第32話 赤い月と黒い月

「ロニエスよ」

 バルコニーの手摺りを背にもたれて、ゆらりと立ったトリッチが、不敵な笑いを浮かべた。

「お前が言った『そんなもの』だ。・・・じっくりと受け取るがいい」


 ヴノは刺さったアマンダの矢を引き抜いて、握った手で砕いてしまった。

 魔獣のようなうなりを上げて、ロニエスを見据える。

 しっかりと立ち直したロニエスは、血に濡れた口元を手の甲で拭った。

「アマンダ、ファリーとジェルジンを連れて行け。俺はちょっと用事を済ませてから行く」

 え・・・。

 ファリーはヴノと対峙しているロニエスを見た。


「魔薬士トリッチャード」

 ジェルジンがバルコニーに向かって言った。

「魔法院で身柄を預かります。・・・サムガルヴァで不当な刑を受けるよりましでしょう」

「分かりが悪いな、模範生」

 クックッとトリッチが喉で笑う。

「魔法院に保護を求めるくらいなら、私は死を選ぶ・・・だよ」

 途端、トリッチは背にした手摺りに重心をかけて、真っ逆さまに落下した。

 ジェルジンとファリーがバルコニーへ走る。

 足元から激しい水音が立った。

 真下の海面には大きな泡と波紋が残るばかりで、目を凝らしてもトリッチの身体は上がっては来なかった。


 ピシピシと乾いた音を立てて、壁のヒビが更に広がる。

「これは・・・崩れるかもしれない」

 見上げたジェルジンが言った。

「ファリー!早く!」

 アマンダに呼ばれて、ファリーは出口へと急いだ。

 ロニエスはヴノと対峙したままだ。

 けれど、今のファリーはロニエスを援護する手立てが無い。

 悔しさに胸を掻きむしられながら、せめて相棒の足手まといにならないよう、部屋を後にした。


 外壁の亀裂は、館内にも影響を及ぼし始めていた。

 内装が剥がれ落ちていたり扉が壊れて開かなくなっていたりで、逃げるファリーたちの行く手をはばむ。


 こうして逃げ出したものの、ファリーはロニエスが気になって仕方無かった。

 後ろを気にしながら走るものだから、アマンダたちとの距離がすぐ開いてしまう。

「ちょっとファリー!早く来なさい!」

 アマンダに急かされて前を向いたとき、ふいに横の扉が開いた。


 あっと思った時には、そこから現れた薄紫色の髪の魔道士と正対していた。

 オルガだ。

「オルファリッ!」

 ジェルジンの固い声に、オルガがそちらを振り返る。

 ・・・やめて、オルガ!

 声が出ないのに、ファリーは叫んでいた。


 すると、それが聞こえたように、オルガは何もせずにファリーの方に向き直った。

 でも、だからと言って何が変わるだろう。

 絶対的な負けは、この人と関わった時から決まっているのに・・・。

 ファリーの渇いた喉が、コクッと鳴った。


「・・・あれが、お前の赤い月か?」

 かすかに開いたオルガの口からは、呪文ではなくそんな言葉が紡ぎ出された。

 透明でありながら底知れぬ深さを感じる紫色の瞳が、ファリーを捉える。


 ファリーはゆっくりとうなずいた。

「・・・そうだよ。あれがぼくの、大事な赤い月」

 オルガの瞳に答える。

 声は出ない。

 でも、はっきりと口を動かす。


 それでも、オルガの表情は変わらなかった。

 いつもの、透き通るような儚げな顔。

 ファリーの答えにうなずきもせずに、オルガは静かにきびすを返した。

 廊下の隅に飛び退くジェルジンを気にも留めず通り越して、階段に消えて行った。


 赤い月。

 そう、ぼくの双子の月。

 ・・・だから・・・離れちゃダメなんだ!


 ファリーはくるりと後ろを向くと、もと来た道を走る。

 ジェルジンとアマンダが何か言っていたが、聞こえないふりをして、どんどん走る。

 何もできない。

 役に立たない。

 けれどそばに居たい。・・・そばに居させて!ロニ!

 かけてもらったマントを抱きしめるようにして、ファリーは相棒の元へ駆けて行った。



 はあ・・・はあ・・・はあ・・・

 ロニエスは全身を使って息を吐いていた。

 滑りそうになる柄をしっかり握り直す。

 血と脂にまみれた剣は、もうすでに切り裂く鋭さを失っていた。


 目の前にはやはり、荒々しい呼吸の巨体が立っている。

 息をするごとに傷から新たな血を噴き出し、自らが流した血で全身が真っ赤に染まっていた。

 これだけ切り刻み刺し貫いても、倒れる気配も無い。


 首を落としちまえば、一発なんだろうがな・・・。

 ロニエスは軽く笑った。

 さすがにヴノの動きは悪くなってきたが、そうそう急所を狙わせてはくれない。

 それにロニエスの剣は、一撃で首を落とせる威力をもう残していない。


 いや、分かっている。

 人の力ではこいつは倒せない。

 同じ力を・・・同じ血を持って向かわなければ、勝利は無い。


 ドクン!と、ロニエスの中が大きく脈打つ。

 胸の封印が激しく叩かれる。

 ・・・ハヤク出セ・・・と。


 けれど・・・。

 ロニエスはヴノを見た。

 もう人には戻れないヴァーサンクだ。

 自分で覚醒を抑制できるだの、理性ある狂人種だのと、外から勝手に盛り上がっていたが、結局はこうなるんだ。

 きっと・・・自分も・・・。


ぼくが居るから大丈夫だよ。


 相棒ファリーの声が聞こえる。

 ああ、そうだ。

 杖、渡しそびれちまったな・・・。


「怖イノカ?」

 ロニエスは顔を上げた。

 ヴノが自分を見ていた。

 その目は狂人のそれではなく、理性の光が宿っているように見えた。


「何だ。お前、話できるのか」

 言いながらも、ロニエスは剣先を下げない。

「俺ハ、オ前ノヨウニ、面ガ良イ訳ジャナイカラナ。コノ身体ヲ見レバ、誰モ声ヲカケナイ。ダカラ、俺モ、話ヲシナイダケダ」

「だったら何で、そんなに刻印だらけになるほど覚醒しちまったんだよ」

「気持チガイイカラ」

 ・・・だよな。

 問答無用の理由だよなぁ。

 ロニエスは頭を掻いた。


「覚醒スレバ強クナル。強クナレバ寄ッテクル奴ガイル。独リハ怖イヨ。・・・嫌ダヨ」

「お前・・・」

 ロニエスは剣を下げた。

 目の前の巨体が、普通の男に見える。

 覚醒を繰り返すごとに人は変わっても、誰かがヴノと一緒に居た。

 それが、身体じゅうに刻まれた「封魔の刻印」の理由。


 独りが怖い、嫌だ。

 それはロニエスにも痛いほど分かった。

「死ヌノモ怖イヨ、嫌ダヨ」

「俺もだ」


 ロニエスは思う。

 生きる事への貪欲さが、ヴァーサンクの本質だろうと。

 覚醒して理性を失い、欲望に正直になる時、食い物や女を漁りながら一番欲しているのは、生きてたいという切なる望みなのだ。

 それが本質なのだ、と。


 剣を下げていたロニエスの胴体めがけて、ヴノの拳が叩き込まれた。

 ロニエスは身体を折り曲げたまま飛ばされる。

「ぐはっ!」

 咳と共に大量の血が吐き出される。内臓を痛めたのは間違いない。


「死ヌノハ嫌ダ。・・・ダカラ、オ前、殺ス」

 ヴノの裂けた口が、ニヤリと笑う。

 ・・・で、これも本質なんだよな。

 ロニエスはまた思った。


「何て言ったっけか、じゃの道は細い・・・だったか?」

 ペッ!と、口に残った血を吐き捨てた。

 難しい言葉はファリーに聞かなきゃ分かんねぇよ。


 ドクン!と、自分の中の黒いものがまた脈打つ。

 身体から魔力が湯気のように上がる。

 胸の刻印が焼けるように熱い。

 辺りはかなり薄暗くなっていた。

 さっきまで海を照らしていた夕日が沈んでいる。

 どうりで腹が減ると思ったぜ・・・。

 ロニエスは血糊を振り払ってから、再び剣を構える。


「早く終わらして、ファリーと夕飯食わなきゃな。あいつ一人だと、菓子しか食わねぇからさ・・・」

 ドクン!と、ロニエスの胸から、黒い光が噴き出した。



 ファリーは懸命に走っていた。

 けれど、廊下にあちこちには吊るされていた照明が落ちていたり、飾ってあった調度品が倒れていたりで、なかなか思うように進めない。

 途中、何度かトリッチの手下と行き会ったが、彼らは逃げ出すので忙しく、ファリーを問い詰める者はいない。

 閉じ込められていたファリーには館の間取りが分からない。

 トリッチに連れ出された一度だけしか、部屋の外を歩いていないのだ。


 だがファリーが辿っているのは、おぼろげな記憶では無く、さっきから感じているロニエスの魔力だった。

 だんだん強くなっている。急がなければ・・・。


 また目の前に、立派な壷のようなものが、飾り台ごと倒れて割れていた。

 破片に気をつけながら歩く。

 もう、陽が落ちて暗い。余計に足元に注意しないと、転んでしまいそうだ。


 顔を上げた時、廊下のすぐ先に人影があるのが見えた。

 薄暗い中、こっちへ向かって来る。


 ロニ!

 月が上がってきたらしく、ほのかな光に、あの深い紅色の髪が見えた。

 良かった、思ったより魔力が安定している。

 強くはあるけど荒れてない。


 ファリーは走り出した。相棒の元へ。

 ・・・だが。


 足が止まる。

 ・・・熱い。

 燃え盛る炎にあぶられるようだ。

 でもそれは、本当に何かが燃えている訳ではなく、炎のような強力な魔力。


 ファリーは知っていた、この熱さを。

 だって、この手でずっと鎮めて来たのだから。

 立ち尽くして、自分へと向かって来る者の姿を見る。


 束ねてあった紅色の髪はばらけて、顔にかかっている。

 隆起した筋肉に破れた服が、ボロ布のように残っている。

 盛り上がった背中に、太い腕、太い足。

 端整だった口元は大きく裂かれて、呼吸する音が漏れている。

 髪の隙間から見える瞳は、発光しているかのように、妖しい鮮やかさを放っていた。


 覚醒・・・しちゃったんだね・・・。


 ファリーの目の前に立っていたのは、紅の髪をしたヴァーサンクだった。


To be continued.

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