第6話 おいしいものと昔の

 男が連れてきてくれたのは、小さな店が軒を連ねる商店街だ。

 東京にもこんなところがあったのかと政は驚いた。いや、自分が決められたルート以外をほぼ開拓しなかったせいか。

 学生時代は寄り道なんてしなかった。唯一するとしたら図書館に寄ったり、本屋といったぐらいだ。服は母が買ってきたものを着ていれば問題なかった――申し訳ない話、ファッションにも興味がそそらなかったのだ。

 社会人になってもこれといって趣味があるわけでもないし、人と関わると食べることは避けられず、それがストレスになるので会社と自宅の往復ばかりしていた。

 なのでこんな松山の商店街を彷彿とさせるところがあるということにまず驚いた。

 そして、ここは活気がある。

 人が行き来し、歩くといい匂いがしてくる。たぶん味覚のないころは苦痛になる匂いだ。腹が刺激される。

 ヒラと名乗った男は、こっちこっちと手招きして小さな店の門をくぐる。

 硝子戸のそこは横にスライドするタイプで、動かすとがらがらと音がする。

 なかはこじんまりとした、いかにも個人経営ともいえる古びたテーブルと座敷のある作り。

 壁は長年のことでややすすけ、そこにいくつもの張り出されたメニューが手書きの――とても勢いのある文字で書かれている。

 ヒラは真ん中の椅子に腰かけ、政たちには前に座るように促した。

「化けないと食べれないだろう。ささ、はやく、店員が来る前に」

「はーぁい」

 猫が元気よく返事する。そういうときだけ愛想よくするのはいかがなものか。

「ここは深川メシがうまい。食べるといい」

「深川メシってなんですか」

「お前さん、四国から出てきたばかりか」

「政さんは、こっちの生まれですよ」

 と猫がさらりと教えたのにヒラが顔をしかめた。

「なのに食べたことない上に知らないのか」

「はい。まったく、一ミリも知りません」

「おいおい、江戸っ子だろうお前さん」

 ヒラが呆れた顔をして身を乗り出し、政を胡乱なまなざしを向けた。

「それじゃあ、人生の半分を損してる」

「そんなこと言われても、俺はこれのせいで味覚がなかったので」

「ほぉ、味覚が……そういう対価か。それはまた業の深いものだ。では、ここでは深川メシを食べよう。おねーさん、頼むぞ」

 はぁい、と顔を出したのはどうみてもおばあさんと言え年齢の女性だ。

「お前さん、名は」

「……犬山政と言います」

「犬か、ああ、猫の憑き物をつけているから反対のものにしたんだな」

 ヒラが納得した顔をするのに政は目をぱちくりさせる。

「憑き物筋がよく使う手だ。自分の憑き物がばれたくないから、それとは真逆の姓を名乗ってごまかすのは」

 指摘されて、ああ、と納得した。

 犬山とはどういう由来なのかなんて気に留めていなかったし、猫の憑き物がいるのにどうして犬が苗字についていのかと多少、気にかかったがそういうことか。

「憑き物筋はあまりよいものではないからな」

「よく知ってるんですね」

「憑き物筋といえば、呪師と似たもので、権力やらあれば誰もが一人は欲しがる、そういう類のものだ。彼らは身体的に優れていたり、未来をあてることができる。人が見えないものと会話し、人では成せないことを成せるからな」

 さらりと告げられると改めて政はここ数日の体験を思い出す。

 猫と出会ってから確かに非日常と関わることは多かった。神と呼ばれものとも接してきた。

「憑き物筋はそういう権力者たちを嫌い、いろんな方法で身を隠してきたのだ」

「あなたは見えるということは憑き物筋なんですか」

「違う」

 ヒラはきっぱりと否定した。

「私はそういう類のものではない。ただこの土地から離れられないものだな」

「それは、どういう」

「お、きたぞ」

 おばあさんが愛想よく笑って運んできた盆の上にはお茶碗が二つ並んでいる。

 一つは炊き込みごはん、もう一つは汁のついた炊き込みご飯、吸物、きゅうりの漬物、太く切られた赤身魚と白身魚の刺身、デザートらしき白子玉の上にはあんこがちょこんと乗っている。

「これは」

「アサリと米を炊いたものが、深川メシだ。漁師が作ったものだな。普通に炊きこんだものと味噌をかけたものだ。どっちも味わい深いぞ」

 ヒラが嬉々として食べ始めるのに、横にいる猫もごくりと喉を鳴らして箸をとる。

 政も空腹に負けて箸を手にとると、まずは炊き込んだそれをいただく。

 味つけは醤油ベースらしいがアサリの濃い海の味わいはさっぱりしているのに箸が進む。

 これだとぶっかけタイプも気になるとばかりについ隣のそっちに箸をまわす。味噌をぶっかけたタイプのそれは、アサリの他に人参、長ねぎをいれているらしく具が多い。一口食べると濃いとはっきりと感じる。味噌のとろりとした味わいと長ねぎのしゃきしゃきしている歯ごたえが食べごたえがある。

 きゅうりは塩がきいて、刺身はぷりぷりでわさびと醤油をつけると歯ごたえに胃が満たされていくのがわかる。

 つまり、ただひたすらに夢中で食べつくしてしまった。

「お、おいしかったですぅ」

「それはよかった。ものすごくうまそうにたべるなぁ」

「おいしかったんですもんっ」

 猫が勢いこんで言い返すのにヒラがからからと笑う。

「お前さんもうまかったか」

「はい。うまかったです。初めて食べました」

 政の言葉にヒラはうんうんと気前よく頷いた。

「そいつはよかったぁ。東京が生まれでも、その土地の食いもんを知らんというやつは多いからな」

「そうですね、東京がまさか魚がおいしいとは」

「もともと、海に近い土地だからな。昔は海が美しかったが、人が暮すっていうことで海を潰して、土地を作った。あこがきなことをしたものだ」

 ヒラの顔が少しだけ険しくなったあと、

「だから、東京は海の幸がうまいんだ」

「……はじめて知りました」

 自分はやっぱり自分の暮していた土地について興味がなく、食べることも、文化についても聞き流して、当たり前のように受け止めていたのだと思い返す。

 たぶん、ヒラのいうように、歴史があって、その土地らしい食べ物や文化があるにもかかわらず。

 きっと、この無頓着さは味覚がある、なしではないに関わらず、自分のことばかり考えて生きただめだと思う。

 お店の会計をしようと思ったら、ヒラがいい、いいと手をひらひらと振ってきたのに政はしかしと言い募った。ただたまたま知り合った相手に奢られるというのはどうにも気持ちのいいものではない。

「なら、今度奢ってくれ」

「今度、ですか」

 店から出ながらヒラはからからと笑って提案した。

「ここで出会ったのもなにかの縁、またお前さんとは会うと思う」

「……わかりました。では、何か連絡するものを」

「そんなもんはないなぁ。まぁ、あれだ、お前さんがまた会いたいと思って探してくれればすぐに会えるさ、そういうものさ、縁っていうのは」

「……よくわかりません」

 やはり、これは適当なことを言われて、いいように丸め込められているのではないかと政が不満げな顔をするとヒラはにやりと人を食った笑みを浮かべた。

「素直だなぁ。ははは、またな」

 手をひらひらと振って人混みのなかに消えていくヒラはまるで幻か、白昼夢のようで政は唖然とした。

 夢にしては生々しいし、ちゃんと腹は満たされている。

「あの方は、きっと高貴な方ではないでしょうか」

「高貴な方?」

「土地神さまとか」

 猫がおずおずと口にするのに政は眉を寄せた。

「えっとですね、その土地を守る神様です。その土地限定ですごいひとってことです」

「ああ、ご当地アイドルみたいな」

「神様とアイドルは違いますにゃあ」

 呆れた顔をする猫に、しかし、それくらいの感覚しかない政はなにがちがうんだと思う。

 なにより、神様だったらものを奢れるのかという疑問もふつふつと湧いてくる。これはあれだ。猫みたいに人に見えるようにしているのか。六角みたいにどこかで商いなどしていて稼いでいるのか。愛媛もバケモノたちが多かったが、実は東京も多いのか。これは同僚が実はたぬきの可能性も否めなくなってきた。

「とにかく、一旦家へといきましょう。荷物もおろしたいですし、一か月いなかったのでどうなっているのか気になりますから」

 もともと長期で滞在のつもりがなかった。そのため、東京の住まいが少しばかり気になった。

 ものはあまり持たないし、食べないので冷蔵庫の中身はからっぽで出てきた。腐ったものなどはないだろうが、長くしめられた部屋は埃がたまっていることは予想がついた。

 

 政が東京で暮らしていたのは都市部にあるタワーマンションだ。

 住まいなんてどこでもいいんじゃないかというのが政の本音だが、結婚したとき妻が――幸子が、ここがいいといって譲らなかったのだ。幸子はもともと地方の生まれで都会にあこがれて出てきたらしく、高級なものを手に入れたい欲が強いところがあった。

 タワーマンションはセキリティ面もいいし、なにより駅から近いなどと利点をつらつらとあげられれば政にしても反論する言葉はなかった。

 唯一、いや、気になる点は値段だが、それについても幸子がリサーチして、そのときいい物件を見つけてきた。南側の日差しがいい具合にはいるその住まい、五階の隅っこだ。部屋も寝室以外にも二つ、それぞれのための部屋と広いリビングにキッチン。ベランダもある。

 ローンについては幸いなことに結婚前からこつこつと貯めていた、もといあまり金を使わなかったことと、両親の祝い金で支払いはすでに済ませてある。

 同僚たちからは結婚当時、うらやましがられた住まいだが、政にとっては少し気後れするところはある。

 なんせ、人付き合いはあるし、管理人はいて声をかけられたりとすることもある。幸子からは周りから見られるんだから気を付けてと何度か注意された。別に乱れた格好はしていないし、挨拶もするのだが、幸子はここに暮らしてから人の目ばかり気を遣っていた気がする。たぶん、身の丈に合わない場所は結局住みやすくないのだろうと今ならわかる。

「お、おっきい」

 マンションの入り口前でねこが呆然と見上げている。

 口をあんぐりと開けて見上げるさまはまるで星をあげるといわれた子供みたいで、なんとも微笑ましい。

「これ、ぜんぶですか?」

「いえ。五階の隅っこだけですよ」

 こんな建物全部自分のものだったら大ごとだ。だが猫は一軒家で暮らしていて、知識も昔の人なのだからそう思い込んでも無理はない。マンションなど外側からしか見たことないだろう。いや、それだったら今まで何度か遠出するたびにマンションなどを見てあの大きなものにひとりが暮らしていると思っていたのかと思うと自然と笑いがこみあげてきた。どこの殿様だ。

「政さん?」

「いえ。なんでもないです」

 ここをみて政一人のものだと思い込んでびっくりしていたとしたらそれはなんともかわいらしい。

 腹から湧き出る笑いをなんとか飲み込んで政は整備された道をゆく。タワーマンションだけはあり、外観にも気を配られている。大理石を削って作られた入り口とその前には憩いの場として小さなスペースがある。木々を植えてちょっとした息抜きも出来るし、子供がいる人も、ここで遊ばせることができる。決まった時間に定期的に水が噴射され、それが夏になると昼間は一日中出るので家族連れなどがよく遊んでいるのを見ていた。

「はいりま……幸子さん?」

 マンションの入り口前にいた人物に政は足を止めた。

 春らしい淡いピンク色のロングスカートに、真っ白いセーターを身に着けた女は、それは見間違うことはない。

 元妻の幸子だ。

 明るい茶色の髪はゆるく、ふんわりとしていてそれを一つに結び、一文字に結ばれた唇はぷるんとゼリーのようにつややかだ。

 可愛いというものを形にしたような女性で、すらりと伸びた背筋と細長い手足はまるで人形のようで、守りたくなる女性だ。

 幸子が顔をあげて政を認めた。

 視線が宙でぶつかった。

 今更、どうして。

「政さん」

 取り繕う微笑みを浮かべる幸子に政は言い知れぬ恐怖を覚えた。

「あの、私ね、お話が」

「俺はありません」

「……私、私がしたことまだ怒っているの? そうね、ひどいことをしたものね。私、あなたが怒るのも無理ないし、本当にひどく傷つけてしまって、あんなにも激昂したの、初めて見たもの」

 幸子の言葉に政は一か月前の自分のことを思い出した。これ以上ないほどに腹をたて、怒りの炎にガソリンを自らそそいで、なにもかも灰にしようとした。会社すら巻き込んでしまったことには今更だが悔いばかりが募る。

 なんだろう。

 この目の前の幸子とのやりとりは。

 違和感ばかりがこみあげてくる。

「政さん、あの、私謝りたくて」

 幸子の言葉が頭の上で滑っていくのを政は感じる。

 心臓がどきどきと音をたてて、耳鳴りがする。気持ち悪い感覚がこみあげてきて、浅い息を繰り返す。

「政さん」

 幸子の声が。

 

「政さんっ!」

 激しい怒りをこめた声が政を現実に引き留めてくれた。

 はっと目を開けると、幸子が何か怯えた顔をしてよろりと後ろに下がった。ちらりと視線を政は向けると、猫が――いつの間にか目の前にきて、幸子を睨みつけていた。飛び掛からないのが不思議なほどに殺気に満ちているのが、その背を見てわかる。

「この女、さっさといねっ」

 政が、あっ、と目を向けたのは猫の尻尾だ。

 ぱんぱんに膨れ上がっている黒い尻尾。あれは怒っているのだろうな、とわかる。

「政さん、ごめんなさい、私、ちょっと、気分が、またあとで!」

 幸子がよろよろと後ろに下がって、逃げ出すように去っていったのに政はねこのしっぽから顔をあげた。

 止める間もなく逃げていく幸子に政は唖然と視線を向けて、深呼吸をした。

 普通に息が出来る。

 先ほど感じた感覚がすっと抜けていくのに、ほっとした。

「政さんっ」

 猫が叫ぶ。

「なんですかあの女っ」

「元妻です」

「そうじゃなくて、そうじゃなくてぇ」

 地団駄を踏む猫に政は嘆息して、歩き出した。

「入口でじっとしていたら邪魔ですよ」

「あーうー」

 猫が唸り上げているが、政は無視して自分の家へと急いだ。

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