第8話 酒とおはなし

 矢野が指定したのは駅近くの飲み屋の一つだった。

 仕事をしていたときは何度か足を向けたが、結局飲むことは数回だけだった。どうしても、食べ物の濃い匂いがいやだったのと、飲み屋近くはキャッチやらが多くて落ち着かない雰囲気だからだ。

 今夜も、すでに酔っ払いたちが楽しそうに笑いあったりしている傍らでキャッチが客を捉まえようとあれこれと声をかけている。騒がしくて、昼間よりも活気がある。不思議な感覚に陥りながらネオンのまばゆさに目を細めながら向かったのは、そうしてうるさい飲み屋が軒を連ねるなかにぽつんとある【久保】という暖簾を出したいかにも日本料理の店だ。

 ドアを開けると、カウンターと座敷があり、矢野はカウンターの奥にいて手をひらひらとふってくれた。

「何飲む?」

「酒」

「おい、ビールか、日本酒か、とか選べよ」

「すまん……じゃあ、」

 酒にも味はあるのだろうか。今までアルコール関係はひたすら飲んでも、まぁこんなものかと水みたいに飲んでいた。味覚がないのだから水と同じだ。ただのど越しがひりひりしたり、じわっとしたり、熱くなったりは覚えたことがある。

「……」

「どうした?」

「お前のおすすめで」

 矢野が驚いた顔をして政を見たあと、ふっと口元を緩めた。

「確か、酒は強かったな」

「酔ったことはないな」

「わかった。日本酒にしよう。大将」

 矢野が慣れたように注文するのに政は任せて椅子にわが身を落ち着け、出されたおしぼりで手を拭った。

 矢野は先に着て、すでにつまんでいたらしい。

 手元には小皿が一つと、肉巻きみたいなものがある。

「はい。通し」

 と、カウンターの店主が差し出してくれた小皿は何か黒ぽいものがふよふよとしている。

「今日はたこわさ、お前得意だっけ。てか、ああ無理にたべな、あ」

 ぱくり。

 政は矢野の言葉を無視して食べた。

 つるっと口のなかにはいってきたタコはぴりっとした。わざひのぴりぴりとした辛さは鼻を通り抜け、爽快だ。そのうえ、こりこりとしていていつまでも噛んでいられる。そうしていると、とっくりで出てきた酒を政は一口飲んだ。つるりと口のなかにはいってきて、かおりの良さが広がる。

 ほっと息をついた。

「……ど、どうだ」

「おいしい」

「お前、食べられるようになったのか」

 矢野の言葉に政は目をぱちぱちさせた。

「俺が食べれないの知ってたのか」

「知ってるというか、なんとなく、みんな、お前は食い物が苦手なんだろうなぁとは思ってたよ」

 思っていたのか。できるだけ取り繕っていたもばれものだなと思う。いや、イベント事からは逃げるし、飲み会も参加しなかったのだから当然か。

「俺さ、小学生のとき、ちびでがりだったんだよ」

「うん?」

「食べるの苦手でさー。拒食っていうの? なんだろうな、頑固で、好き嫌いが激しいの。アレルギーとは違うんだけどさ。それのせいでいっつも昼休みまで潰してた」

「未だと学校が訴えられるやつだな、それ」

「いやぁ、まぁ、けどさ、昔はわりとふつーだったよな。食べれないやつが昼休み潰しても食べてるの。で、結局食べれないわけ。俺はそういうやつだった。いっつも泣いてたよ、食べるのめちゃくちゃ嫌いだったよ」

 けらけらと矢野は笑う。

「担任がさ、女なんだけど、いつも俺のことを見て呆れた顔をして、ため息つくの。そんでさ、この世には飢えた子供がいるんだぞっていうの。けど、そんなこと知ったこっちゃねーよ、ばかじゃねぇ? 俺は食べられなくて苦しんだよって」

 ちらりと矢野が政を見た。

「だから、なんとなくお前の食べるの苦手ぽいの、ああ、昔の俺だなぁと思ってさ、だからわりとお前を誘わなかったんだよ。ただ、お前がそれをどう受け取るかまで考えてなかった。お前わりと繊細だよな」

「そうか?」

「お前、自分が嫌われてるって言われたとき、あ、しまった。って思ったよ。こっちはお前にいやな思いしてほしくなくても、言わなきゃわかんなくて、お前は傷ついてるの。よくないよな。本当に食べるの嫌いなのか、ただ単なるグルメやろーなのか聞いてもねーし」

「グルメではないなぁ」

 生真面目に返事する政に矢野がぷぷっと噴出した。

 ちょうど、魚の煮つけが出されたのに政は箸を動かした。醤油のさっぱりとした味と、ほろほろと崩れる魚の身が実にうまい。

「お前のせいで左遷したあのバカさ」

「ばか?」

「元上司のこと。あいつは、はじめからお前に対してなんっーか、コンプレックスというかそういうのもってたんだよ。あいつ、自分の歓迎会のとき、お前来なかっただろう?」

「ああ、あれは」

 単純に食べるのが苦手で不参加にしたのだ。あの頃はもう会社では政の飲み会嫌いは同僚たちには知られていたので、気にすることはないと思ったのだ。

「その酒の席で、あいつ、お前に嫌われてるとか、なんとか、いろいろといってたんだよ」

「嫌う、嫌う?」

 思わず酒を舐めつつ政は小首を傾げた。

 一緒に仕事をして一週間ほどすぎてからの飲み会だったはずだ。その短い時間でどうやって相手を嫌うんだ。いや、嫌うのも好きになるのもそんなに時間は必要ないか。

 ただ嫌うといっても具体的に政は態度に出したことはないし、何かした覚えもないのだが。

「そこからあれこれといいはじめてさ、なんっーか、悪口だから具体的にはいわねーけど、なんだ、こいつ、思い込みやばいなってしてたら、あれだよ、お前の奥さんに手ぇだしたの」

「具体的にあの二人はどこで会ったんだ」

「ほら、夏の飲み会」

 ああ、あれかと政は思い至った。

 うちの会社は交流会もあるし、飲み会もある、夏には家族も参加できる形で海にいったりするし、冬はクリスマスパーティもある。

 去年の夏は幸子と参加したはずだ。政はそのときは雑用を任されて、あっちにこっちに走り回っていたが、その隙に二人は出会ったのか。

「なんか、あいつがお前の奥さんに親しくしていて、俺や別のやつがわりと割ってはいったのにさぁ」

「そうか、そういう事情があったのか」

「だからさ、悪かったな」

「……なぜ謝罪になるんだ」

「え、だって、いろいろと知っていても止められなかったし」

「もしかしてそのためにここに誘ったのか」

「あ、うん」

「バカかお前は」

 思わずストレースに政は口にしていた。

「そんなのはバカ上司と幸子がやったことだ。まあしかし、酒の席とはいえ、羽目を外して人のことを悪くいうのはいただけないな。それも本人がいないところでこそこそと、やっはり性根が悪い、今こういっている俺も性根が悪いな」

 早口でまくしたてるように口にして一気に酒をあおる。

 おいしい酒をこうも悪態をつきながら飲むのはよくないなと思ったが、アルコールに酔ってしか口にできないこともある。

 箸を矢野の手元に伸ばして、つまんでぱくりと食べた。

 豚肉でまかれた細長い野菜――ぴりっと辛くてうまい。そして酒をあおる。永遠に食べていられる。

「お前、よく食べるな。ほんと、なんかあったのか」

「ああ、いろいろと」

 本当にいろいろとあった。猫と夫婦だとか、狸に殺されかけたとか、キツネのオカマがいたとか――濃厚な一か月だった。おかげで離婚した痛手は吹っ飛んでいた。

「そうだ、一つ聞きたいんだが俺がこっちに戻るのは誰まで知ってるんだ」

「へ?」

「幸子が、元妻が住まいにいた」

「はぁ! まじか」

 矢野がのけぞったあと、あっちやーと天を仰いだ。

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