第26話 岸壁の館
岸壁に打ち寄せる
空は晴れているが、今朝がたから波が高くなっていた。
海にせり出たバルコニーに立っていると、時折、岸壁に砕かれた波の飛沫が、霧のように身体にかかる。
「荒れるな・・・これは」
つぶやいてまた、カップに口を付けた。
旅の空も悪くないが、気に入りの茶をゆっくり味わえないのが難だと、トリッチは思う。
「存外、菓子は美味かったが・・・」
駄菓子もたまには悪くない。
そう思い返しながら、カップを受け皿に戻す。
「・・・ご機嫌ですね、トリッチ」
背後からの声に振り返る。
薄紫の長い髪をした魔道士が立っていた。
「そうかな?」
「随分と顔が緩んでいます。・・・めずらしい」
言われて、顔に手を当てる。
・・・そうかもしれないな。トリッチは軽く笑った。
「それで、どうだったのだオルガ。ラクマカの方は」
「早速、手配書が出ていました。魔法院としては人魚よりも、あのジェルジンとか言う生徒の行方を気にしているようです」
オルガと呼ばれた魔道士は、つぶやくような口調で答えた。
「これ以上、魔法院仕込みの魔道士を持って行かれては困るというのだろう。お前を奪われた事が、今だに尾を引いているとみえる」
「わたしは奪われたのではありません。自分の意思でここに居るのです」
表情を変えないまま、オルガが言った。
トリッチはその正面に歩み寄る。
「あの連中は信じたくないのだろう。大切に育て上げたオルキデアが、よもや自ら魔法院に弓を引くなど考えられないのだろうよ」
オルキデア。
その名を聞いて、魔道士の眉がかすかに寄った。
「その名はとっくに捨てました。押し付けられたレスネイルの一族名など、わたしたちには無意味でしょう?トリッチャード」
「そう・・・だったな」
トリッチはクックッと喉で笑った。
「オルファリ、と言うそうだ。あのファリーの一族名は」
「・・・えっ?」
「案外、お前の名を使われたのかもしれないと思ってね」
面白そうに笑い続けるトリッチを、オルガはじっと見つめていたが、
「サムガルヴァが動き出しています」
と、話題を切り替えた。
トリッチの笑いが止まる。
「ラクマカの役所に、進駐の認可を求める通達があったようで。進駐の理由は、大公国への反逆者の探索と
「反逆者ねぇ・・・依頼する時は媚びへつらって、分が悪くなると国家権力を持ち出して来る。小国の王とはいえ、その
呆れたという表情をして、トリッチは頭を振った。
「サムガルヴァは各国に駐屯地を持っていますから、時はあまりかからないでしょう」
オルガは波が立つ海の方に目を移した。
「館にはわたしの結界が張ってありますが、逆に言えば、ここが怪しいと札を立てているようなものです。・・・発見は時間の問題かと」
「こちらに有能な魔道士が居ると知られている以上、相手も相応の用意をして来ると考えるのが妥当だろうな・・・。もう一方の追っ手も気になるところだが・・・海に面した館とはいえ陸の上、直接手出しはできまい。だが、予定を繰り上げる必要がありそうだ」
カップに残った茶を飲み干したトリッチは、
「やれやれ、久し振りの館だというのに、ゆっくり茶を楽しむ時間も無いとはな。因果な商売だよ」
そんな愚痴を言いながら、足早に部屋の中へと戻った。
「・・・ウウ・・・」
低いうめき声に、トリッチの足が止まった。
声を発している者を見上げて、トリッチは口端をニヤリと引き上げる。
「金貨10枚とは・・・君も安く見られたものだね。悔しいかい?」
声は無い。
重い鎖が擦れる音だけが鳴った。
「私は、君の価値を正しく判断しているよ。・・・ヴノ」
壁に両手両足を繋がれたヴノが、光の無い目でトリッチを見下ろす。
服を着ていない上半身には、いくつもの黒い刻印が浮かんでいた。
「幾度もの覚醒と封魔を重ねたヴァーサンク。そして最強の魔力を秘めた人魚の身体。同時にこの手に入るとは・・・久しぶりに腕が鳴るというものだよ」
そう言って、トリッチは部屋を後にする。
残されたヴノは自らを縛る鎖に、ただ身を預けていた。
「あー」
声を出すと、石の壁に反響するのが面白い。
「あーあうあうあーあー」
部屋の真ん中に寝転がって、ファリーは高い声や低い声やを出して遊んでいた。
「トリッチのばーか」
言ってみた。
・・・反応は無い。
石でも投げてくれば面白かったのに・・・。
暇だった。
昨夜、初めてここで目覚めてから、ずっと閉じ込められている。
トリッチが出て行ったのと入れ替わりに、別の男がジェルジンを担いで行ってしまった。
今朝、食事を運んで来たのは、昨夜とはまた別の男だった。
どうやらここはトリッチのアジトであり、あのオルガとかいう魔道士の他にも、幾人か手下らしき者が居るらしい。
脱出はすでに試みた。
もちろん不発。
建物には「防御の結界」が張られているようで、試しにひとつ魔法をぶつけてみたけれど、何の効果も無かった。
中で使う魔法は支障無いようなので、魔法で扉を破壊しようと試みたが、扉が丈夫なのか傷ひとつ付かなかった。
そもそも杖が無いから、大した魔法は使えないし。
ならば、と何度か体当たりなどしてみたが、無駄に体力を消耗するだけだった。
壁にくり抜かれた窓は、戸板も無く、大雑把な格子が
直下は断崖絶壁で、荒々しい波が渦巻く海である。
よくもこんな所に館を建てたと感心するほどだ。
海を見下ろしていても、舟ひとつ通りすがる訳でも無い。
ゆえにする事がなく、ファリーは暇を持て余していた。
「トリッチの間抜けー、悪趣味、エロじじい」
思いつく限りの悪口を並べるが、程よい反響があるだけで、何事も無い。
それも
「・・・ロニ」
相棒の名をつぶやく。
無事でいるだろうか、ちゃんとごはんを食べているだろうか。
きっと心配しているだろう。
心配で暴れているかもしれない。
起き上がって、膝を抱えた。
・・・もう、会えないのかな・・・そう思っただけで、涙がこみ上げてくる。
する事も無く、ぼんやりと窓を眺めていると、数羽の海鳥が、窓の縁にとまって羽を休めていた。
今朝、朝食のパンくずをやったのを覚えているのか、「キューキュー」と催促するように鳴いている。
「ごめん、食べるもの無いんだ。お昼をもらえたら、取っておいてあげるよ」
海鳥たちは「キューキュー」「クー」「キュキュー」と、それぞれに返事をする。
・・・あれ、今、鳴き声がおかしなヤツがいなかったか?
とまっている海鳥たちをよく見ると、頭や羽の間から、なぜかトカゲの尻尾らしきものが、パタパタと動いている。
まさか。
ファリーは窓に駆け寄った。
To be continued.
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