私の記憶はあの夏の日で止まっている
朱ねこ
幸せと絶望
目を開くと真っ白で、それが見覚えのない天井だと気づく。
慌てて起き上がってみると、薄緑のカーテンで囲まれ、真っ白なベッドの上にいることが分かった。
「ここは、病室……?」
なぜ、私はこんなところにいるのだろう。
昨日の記憶が呼び起こされる。
高校最後の夏休みに私は幼馴染を花火大会へと誘った。
浴衣を着付け、髪を可愛くアレンジしてもらって、彼と共に屋台を回った。『似合っている』と褒めてもらえたのが嬉しかった。
道路の真ん中に立ち、打ちあがる綺麗な花火を眺め、私は彼に告白した。
彼は顔を赤くして驚いていた。
初めてのキスは触れるだけ。柔らかな感触が今でも残っている。
とても幸せだった。
しかし、その後の記憶がない。
なぜ私は病室で寝ていたのだろう。
不安を感じて間もなく看護師が来て、慣れた様子で説明してくれた。
看護師の言葉が衝撃的で理解できなくて何度も聞いた。
あの夏の日、私は交通事故にあったらしい。祭りで閉鎖された道路に居眠り運転の車が突っ込んできて、私は撥ねられた。
幸い命は助かったが、むち打ちと脳の損傷が起こった。私が押し飛ばしたおかげで彼は無事らしい。
私の記憶はあの夏の日で止まっているらしい。
信じられないが、私の日記帳がそれを証明してくれた。
夏祭りがあった日のページは空白で、暫く経った頃から日記を再開したらしい。
最新のページには、看護師に教えてもらった昨日の日付が書かれている。
『日記にある昨日のことは思い出せない。彼が来てくれた。連日らしい。初めてのキスが嬉しかったことを伝えたら、複雑そうな顔をして、席を外した。迷惑なのかなぁ……』
遡ってみると、同じことを伝えた日が何度かあったようだ。最初は彼も喜んでくれていたらしい。
日記を読んでいる途中で制服を着た彼がお見舞いに来てくれた。
彼の浮かない顔を見て私は何も言えなくなった。続く沈黙が重くて苦痛に感じてしまう。
私がいない生活をして、もう一ヶ月も経つのだ。
親に言われて面会に来ているだけかもしれない。心変わりしたって仕方ない。
むち打ちの症状は、二、三ヶ月で軽くなるかもしれないらしいが、脳機能が回復するかは分からない。
幸せは脆く突然崩れた。
義理ならばやめて欲しい。こんなことで彼を縛りたくない。
「もういいよ。もう、来ないで」
布団に潜って背を向ける。
本心とは正反対の言葉で私は彼を拒絶した。胸がちくちくと痛む。
彼が何か言っていたが、聞き取れず、話を聞こうと思った時にはいなかった。
堰を切ったように涙が溢れ出し、止まらなかった。
日記は『初恋は叶わなかった』という一文で終わっている。
私の記憶は止まっていること。連日でお見舞いに来てくれていた彼はもう来ないこと。
日記を振り返れば分かる。
昨日は幸せだったのに、急にどん底に落とされた。
失恋したことに胸が締め付けられるように苦しくなり、あたたかいものが頬を伝う。
今日は退院する日らしい。
今まで通りの生活はできないし、仕事もできないだろうから、お母さんとお父さんに支えてもらいながら生きていくんだと思う。
「失礼しますよー」
看護師に続いて両親が入ってきて終わりだと思ったが、次に入ってきた人物に私は目を疑った。
「な、なんで……?」
「迎えに来たんだよ」
もう来ないはずの彼がそこにいる。
涙でぼやけてくる視界を拭って彼を見る。
昨日見た彼より、髪は少し伸びているが、顔つきは変わらない。
日記にあった『失恋』とは嘘だったのだろうか。
「遅くなってごめん。ちゃんと就職先が決まったんだ」
「就職……」
あの夏の日から随分と時間が経った。
「色々考えてね、君に助けられてしまった情けない男だけど、君とずっといたいんだ。起きた時も寝る時も顔を見たい。だから、一緒に暮らしたい」
「え? それって?」
「実家暮らしになるけどね。親がいる方が安心だろうし。二人暮らしもできるように貯金しようとは思ってるよ。どうかな?」
頭がついていかない。
日記に書かれていたことと違う。どっちが真実なのかわからない。
でも、彼の表情は真剣そのもので嘘だとは思えなかった。
「私で、いいの? 昨日のことも、忘れちゃうよ?」
「君がいいんだ。忘れてもいいよ。俺が覚えてるから。いてくれさえすればそれでいい」
「……っ、うん」
沢山泣いたはずなのに、止めどなく溢れてくる。
幸せは絶望に、絶望は幸せに変わっていく。
「生きていてくれてありがとう。これからは俺が君を守りたい」
嬉しくなって、ついベッドから降りて突進するように彼に抱きついた。
ふらついた彼は私と共に倒れ込んでしまった。
その後、お母さんたちには怒られることになるが、二人して笑ってしまった。
新しい思い出は心の中にしまわれる。
私の記憶はあの夏の日で止まっている 朱ねこ @akairo200003
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