第3話 温泉宿

「黒く光る封魔の刻印!・・・お、お前・・・まさかっ・・・!」

「ヴァーサンクかっ!」

 問いに応えるように、ロニエスは雄叫びを上げた。

 それはまさに魔獣の咆哮ほうこう

 地響きを伴って辺り一面に鳴り渡る。


 ヴァーサンク。

 それは狂人種とも称される魔族。

 普段は人間と変わらない力と容姿を持つが、覚醒し眠れる魔族の血が呼び覚まされる時、その凶暴さは、あらゆる魔族の頂点に立つとも言われている。


「ヴァ、ヴァーサンクだっ!」

「逃げろ!殺されるぞっ!」

 ファリーを捕えていたドロフたちは、人質ファリーを放っぽり出して逃げ出し、怪我をして転がっていた者らも、互いに支え合いながら散って行った。

 身体を折り曲げ、全身で息を吐いたロニエスは、崩れるように地面に座り込んだ。


「ロニ!」

 ファリーが杖を掴んで駆け寄って来る。

 左手を胸の刻印に押し当て、杖を持った右手を添えた。

「荒ぶる魂よ、神の吐息に包まれ猛りを鎮めよ。シャニカズダレオマ」

 呪文と共に、白い光が発せられ黒い光を包み込んだ。。

 すると、光も刻印も肌に吸い込まれるように消えて、うっすらと赤い傷だけが残った。

 ロニエスの呼吸も、次第に落ち着きを取り戻す。


「・・・大丈夫?」

「ああ、助かった」

 ロニエスは再度整えるように深く呼吸する。

「お前こそ大丈夫か?レスネイルの身体の事を知っている奴がいただろ」

「あの足で魔法院に告げ口しに行くとも思えないけど・・・注意するよ」

「それがいい・・・さて、と」

 頷いたロニエスは、剣を支えに立ち上がった。


「おい御者ぎょしゃ!終わったからとっとと出て来い!」

 すっかり腰の引けた御者が、這いつくばるようにして馬車の陰から出て来る。

 だが感心に馬を放さずに居たらしい。

 ファリーが御者と馬の様子を確かめた。大事は無いようだ。


「ばあさん大丈夫か?びっくりして心臓止めてたりして無ぇよなあ?」

 開いた馬車の扉からロニエスが中を覗く。

「ああ生きてるな、よしよし。馬車を戻すからちょっと手ぇ出してくれ」

 言われて夫人はビクリと身体を震わせる。

 馬車の中に隠れていたが、外の様子は全て分かっていたようだ。


「早くしてくれ、日が暮れちまう」

 チッと舌打ちして、ロニエスは扉から身体を入れ込むと、夫人の首根っこを掴み上げた。

「よっ・・・と」

 夫人の身体は猫の子でも扱うように軽々引き上げられ、ロニエスに抱きかかえられていた。

 恐ろしい者だと分かっていながらも、夫人は間近にあるロニエスの容貌にうっとりしてしまう。

 そもそもこの二人に用心棒を依頼したのも、この端正な顔に魅かれてしまったからなのであり、自分を抱き上げる腕の逞しさ、破れ目から覗く胸の厚さ・・・自分の年齢があと半分も若かったならと、夫人の心はしばし妄想の世界に浸る。


 だが、ロニエスはまるで鞠でも放るように、夫人を地面へポイと投げ捨てた。

 尻餅をつかずに済んだのは、ファリーがかけた魔法がまだ効いていたからだ。

「悪いなばあさん。俺は女って奴が苦手なんだ」

 冷ややかに言ったロニエスは、横を向いている馬車の天井の方へ回り込み、手を掛けた。

「すみません奥様、彼は女性が不得手なもので・・・」

 破られた服をかき合わせながら、ファリーが宥めに来る。


「よっこらせっと!」

 ロニエスは掛け声ひとつで横倒しになっていた馬車を持ち上げ、勢いをつけてひっくり返す。

 馬車はめでたく車輪を下にして立ち直った。

 パンパンと手に付いた土を払いながら、ロニエスは何事も無いように御者台に登る。

 御者も馬を繋ぎ直して、ロニエスの脇に座った。

 ロニエス一人で重い馬車を持ち上げたというのに、驚いているのは夫人だけのようだ。

 人が乗っていたとはいえ、数人で馬車を引き倒したドロフたちと、どっちが馬鹿力なんだか・・・。


「さ、奥様。ネハーコまであと少しですからね」

 細い首に絞められた跡を残したまま、ファリーが呆然としている夫人に笑いかける。

 再び動き出した馬車は、前よりも上下の振動が激しくなり、ピシピシと不気味な音を発していた。

 流れ行く風景を眺めながら、・・・ああ、二度とひとり旅などするまい・・・と、夫人は固く心に誓ったのだった。



 夜空に赤と黒のふたつの月がぽっかりと浮かぶ頃、ロニエスとファリーはネハーコの温泉町を歩いていた。

 人気の温泉町は、高級ホテルから木賃宿まで渾然こんぜんと建ち並んでいる。

 その合間には、宿泊客をあてこんでの食堂や酒場があって、中から笑い声や音楽が漏れ聞こえていた。

 通りの角に佇む商売女たちが、争うようにロニエスに秋波を送っているが、肝心の当人は艶やかな女たちなど全く興味が無い。


「やっぱり新品は気持ち良いよねぇ~」

 汚れひとつ無いローブの袖で頬をさすりながら、ファリーはご満悦だ。

「そうか?俺は飯が美味かったのが良かったな」

 ロニエスも満足そうに腹の辺りをさすってみせる。


 ひと仕事終えて懐が温かくなったので、ドロフたちに引き裂かれたファリーの服を新調し、食堂でいつもより少しだけ豪華な夕食を済ませて、ふたりは今夜の宿を探していた。


「すごいね、どの宿も温泉の内風呂が付いているようだよ」

 あちこちの宿に掲げられた看板を見ながら、ファリーは目を丸くした。

「さすが温泉町ってやつだなぁ」

 ロニエスも感心したように頷いた。

 ならば、と、ふたりは手ごろな宿へと入って行った。


「はい、2名様ね。ええ、うちの宿は各部屋に内風呂を用意してありますよ。大浴場はありませんが、その代わりこの先の公共温泉には無料で入れますよ、大きいですよぉ」

 受付の男は、笑顔で答えた。

「へぇ、じゃあ俺はそっちに行ってみようかな」

 大きい風呂という話にロニエスは気を引かれる。

「そうしなよ。ぼくは内風呂でいいから」

 ファリーが宿代を支払いながら言った。

「はい、毎度。じゃあそれをひとつ持って行って下さいね」

 愛想良く笑う男が指を差した場所には、いくつもの大きなたらいが重ねて置かれていた。


「・・・内風呂って、これかよ」

「まぁ、気前の良すぎる話だとは思ってたけどね」

 部屋の床にに大きな盥を据えて、ロニエスとファリーは苦笑と共にため息をついた。

 それでも廊下に出れば、屋内でありながら吐水口とすいこうがあって、こんこんと温泉を吐き出している。

 そこから湯を汲んで盥に張って行くと、風呂らしく見えない事も無い。


「だまされたみたいだけど、これはこれで悪くないかも」

 盥のお湯に手を浸しながら、ファリーは嬉しそうだ。

 そんな相棒を軽く笑って、ロニエスは立ち上がった。

「じゃ、俺は公共温泉とやらに行ってみるかな」

「部屋に結界張っちゃうから、開ける前に声かけてね」

「相変わらず厳重だな。・・・まあ昼間の事もあるし、用心に越した事は無いさ。俺ものんびりしてくるからゆっくり浸かってろや」

 ひらひらと手を振って、ロニエスは鼻歌まじりで部屋を出て行った。


「さて、と」

 ファリーは部屋の窓という窓の板戸を閉め、部屋に結界を施した。

 これで部屋の中をうかがう事はできないし、無理に押し破ろうとすればその者は衝撃波しょうげきはで弾かれる。

 テーブルに置かれた蜀台の灯りを吹き消して、ファリーはやっと服を脱ぎはじめる。

 戸板の間から細く差し込む月明かりだけの薄暗い部屋で、ポチャリと湯に入る音が立った。


 腰を盥の底に付けると、半身が湯に浸かる。

 それだけでも温かく、ファリーは気持ち良く息を吐いた。

 腕や足には、昼間ドロフに付けられたあざがうっすらと残っていた。


 本当に昼間は危なかったよね・・・。

 戦闘が厳しいのは珍しい事では無い。

 ロニエスの攻撃力とファリーの魔力で、いくたびもしのいで来たからこそ今日がある。


 そうではなくて・・・。

 身体を暴かれて、レスネイル族と知られてしまった。

 魔法院なんかに連れて行かれたら、また籠の中へ戻されて二度と外に出られなくなる。

 だからこうして、身体を見られないように再三の注意を怠らない。

 事情を知っているロニエスも、庇ってくれるけれど、時々ああいった好色な輩に狙われてしまう。

 特にここ最近は多いような気がする。

 ・・・それは、もしかして・・・。


「・・・でも、昼間で本当に良かった」

 手ですくった湯を肩から流す。

 湯はふたつの丸い膨らみを通って、くびれた腰に流れ落ちた。

 細い月明かりにぼんやりと照らされたファリーの裸体は、若い女性のそれであった。


To be continued.

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