第二話 Dear My Heroine
半強制的に意識を覚醒させる忌々しい電子音が耳元で鳴り響いていることに気付き、嫌々ながらも目を覚まして直ぐに上半身を起こしてからスマホから流れる電子音を止める。朝が弱いが故に寝たままそれを止めてしまうと直ぐに二度寝をしてしまうからこそ得た技だ。
ひとつ息を吐く。寝起き故にまだぼんやりと霞がかった頭を動かし、先程アラームを鳴らし続けていたスマートフォンを手に取り時間を確認する。時刻は朝六時半。
学校が徒歩圏内の人間にしては相当に早い起床だろう。何も無ければ私だってこんな時間に起きたりなんかはしない。そもそも朝早くに起きることは苦手なのだから。
そんな、朝に弱い私がこんなにも早く起きるのには勿論理由がある。
私の親友、市ノ川乃恵を起こしに行く為だ。
いや高校二年生にもなって友人に毎朝起こしてもらうのもどうなのかと言いたくなる人もいるだろう。その気持ちも十二分に分かるのだが、私がそんなことをしているのには理由がある。
一先ず、彼女を遅刻させない為にも準備をしながら昔の事を少し思い出すことにしようか。
昔話をしよう。
と、始めたはいいものの昔と言ってもほんの十数年前の話だからむかしむかしとは言わないのだが、それでも私がまだ幼く、幼稚園に通っていた頃の話。
今でも鮮明に思い出せる。私はあの頃人見知りが激しく、幼稚園に行ったとしてもよく遊ぶ相手なんて本当に信頼している先生くらいなもので、同い年の子で私と遊んでいた子は居ないような、そんな寂しい子供だった。
私のその人見知りと言う特性を察したのか、もしくは一緒にいてもつまらないからか、どちらかと言えば後者だと思うが、そんな私の周りにわざわざ寄ってくるような子も勿論居なかった。
だが例外という物はどこにでもあるらしく、一人で居た私の元へと何かしらの玩具やらお菓子やらを持ってやってくる子が一人だけ居たのだ。それこそが件の彼女、市ノ川乃恵。
今にして思えば彼女の第一印象はただただ鬱陶しい。それだけだったのかもしれない。
昔のことを思い出したせいか、何だか今とのギャップに可笑しさを覚えクスクスと笑みがこぼれていく。
そのうち着替えを済ませ、下の階へと足を運んだ。
朝早くに両親は仕事へと出て行ってしまう為、朝食はいつも机の上にラップがかけられて置いてある。今日はトーストらしい、生で置いてあるという事は、自分で焼けという事だろう。
こうして一人で朝食を摂るのは中学に上がってからずっとだから、今更何も思う事など無いがそもそも彼女の家に毎朝向かうのは矢張り心のどこかで寂しさを覚えていたからなのだろうか……。
答えの出ない自問自答をするよりも先程の昔話の続きをしようか。勿論、朝の用意はそつなくこなしながら。
そんなこんなで私と彼女は、最初こそ、そこまで仲が良い訳ではなかった。むしろ嫌っていた迄あるのだが、それでも彼女は毎日私の元へ来ては延々と私に話しかけ遊びに誘い、それを私は無視して時折怒って……。そう思うと私はだいぶ酷いことをしてたような気がするが……。まあ何と言うかそんな日常を過ごしていたのだ。このままであればきっと私達は仲良くなることは無かったと確信出来る、そんな日常を。
だが、私達の関係がガラリと変わる転機は唐突に訪れた。
ある冬の寒い日、私はいつものように幼稚園に通い日常を送っていたのだ。だがその日は体調がとてつもなく悪かった。自身の体調を把握している今だからこそ言えるが、明らかに風邪をひく前兆のような寒気を感じていたのと、視界は朦朧としていた事をよく覚えている。
そんな中、先生からは外で遊ぶことを促され、あまり出たくはなかったが渋々いつも通り一人で遊び始めてからすぐに私は倒れたのだ。
一人だったから、友達とは居なかったから、誰も私の異変には気付かなかった。
酷く冷たい地面の感触は齢一桁の少女にとって、得体の知れない恐怖を植え付けるには十分過ぎた。
呼吸は苦しく、声を上げて泣くことも出来なかったから、もう誰にも気付かれずにこのまま死んでしまうのではないかと感じたその瞬間、朦朧とした視界の中で私の元へと駆け寄る一人の少女の姿が見え、それからすぐに私の意識はブラックアウトした。
後から聞いた話ではあるが、あの後私の異変に気付いた乃恵が泣きながら先生の元へと助けを呼び、救急車で近くの病院へと搬送され事なきを得たという。
病院での診断の結果はインフルエンザ。本当に命の危機だったというのだから恐ろしい話だが、適切な治療を受ければすぐにそれも快復した。
しばらくして私が幼稚園に復帰すると、すぐに彼女は私の元に駆け寄ると抱き着いて泣き出した。まるで自分のことかのように。
その瞬間、今までの彼女への行いへの罪悪感と、それでもなお彼女が私の傍に居てくれた感謝の感情は雫となって零れ落ち、二人して抱き合いながらわんわんと泣いたのだった。
あの日から彼女は真の意味で私にとっての命の恩人だった。彼女には誠意を持って接しようと幼心ながらに誓ったのだ。
懐かしい思い出に浸りながらも、用意を済ませた私は家を出てゆっくりと彼女の家へと歩き始める。家までは徒歩十五分程度。遠い訳では無いが決して近いわけでもない。耳につけたイヤホンから流れる音楽に身を任せながら私はまた思考を回す事にした。
さて、今まで話したのが私と彼女の一番最初の出来事の話。だが私が今こうして毎朝彼女の家へと足を運ぶようになった理由では無いのだ。
では何故そんな話からしたのか、と聞かれたら話したかったからとしか答えようがない。特に深い理由も無いために気にするべきでは無い。
毎朝彼女の家に足を運ぶ理由が出来た、いや、私が彼女の隣に居続けようと、彼女を守ろうと決めた事件は今から丁度十年前に起きている。
その日、彼女は珍しく友人と公園で遊ぶ約束をしていた。確か彼女の周りに集まっていた男女数名と彼女といった構成だったのを覚えているが、正直この話にとってその男女数名がどんな人物だったかはどうでもいいと言えばどうでもいい。ざっくばらんに説明すれば彼女が友人と思っていた男女数名は全て彼女に対して、くだらない敵対心を持っていた。という位だろう。
又聞きではあるが、彼女が周囲に比べると大人しく、モジモジとしているのが気に食わないから、だとかそんな本当に些細な事のせいらしいが、当時にしても今にしても何故そんな小さな事で個人に対して敵対心を持つ事が出来るのかは私には理解が出来ない。
正直、だからこそ彼女がその友人と言った男女数名と遊ぶと彼女の口から聞いた時、
「大丈夫なの?」
と、聞いてはいたのだが、どうにも彼女は自分自身がその数人からどう思われているのか把握していなかったようで、満面の笑みを顔に浮かべてから、
「優しい子達だよ!」
だなんてそんな応えを返して、私の心配もよそに遊びへと出掛けてしまったのだ。
当然、その日は不安で仕方がなかった。遊んでいるという公園まで少し様子を見に行こうかと思ったが、結局それもせずに、その頃にはもう私の人見知りも収まり、ある程度気の許せる仲間は数人出来ていた事もあり、友人とたわいない会話をしてから帰宅しようとしていたのだ。まあ、なんやかんや言ったところで彼女は年下という訳でもない同い年なのだから、変に心配し過ぎて鬱陶しく思われる方が嫌だったのが本音。……結果から見ればこの判断は間違えていたのだが……。
もう日が落ち始め、子供達に帰宅を促す放送が流れそうになった頃に自宅近くの住宅地を歩いていた。そんな最中、不意に目の前に現れたのは彼女が遊んでると言っていた筈の男女数人の姿で、そこには彼女の姿は見当たらなかった。
その時感じた血の気が引くような感覚は今でも鮮明に覚えている。
彼女の身に何かあったんじゃないか、それを目の前の数人は置き去りにしたのか、それとも彼女の身に何かをした張本人なのか、だがそんな事を考える暇もなく、足は既に彼女達が遊んでいたであろう公園へと向けて走り出していた。
一心不乱に走り続けていた私の頭の中に浮かんでいたのは一人泣きじゃくる彼女の姿。もしも彼女が今一人で居るのならば、泣いているのならば傍に居てあげたくて、そんな思いだけを胸にしばらくしてようやく辿り着いた公園には誰も居らず、辺りを見回してもそれらしい人影は見当たらなかった。
思い違いかとため息を吐いたその瞬間、声が聞こえたのだ。
か細く、震えた声で、「助けてよ……ヒーロー」と。
それは公園の中央のドーム状の遊具から聞こえていた。何故そんな所から声が聞こえるのかもわからなかったが、そちらに駆け寄ればそこには膝を抱えてしゃがみこむ彼女の姿があった。
身体を震わせながら小さく嗚咽を漏らす彼女に
「なにしてんの」
だなんてぶっきらぼうに言いながら手を差し伸べると、涙でぐしゃぐしゃになった顔でこちらを見てすぐに手を取ると私に抱き着き、抑えがきかなくなったのか声をあげて泣き出した。
そのまま私は彼女を優しく抱き締め、彼女のその情動を受け止める。それから数分泣き続け落ち着いた頃にはもう辺りは大分暗くなってしまっていた。
しばらくして完全に落ち着いた彼女と共に手をつないで家路に着く。その中で彼女が私に向けて放った一言が今でも忘れられないのだ。
「菜穂ちゃんって、ヒーローみたいだよね」
今でも鮮明に脳内に記憶されたその言葉。
彼女は、私をヒーローと呼んだのだ。
私にとってのヒーローは彼女だと言うのに。
いや、もうその頃の彼女はヒーローと言うよりかはヒロインと呼んだ方がしっくり来るような、そんな可憐で儚い出で立ちをしていて、心もまたヒロインと呼ぶに相応しい清らかさをしていたから、私はそれに落ち着かせたのだろう。
私と彼女の関係は友人だと。そしてヒーローとヒロインなのだと。
だが私は幼心ながらに彼女にとってのヒーローであり続けることは出来ない事を理解していた。
もしも私がヒーローで彼女がヒロインならば、ヒーローとヒロインは結ばれるものだと相場が決まっているのに、私達はお互い恋心なんて持つはずの無い女同士なのだから。
それでも、仮初のヒーローだとしても、私にとっては嬉しかった。ようやく彼女に恩返しが出来るのだと。だから私は誓ったのだ。
彼女が本当のヒーローを見付けるまでは、仮初のヒーローたる私が彼女の側にいて彼女を守る、と。
電波チックで厨二臭いそんな妄想は、今思うと少し小っ恥ずかしく馬鹿馬鹿しいが、それでも根本は変わらない。十年経った今も尚、朝に弱い彼女を毎日こうして遅刻させないように起こしに向かっているのが良い証拠だろう。
さて、長々と話したが昔話はこれでおしまい。
そんな昔の事なんて彼女はきっと覚えていないだろうけれど、それでも私にとってはその後の人生を決める程に大きな出来事であった事は変わりなかった。
何だかこんな話を勝手に私自らしておいて申し訳ないが酷く恥ずかしいというか、端的に言うと、とても頬が熱い。
頬の紅潮と共に上昇していた心拍数を下げる為に深く息を吸って吐く。ようやく通常通りの私になった頃に彼女の家へと辿り着き、いつものように玄関ドアを何度かノックした。
「はーい、おはよう菜穂ちゃん」
声と共に開かれた扉。家の中から出てきた彼女の母親はいつものように朗らかな笑顔で私を迎えてくれた。
「おはようございます、乃恵まだ寝てます?」
「ぐっすりよ……。本当に毎日毎日ありがとうね」
苦笑しながら私を招く彼女に着いて行き、そのまま家に上がる。
「お邪魔します」
「はーい。あ、乃恵起こす時に朝ごはん出来てるって伝えて貰っていい?」
「はい、分かりました」
「ありがとう、よろしくね」
そんな会話の後にリビングの方へと消えていった彼女を見送り、乃恵の部屋へと歩き始めた。
もう何度も訪れ見慣れてしまった乃恵の部屋、中学生の時に比べればある程度落ち着きを見せた高校生らしい部屋だとは言えるが、所々散りばめられたようにパステルカラーのぬいぐるみやら雑貨やらが置かれ、まだまだ可愛らしい少女らしさが残っているのが見受けられる、そんな部屋の最奥に壁に沿うように置かれたベッドで彼女はすうすうと安らかな寝息を立て眠りについていた。
もう私に起こされる事が確定しているからだろうが、目覚ましをかけた痕跡は見当たらない。
彼女のすぐそばまで歩くと、私の接近にも気付かず幼子のような可愛らしい寝顔をした彼女の髪を優しく二度三度撫で、擽ったそうに身じろぐ彼女に微笑みながら肩を叩く。
「乃恵、起きて」
「んぅ……」
「乃恵、ほら遅刻するわよ」
「んー……」
夢現の中彼女が薄く目を開くと、そのまま私に向かって手を伸ばす。彼女の手を取り上半身を起き上がらせれば、ようやくある程度は意識が覚醒したのか、
「おはよぉ……菜穂さん……」
と、舌っ足らずな甘い声で呼びかけてきた。
「おはよう乃恵。ご飯出来てるって、早く準備して下行くわよ」
「あい……」
今日は随分と素直に起きてくれたがまだ意識も朧気なのだろう、フラフラとした足取りでクローゼットへと向かっていく。転んでしまうのではないかと心配になったが何事もなく辿り着き彼女が着替えを始めたのを確認してから胸を撫で下ろし、私は下の階へと降りて行った。
「お、乃恵は起きた?はいお茶」
リビングへと向かうとすぐにお母さんがそんなことを聞きながら、私を椅子へと招いていた。
「ありがとうございます。ちゃんと着替えてましたから、そろそろ下降りてくると思います」
「良かった良かった。……でもあの子、偶に着替えながら寝てたりするのよね」
「いやまさか……」
お互い目が合い、抑えきれなくなって二人ほぼ同時に吹き出し笑い合う。丁度そんな話をしてる頃に乃恵がリビングへとやってきたのだった。
「おはよう……ってなんでそんなに朝から笑ってるの」
「なんでもないわよ、ほらご飯食べちゃいなさい」
クスクスと愉快そうにお母さんが乃恵にそう言って、キッチンへと向かって行く。
「……よくわかんないけど、取り敢えずいただきます」
乃恵が朝食を食べ始め、程なくしてお茶を持ってきたお母さんが乃恵の目の前にそれを置くと、また私の前に座りたわいない会話を始める。
何も知らない人がこの光景を見れば不思議に思うのだろうが私にとってはこの時間が、この日々が、幸せ過ぎる日常なのだ。
しばらくして朝食を食べ終わり、朝の用意を終わらせた彼女を待って、二人揃って家を出る。
「乃恵、菜穂ちゃん。行ってらっしゃい」
そう言って見送ってくれるお母さんに手を振って、私達は学校へと歩き出した。
閑静な住宅街を歩いてしばらくすれば、私達の通う高校は見えてくる。
時間にして二十分はかからない程度で、朝の眠気を吹き飛ばすには丁度良い距離だ。
「乃恵、昨日はありがとうね」
ふと、昨日彼女を巻き込んで私の友人二人と一緒に遊んだ事を思い出し、改めて彼女にお礼を伝えると、
「へ?」
呆けたような返事が聞こえて来て苦笑する。
「莉子さんと恋乃葉さんと遊んでくれたでしょ?凄い喜んでたわよ」
そう言うとようやく理解したのか、彼女は嬉しそうに笑い始めた。
「良かったぁ。莉子さんとはほぼほぼ初めて話したけど優しくて話しやすい人だった」
「心配いらなかったでしょ?また遊びたいって言ってたからその時はまた乃恵を呼んでも大丈夫……?」
「うん!」
「ありがとう」
そんなたわいない会話をしていれば時間なんてあっという間に過ぎていき、私達は高校へと辿り着く。
昇降口を抜け、上履きへと履き替えクラスの違う私達はここで一旦のお別れ。手を振って私を見送る彼女に手を振り返せば、私の学生生活が始まる。
「菜穂ちゃんおはよ!」
教室へ入れば既に私の机の近くに居た莉子さんが私を見付けてこちらに声をかけてきた。
「おはよ、莉子さん。あれ恋乃葉さんは?」
「先生の所行ってたから……多分提出物かな?」
「朝から大変ね……」
自分の席に着くと、彼女も私の前の席に座り始める。そこは彼女の席というわけでも無いが、まだその席の主も登校していないし問題は無いだろう。
「あ、昨日本当にありがとうね。姫ちゃんと話せて嬉しかったし楽しかったよ」
「いえいえ、乃恵も喜んでたから。また誘って遊びましょうか」
「うん!」
しばらく、そんな会話をして朝のホームルームが始まり、それからすぐに一時限目が始まる。
今日も平和で、何事もない一日になるのだろうとそう思っていたのだ。その思考も三時限目休みに簡単に壊されることになるのだが。
きっかけは些細な一言だった。
「姫ちゃん、一個前の休み時間にクラスの男子に放課後話せないかって呼び出されたらしいよ?」
休み時間の度に私の元へとやってくる莉子さんからのそんな言葉。
それから数秒間、完全に私は機能を停止してしまう。
乃恵が男に呼び出された。学校生活を過ごしていればよくありそうなただそれだけの事なのに、それでも何故かそれがとても大きな事のように感じて、結局彼女のその言葉に明確な答えも出せず、四時限目始業のチャイムが鳴り始める。
離れ際、彼女がボソリと、
「告白……かもね」
だなんて私に呟き、それから、
「冗談だよ」
と悪戯っぽく笑って自分の席へと帰っていく。その言葉が私には冗談には聞こえず、ただただ深く響き続けていた。
授業中、頭に入ってくる情報なんて一つも無くて、頭の中は乃恵の事だけで埋め尽くされていく。
正直自分でも分からなかった。どうしてこんなにも彼女が放課後男と話に行くのが嫌なのか。たとえ告白だったとしても、そもそも私は彼女にとっての親友で、たとえ彼女が今でも私の事をヒーローだと思っているのだとしても、それは仮初の物なのだと分かっているのに。そもそも冗談混じりにとは言え、私自身昨日彼女に彼氏が欲しくないのか、なんてそんな軽口を叩くような事をしていた筈なのだ。
どれだけ考えても答えは出ない。だが明確に彼女が私から遠のいてしまっているような気がして、心底気味が悪かった。
それだけならば不安で済んだのだと思う。
時間だけは人の気も知らずいつも通り流れ続け、昼休みにさしかかる。未だに呆然としながらも買ってきた菓子パンにかじりついた。味なんてしない、いや味なんて分からなかった。
「菜穂さん」
不意に聞こえた彼女の声。いつものように彼女が私の隣で昼食を食べに来たらしい。
「いらっしゃい。授業どうだった?」
咄嗟にそんな興味も無い事を聞き紛らわす。流石にこんな姿彼女に見せる訳にはいかないから。
「いつも通り、予習してるからつまらないなーってくらい……?」
「相変わらず優秀さんですね」
クスクスと笑う彼女は幸せそうで、先程の莉子さんの一言が嘘だったかのようにいつも通りだった。
だが矢張り、得体の知れない気味の悪さは私を侵す。正直上手く笑えていたかすらわからなかった。それでも彼女を不安にさせたくなくて私は表情を出来る限り笑顔にする事に徹する。
不意に彼女がひとつため息を吐いた。何事かと思い彼女の顔を見れば、何処か困ったような笑顔を顔に浮かべ、
「なんか……放課後呼び出しくらったんだよね」
そう言って私をじっと見詰める。現実はどうも私に甘くは無かったらしい。
どう返そうかと頭を回し、一つの言葉にたどり着く。
行かないで。
そんな言葉が咄嗟に頭の中に浮かんだのだ。ようやく私はこの気味の悪さの正体を理解した。何を恐れているのかも。
理解してみればとても分かりやすい事じゃないか。そこに行ってしまったら彼女は本当のヒーローを見付けてしまうかもしれないと、彼女の隣に居られなくなるとそれを恐れていただけ。
自分自身が仮初のヒーローだと自認している癖に、傲慢にもまだ彼女の隣に居ようとする自分自身の愚かさに辟易した。
だからこそ、私は、
「そう……行ってらっしゃい」
そう言って、彼女を出来る限りの笑顔で送り出したのだ。
私が彼女を止める権利なんて無いのだから。
予想外の返事だったのか彼女は目を丸くすると、それから私に返すように笑い、
「うん」
とだけ返事を返して、それから昼休みは終わった。
それから五、六時限目と授業はあったけれど内容なんて覚えていない。何も考えられなくなると時間という概念さえも消えてしまうようで、気が付けば帰りのホームルームも終わり、教室には私だけが取り残されていた。
友人達は部活かバイトだろう。そんな些細な事を考えるのにも数秒を要する。それ程迄に乃恵に起きた出来事は私の心を揺るがしたという事だろう。
彼女のヒーローであることは、彼女の隣に居られる事は、私にとって最大級のアイデンティティーだった。
それが失われかけた今、もう私には残るものが無くなりかけているのと同義なのか。
私が彼女を守るつもりだったのに、いつの間にか彼女に依存していたんだ。
嗚呼なんて滑稽な。そう頭に浮かぶ度に乾いた笑みが口から漏れる。その度に瞳からその乾きと相反するような水気が溢れ頬を伝った。
「嫌だなぁ」
そう、自然と声が漏れた。最早何に対する拒否なのかも分からない。
そんな中唐突に視界は光に包まれる。傾き、夕陽の濃い橙色へと変化した太陽が私を照らす。それは嘲笑うかのように色鮮やかで、なんの悩みもないようにさえ感じてただただ笑うしか出来なかった。
ガラリと教室の扉が開く音が聞こえる。どうせクラスの誰かが忘れ物でもしたのだろう。気にせず私は沈む夕陽を見つめたまま居ると、
「ごめん!用事終わったから……一緒に帰ろ?」
今日はもう聞けると思っていなかった彼女の声が聞こえてきたのだ。
驚きのまま声のした方向に顔を向ければ、息を荒くしながら申し訳なさそうな顔で私を見詰める彼女の姿が。
先程聞こえた声は幻聴では無い。今見えているものは幻想ではない。そう確信した瞬間、
「い、いいの……?」
そんな、震えきった間抜けな声で返してしまう。
「なんでそこ疑問形?良いに決まってるじゃん」
「そ、そう……。じゃあ……帰りましょうか」
未だ信じられない光景に瞬きを繰り返しながら、それでも何処か諦めた感情のまま、私達は学校から出て家へと帰り始めた。
それからはいつものように、くだらない話をし続けていた。彼女が私に思い思いの話をしてくれる。私もそれに反応を返したり、自分の話を彼女にして時間と情報の共有を重ねていく。ただただ幸せだった。
だが矢張り頭の中に残り続けていた思考は段々と大きくなり続けていた。最初は彼女が告白されているかもしれない、程度の確証のない物だと言うのに、今となってはそれが確定した事実のようにすら感じてしまっていたのだ。
お互いの話の種も尽きた頃、思い立ったように、
「にしても……乃恵に先行かれちゃったなぁ」
と、そんな事を呟く。きっと私自身希望を持ちたくなかったのだ。突き放されるならば、居場所が無くなるのならば、曖昧なものであって欲しくなかったから。
「え?何が?」
「告白されたんでしょ?今日」
「えっ、私その話したっけ?」
その言葉に驚いたのか目を丸くした彼女が私を見詰めている。矢張り私や莉子さんの予想は当たっていたらしい。女の勘も馬鹿には出来ないものだと改めて感じた。
「見てればわかるわよ。でも良かったじゃない彼氏出来たんでしょ?」
それは最早諦めの境地。彼女の口から真実が語られないのならば自分自身で決着をつけようと私がそう言った瞬間、今までの優しかった彼女の表情は一転し、人を射殺せそうな程鋭い目付きで私を睨みつける。
「いや、断ったけど」
そう言い放った彼女の声はいつも通りの甘ったるい声とは違っていた。何処か刺々しい苛立った声で否定する。
予想外の一言に驚き、先程まで諦めていた感情がまた息を吹き返す。だが一度持った疑念はそう易々とは消えないものだ。だからこそ、
「え、なんで……?」
確認のようにそう問いかけると彼女は呆れきった感情を隠しもせずため息を吐く。
「なんでって……、好意どころか興味すら湧いてない人に唐突に告白されて、はい良いですよ。って言えるわけないじゃん」
そう言ってまた私を睨みつける。明らかに彼女の逆鱗に触れているのだが、その当の本人たる私は目の前に提示された、まだ私が彼女の隣に居続けられる現実という名の希望に目を輝かせ、それに気付けていなかった。
「そう……私てっきり……」
そんな浮ついた言葉が無意識に口から漏れてしまう。私は歓喜していたのだ。ふわふわと身体が浮かび上がるような感覚すら覚えていた。
「んなわけないじゃん、って言うかそもそも私の好きな人は……」
不意に耳に届いた彼女の言葉はそこで詰まり、ようやく私は落ち着きを取り戻す。何を言い出しているのかその瞬間は分からなかった。ただ何か取り返しのつかない物が動き出しているような気がして寒気を覚えてそれから数秒、彼女は私の目を見詰めて意を決したように、
「菜穂さん……なんだから」
ハッキリとそう言ったのだ。
何度も反芻するように言葉を頭の中で繰り返す。それでも矢張り理解が追いつかなかった。
彼女が私の事を好きと伝えてくるのは別にこれが初めてではない。だがそれは友人としての好きだとそう感じていたのに、今の彼女から伝えられたその言葉はどうにもそうは思えなくて、彼女の顔を見詰めてそのまま私は何も言えずにただただ立ち竦む。
それから数秒、私達の間に沈黙が流れた後に、彼女は何も答えることのできなかった私の元から走り、何処かへと駆けて行ってしまったのだ。最後に見た彼女の頬には一筋の水滴が伝っていた。
彼女を止めることも出来ずにその場に残り続けてからどのくらい時間が経っただろう。
彼女と私の間にいつの間にか出来上がっていた大きな認識の差異を唐突に見せ付けられたような、そんな感覚。
私にとって彼女は守るべき存在だった。
だが彼女にとっての私は恋慕の対象だった。いつからかその感情を抱いていたのかも分からないけれど、それでも彼女は私にそれを伝えてくれたのだ。
そこまで思考してようやく私は一つの答えに辿り着く。
「はは」
分かってしまった瞬間、口から漏れたのは笑みだった。何も難しいことなんて無かった。答えはもっとシンプルだったんだ。
「本当に……私達って馬鹿ね……」
続け様に口から漏れた本音、それと共に気付けば私は彼女の元へと走り出していた。
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