもう、蟻ではないのだろう。
同じ姿形をした、別の生き物になる。
それは、存在していないものとして扱われるのかもしれない。
もしかしたら、敵として扱われ、攻撃の対象となるのかもしれない。
あるいは...
「綾野って、ヒーローを見たことがあるか?」
「え、何急に?ヒーロー?普通に無いけど」
「そっか。俺は、見たことがある」
例えば、周りと歩幅を合わせ、空気を読み、媚びへつらう。
そういうのが得意で、それが人生の全てだと思い込んでいた男子中学生が、一人の女の子に出会ったとして
「その人は、集団の一番後ろを一人で歩いていた。どこからどう見ても、ただの暗くて地味な女の子だった」
それを見た男子中学生は、その人のことを心底見下した。
友達の多さ、集団での立ち回り、コミュニケーション能力。
その全てにおいて自分は上であり、人間として圧倒的に優れていると、本気でそう思っていた。
「その子に近づいて、どんな泣き面をしているのか見るのが楽しみだった。自分の下を確認し、優越感で気分を良くしたかったんだと思う」
ただ、あては大きく外れる事になる。
その子に近づいて、その瞳を見た瞬間に、俺の人生は変わった。
「彼女は、思った通りの泣き面で、全く想像できないほど真っ直ぐ前を見ていた。自分は間違ってない。間違ってるのはお前らだと、叫んでいるかのようで。
その子の瞳を見た時、心が飛び出しそうなほど高鳴って、全身を稲妻に撃たれるとはこのことを言うのかと思い知った。
うまく言えないけど、ただあの時、俺はこの人の瞳の中に映り込みたい。映れるような人間になりたいと、心から渇望したんだ」
今までの俺は、死んではいなかったけど、多分生きていた訳でもなかった。
生きている理由はゆっくり寝て、美味しいものを食べて、たくさん遊ぶ。
それで良いって思って、疑っていなかった。
ただあの日俺は、唯一無二の、確かなものを手に入れたんだ。
「俺はこのために生まれてきた。そう思ったっていうよりかは、そう知ったんだ」
いつのまにか寝るのも、食べるのも、遊ぶのも生きる理由ではなく、なりたい自分となるための手段に成り代わっていた。
誰かを救えるほどの強さを持った、あの人のような自分に。
「でもまあ、現実はその人には微塵も興味持たれてないんだけどな。先はまだまだ遠いかな」
自然と口角が上がる。
彼女は俺にとっての生きがいであり、愛しい人でもあり、ヒーローなんだ。
皆とは違う方向を歩く蟻。
もし、仲間に捨てられる働けなくなった蟻を救えるものがいるとしたら、それは皆と同じ方向を歩む蟻では決してありえない。
佐々木 絵理に出会えていなかったら、一生知り得なかった、俺のたった一つの道標。
「好きなんだ。絵理のこと」
「うん...、って、ちょっと待て!誰も佐々木の事なんて!」
「もう遅いっしょ。普通にうんって言ってたし。まじウケる」
口を抑え、笑みを溢す綾野。
今までこんな話、誰にもしたことも無かった。
けど、こいつに話して良かった。
そう思った。
「あんたさ、20歳...いや、30歳の同窓会、お互い独身なら、結婚したげる」
そう言う彼女の微笑みは、青い空と、白い雲に良く映えていた。
「ならさっさと彼氏追いかけて、せいぜい早めに結婚しておけ」
ライン♪
通知音だ。
ただし、俺のスマホでは無い。
「彼氏からだ。今すぐ会いたいんだって。ごめん、ちと行ってくる!」
「おう。よかったな。もうここに戻ってくるなよ」
さっさといけと、手で追い払うような動作をする。
満面の笑みで、小走りに綾野が彼の元へと向かう。
それをしばらく見送った。
ふと、スマホに目をやる。
通知は来ていなかった。
自分の生き方を今更曲げる気なんてないし、後悔なんてするつもりは毛頭無い。
ただ、この瞬間だけは一生慣れそうに無い。
血で汚れたティッシュをしばらく眺め、握りつぶし
ゴミ箱へ放り投げた。
また空っぽになった手のひらには、べっとりと自分の鼻血がついていた。
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