第5話 僕は負けない
教室に着いて、席につくとほぼ同時にチャイムがなった。朝の会が始まる合図だ。そろそろ来る、大長先生が。今日に限っては僕の女神の降臨だ。この人に賭けるしかない。僕は手を合わせて、机に伏せていた。
–ガラガラガラッ–
「ほーい、おはよーございまーす。席についてない人は席についてくださいねー」
ん?男の声?大長先生の声が変わった?
そんなあるはずもないことを考えながら、僕はおもむろに顔を上げた。
するとそこには女神ではなく、今朝僕が味方につけられなかった男性が立っていた。横澤先生。この小学校の教務主任の先生だ。
でもなんでこの人が?今日という大事な日に大長先生は体調でも崩したのか?あの凛々が今日は欠席なのだから、それもあるかもしれない。でもなんで今日に限って…
そう考えていると、クラスのある男子が「今日大長先生休みなんですか?」と尋ねた。するとこれに返答したのは横澤先生ではなく、クラスの女子だった。
「先生、今日は出張だって昨日帰りの会の時言ってたじゃん」
「あれ?そうだっけ?聞いてなかったわぁ」
僕もだ。最近覚えた英語、ミートゥーと言って返してやりたかった。
ちゃんと大長先生の話に耳を傾けておけばよかった。心の底からそう思ったが、後悔先に立たずとはまさにこのことだ。もしちゃんと話を聞いて、大長先生が出張だって分かっていたら、あの場から逃げ出したりはしなかっただろう。助けを求めに行っても、助けてくれる相手がいないと分かっていれば、あの場でしっかりと説明していたかもしれない。
しかも代理で来た先生があの現場に駆けつけて来た先生のうちの一人だ。絶対に後で事情聴取がある。何を聞かれるのだろうか。どんなことを聞かれても僕は堂々と事実を述べることができるだろうか。
頭の中でシミュレーションをしている間に、いつのまにか朝の会が終わる空気になっていた。
「じゃあこれで朝の会を終わりにしましょー、日直さん、号令をお願いします」
「きりーつ」
後で必ず行われるであろう事情聴取で頭がいっぱいだった僕は、日直の号令に反応できなかった。
「アキくん、立たないと」
隣の席の女子が声をかけてくれたおかげでようやく立つことができた僕は、日直の号令がかかる前に一人で「ありがとございました」と口走っていた。
「あれ、一人で先走っちゃったかな。では日直さん、改めて号令お願いします」
「気をつけー、礼」
–ありがとうございました!–
ハズカシッ。先走った恥ずかしさで顔を赤らめた僕は前を向くことができず、自分の机をじっと見つめていた。
「はぁ…」
無意識にため息が出ていた。するとその様子を見ていた隣の席の女子が話しかけてきた。
「アキくん大丈夫?なんかずっとボーッとしてるよ」
「ま、まぁ、うん、大丈夫かな」
僕が生気のない返事をすると、朝の会を終え、職員室に戻ろうとしていた横澤先生が声をかけてきた。
「林くんだね?ちょっと先生と一緒に来てもらえるかな」
うわっ。やっぱりきた。事情聴取だ。
でも現場で起きたことを聞かれるだけ。事情聴取とはそういうものだ。
しかしこの時の横澤先生の声のトーンは、僕を弁護する人のトーンではなかった。明らかに僕を犯人だと思っている。
僕が高田を押したという決定的な証拠はないのだから、僕を有罪としては扱えない。だから無罪推定の原則が適用されなくてはならない。しかしここは学校だ。細かい調査など行われるわけがない。おまけに僕は明らかに犯人と思われる行動をした。だからそう思われても仕方がないのか。
そう思っていると僕はこれまで以上に後悔した。現場から走り去ったことを。
「はい」
そうためらいがちに返事をした僕は横澤先生の後を影のようについて行った。
職員室に着くと、そこには小野先生と高田が待っていた。
「あなたが林明人くんね。4年2組の担任の小野です。ちょっといろいろと聞きたいんだけど」
出会ってすぐにこう話してかけてきた小野先生の声は鋭かった。
「高田くんはあなたに押されて池に落ちたと言っています。それは間違いないですか?」
この聞き方、明らかに高田派の人間だ。高田が言ったことを鵜呑みにしているのだろう。
でも僕は負けたくなかった。事実を言い通そう、僕はそう覚悟決めた。
「いえ、間違っています。僕は押してません。この子が勝手に落ちたんです。僕は何もしていません。」
僕は毅然とした態度ではっきりと事実を口にした。自分でも驚くくらい堂々としていたと思う。もう疑われるようなことはしない。その強い信念が僕を後押ししてくれたのだろう。
しかし相変わらず高田の口調は強かった。
「嘘つくなよ!お前のせいで俺はびしょ濡れになったんだぞ!」
なぜこいつはこんなにも平然と嘘をつけるのか、不思議でならなかった。
「僕は押してなんかないんだよ!僕が押す理由がないんだ!」
職員室の先生が全員こっちを向く。
「まぁ2人とも落ち着いて、もうちょっと声を落とそうか」
激しく言い合った僕と高田を一言で制したのは横澤先生だった。そして、「もう授業が始まるから教室に戻ろうか」と続けた。
教室に戻ると、「おい、林」と後ろから声をかけられた。
振り返るとそこには橘照斗が立っていた。学年でもトップクラスの人気を誇る彼は、僕とはかけ離れた存在だった。
そんな彼が僕に何の用だろう。そう思っていると、橘の口からは僕が今一番触れたくない話題が出た。
「お前4年生を池に落としたらしいな」
橘がこう言ってきた時、僕は悪事千里を走る(実際に僕は悪事を働いたわけではないが)ということを身をもって感じた。
「いや、僕は本当はやってないんだよ。あの子が勘違いしているんだ」
「そんなダサいこと言ってないで認めろよ、同じ名前の人間として恥ずかしいぜ」
「ほんとなんだって。信じてよ。僕がそんなことするわけないじゃん」
「だってみんな言ってるぞ、お前が逃げるように池から走り去ったって。自分が押したってことをバレたくないから逃げたんじゃないのか?」
「……いや、…その…」
僕は黙り込んでしまった。最悪の反応をしてしまったのだ。こんな反応では認めているのも同然だ。
「まぁ早く認めて謝って方がいいぜ」
こう最後に言われた瞬間、僕はあろうことか橘の胸ぐらを掴んで叫んでいた。
「勝手に決めつけんじゃねぇよ!僕はやってないって言ってるだろ!」
そう言いながら僕は橘を壁に押し付けた。だけど橘も負けじと僕を掴んでやり返してきた。
「なんだお前、ふざけんな!」
人生初の喧嘩だった。僕って怒るとこんなにパワーが出るのかと新たな発見があったのは良かったが、事態は暗転していくばかりだ。
「やめなさい」
そう言って僕達を引き剥がしたのは、またもや横澤先生だった。この日は事あるごとにこの人に止められる。もうこの人の中では、僕は問題児として位置付けられているのだろう。そう考えるとなんだか悲しくなった。
「2人とも落ち着いて。急いで授業の準備をしなさい。もう授業開始のチャイムが鳴りますよ」
そう言って僕達を教室に帰らせた。そして横澤先生も僕と一緒に教室に向かい、「2時間目が終わった後の休み時間にまた職員室に来てください」と言ってきた。
「失礼します」
2時間目が終わった後の休み時間に、僕は職員室のドアを開けた。
僕はうつむきながら小野先生の机に向かった。何度呼び出したところで言うことは変わらないよと心の中で
「休み時間なのに申し訳ないけど、あなたが高田くんを押したのを見たと言ってる子が3人いるの」
高田の奴め、やりやがったな。自分の息のかかっている子分を3人揃えやがった。
「あなた達は見たんですよね?林くんが高田くんを押したところを」
小野先生がこう尋ねると、子分3人は口を揃えて「はい」と答えた。
「やっぱりあなたが押したことで間違いないですね」
もう何を言っても無駄なのかもしれない。どれだけ事実を述べても僕に勝ち目はないのかもしれない。
4対1という圧倒的に不利な状況に打ちのめされ、冤罪を認めようとしたその時、心の中で凛々が「負けちゃダメだ!」と言ってくれた気がした。
確かにこの状況で僕の味方はいない。学年、もっと言えば学校全体が僕の敵かもしれない。だけど僕のことを絶対に信じてくれる友がいる。その友の為にも僕は負けちゃいけない。
「何度も言ってますが僕は押してないんです。本当に高田くんが押された感触があるなら、それは僕じゃないです。僕は人を突き落とすなど絶対にしません。」
「そうですか。ここにいる子たち以外にも、もう少し当時の状況をいろいろな人に聞いてみます。やったならやったと素直に言った方がいいですけどね。もう戻っていいですよ。また後で来てもらうかもしれませんが」
そう伝えられ僕は職員室を後にした。
この日は今までで一番長く感じた。どれだけ事実を主張しても通じない。僕の周りには敵だらけ。職員室に呼び出されても「あなたが押したんでしょ」と言われ続ける。同じ学年の子たちもみんな僕が悪いと思っているから陰口をたたき、橘と取っ組み合いをしてしまったせいか、口も聞いてくれない。
でも僕は負けない。明日になれば僕を信じてくれている友が助けてくれるはずだから。
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