「大人になる」ということ

紗音。

思い出の描き方

「荒巻ー、書けたか⁇」

 真夏日なのに、今いるこの教室には扇風機しかない。その扇風機でさえ、そよ風なんて優しいものではなく、熱風を巻き起こしているのだからどうしようもない。

 俺・荒巻あらまき完史かんじは、汗だくになりながら一冊のノートを開いて自席に座っている。

 一冊のノートは、どのページを開いても新品同様に綺麗で何も書かれていない。

「先生、書けないっすよー」

 俺はシャーペンを回しながら、担任の芦澤あしざわに返事をした。

 せっかくの夏休みだと言うのに、男二人で蒸し風呂のような教室にいるなんてどんな拷問ごうもんなのか。

「ったく、これじゃあ偉くなった時に自伝とか手記が書けないぞー」

 芦澤はビール腹がだいぶ目立つようになってきたようで、椅子に座っているとぽっこりと身体から腹がはみ出ているのがわかる。

「別に、ビックになるとか思ってねーし」

 俺はそう言いながら、机に頭を倒した。ノートに顔がついたせいで、紙に汗がべっとりとついてしまった。

「だがな、俺の目標は生徒全員が宿題をすべて提出なんだ。そして、主任にどや顔したいんだ。そのためには、荒巻。お前も夏休みの絵日記を書いてもらう必要があるんだ」


 この話は何回目だろうか。

 夏休みが始まる直前に芦澤から補講だと言われて、俺の夏休みは終わったと思っていた。だが、勉強でもないこんなものなら、来なければよかったと毎回思ってしまう。


 俺が絵を描けなくなったのは小さい頃だ。

 両親が死んだあの日から、絵を描けなくなった。それまでは毎日、お母さんとお父さんの絵を描いてはお母さんに見せて喜んでもらっていた。

 俺が生まれてからずっと入院をしていたお母さんは、俺が三歳になる直前に死んでしまった。

 お父さんは後を追うように自殺してしまい、俺は一人ぼっちになってしまった。

 お父さんが生きている時、最後に連れてかれた場所は『荒巻家』だった。

 俺が連れられてきたときは、真夜中で玄関の扉を開けたのはいち姉だった。

 お父さんは少ししたら帰ってくるといち姉に言っていたけど、いなくなるまで一度も俺を見ることなくいなくなってしまった。

 次の日に母ちゃんと父ちゃんと会って、少しの間だけ一緒に暮らすと言う話になった。

 初めて知らない場所で寝ることになった俺は、静かで誰もいなくて何もかもが怖かった。きっと少ししたらお父さんが迎えに来てくれると信じていた。

 だが、お父さんは迎えに来てくれずに、そのまま二度と会えなくなってしまったのだ。


 それから俺は荒巻家の人間になった。

 俺の暮らしていた家にいち姉、にい姉、さん姉が一緒に暮らすことになった。

 俺にとって大切な家だからここで暮らした方が良いだろうと、いち姉が母ちゃんと父ちゃんを説得してくれて決まったのだ。

 もともと部屋数が多かったので、母ちゃんと父ちゃんも住んだって問題は無かったと思うが、大人の事情で一緒に暮らすことはなかった。


 怖い顔をしたいち姉、無口のにい姉、何を言っているかわからないさん姉がいるこの家が、新たに俺の家となった。

 初めて会った時のいち姉はとても怖い顔をしていたので、仲良くなれるか不安だった。

 だが、いち姉は優しくてカッコよかった。いつも俺のことを考えてくれていて、いろんなことを教えてくれた。

 にい姉はいつも無口だったが、話しかけると普話してくれた。歴史や歴史人物の話になると、生き生きとした顔で蘊蓄うんちく披露ひろうするので、たまに面倒だ。

 さん姉は俺よりも日本語が話せなかった。だから、言葉が全然通じなかったんだけど、さん姉に連れていかれた場所にいる外国人の男の子に通訳してもらって話せるようになった。

 最近は言葉を交わす回数が増えたけど、焦ると今までと同じで言葉が通じなくなる。


 母ちゃんと父ちゃんは別の家に暮らしているので、休みの日だけその家に泊まりに行っていた。

 父ちゃんはあまり俺のことが好きではないが、最近はたまに話すようになった。

 母ちゃんとは少しずつ、手話で会話できるようになってきている。

 中学に入ってからは、学業や部活面を考慮こうりょして月一回にしてもらった。


 もう、死んだ両親のことなんて思いだすこともないし、悲しくなることもない。だが、未だにお母さんの遺品だけは見ることができない。

 病院でお母さんは毎日、日記を書いていた。死ぬ三日前まで書いていたらしい。


 両親が死んで絵を描くことができなくなったが、それ以外は問題ないと思っていた。

 だが、小学校に入って初めての夏休みに問題が発生した。

 夏休みのできごとを毎日、日記につけると言う宿題は俺の思考を停止させるものだった。

 書く直前までは、何があったからこれを書こうとか、明日は遊びに行くからそのことを書こうと思っていても、いざ書こうとすると手が震えて書けないのだ。

 最初の年は先生に怒られるだけで済んだが、次の年も同じ症状が発生してしまった。

 そのため、いち姉が担任の先生に伝えてくれて、俺だけ別の宿題を出してもらった。

 中学でもいち姉が担任の先生に伝えてくれているはずだが、この芦澤だ。そんなもの関係ないのだろう。


「荒巻。もう良い歳なんだし、問題になっている母親の日記でもぱらっと読んでみねぇか⁇」

 芦澤を前にして、デリカシーやプライバシーなんて言葉は無意味だ。土足で踊りくるうに違いない。

「そっすね……」

 俺はため息をつきながら、真っ白なノートに顔を付けて目を閉じた。

「今日はここまでにしよう。いいか⁇明日までにちゃちゃっと読んで来い。お偉いさんが書いたものじゃないんだ。お前でも理解できるはずだ。そして、明日こそは絵日記を書くんだぞ」


 夜、お風呂から出てきた俺は自室に入り、ベットの上に座った。俺が座っている横には、お母さんが書いた日記が置いてある。

 風呂に入る前に、いち姉にお願いして部屋まで持ってきてもらったのだ。不安そうな顔でいち姉は俺を見ていたが、大丈夫だと笑って答えた。


「ふぅ……」

 息を吐いて、俺は日記を膝の上に置いた。

 昔は触ることすらできなかった。見るだけで怖かったのだ。

 人が死ぬと言うことがよくわかっていなかった俺は、両親に捨てられたのだと思っていた。だから、母親の本心を知りたくないと思っていたのだと思う。


 荒巻家の人間になって、いろんなことを知った。

 楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、他にもたくさん知ることができた。

 あの時、どこかでまた一人ぼっちになるのではないかと不安になることもあった。傍若無人ぼうじゃくぶじんに振舞っていても、嫌われないだろうかと人の顔をうかがってばかりだった。


 ――どうせ、俺なんていらないんだろう⁇


 ――こんなやつ、一緒にいたくないでしょ⁇


 本当は俺とは居たくないのではないかと、試す行動ばかりしていた。

 そんな俺でも、いち姉、にい姉、さん姉は大切にしてくれた。本当の弟のように可愛がってくれた。

 母ちゃんと父ちゃんは俺を見捨てたりしなかった。

 それだけで、俺は誰よりも幸せ者だと実感していたのだ。

「お母さん……俺、たくさん思い出ができたんだよ」

 そう言いながら、俺はお母さんの日記に手を乗せて、表紙をゆっくりとめくった。


……


「荒巻ー。まだ書けないか⁇」

 今日も相変わらず、外は暑い。こんな日にはプールか海水浴へ行きたいものだ。

 幼馴染みの瑞稀みずき友大ゆたでも誘って遊びに行こうか。

「……そういや、俺……なんであの時、一人ぼっちなんて思ってたのだろう」

 赤ん坊の時から、お父さんは瑞稀や友大の家に俺を預けることがあった。だから、二人とは家族のように仲が良かったのだ。

 あの時、二人のことを思いだしていたら何か違ったかもしれない。


「荒巻ー⁇」

 心配しているのなら、俺の席まで見に来ればいいのに、芦澤は教壇に置いてある椅子に座ったまま、うちわをあおいでいた。芦澤は俺を何度も呼ぶので、俺はノートを持って教壇まで歩いて行った。

「先生、とりあえずまた明日っす」

 そう言って俺はノートを渡して、さっさと教室を出た。


「あっおい!!……ったく、書けたのか⁇」

 ノートにはこう書いた。


 ――先生、ビール腹が成長中。急ぎ運動せよ。


 ――先生、ありがと


 久しぶりに描いた絵は棒の線。半円を描くようなふにゃふにゃの線。芦澤のビール腹をイメージしてみた。

 絵とは言えないかもしれないが、あれが今の俺の精一杯だ。

 日記も……少しずつ書けるようになると良いな。

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「大人になる」ということ 紗音。 @Shaon_Saboh

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