第8話 許しましょう
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
しゃくりあげながらお紅が口にする詫びは、本当に心から悪いと思ってのことだろう。か細くて、震えていて、泣いている。
そんな姿を見ても政はどうしても許すという言葉が出てこなかった。
徹底的に追い詰めてやりたいという気持ちだ。
「お前は」
「政さんっ」
猫の声が割ってはいったのに政ははっとした。
お紅を庇う様に前に立つ猫は下唇を噛みしめて睨みつけてくる。
「だめです、それ以上口にしては」
「だって、そいつは」
「政さんっ」
「だって、だって、あなたを、あなたの呪いがとけないんですよっ」
目頭が熱くなり、涙が零れた。
猫を自由にしてやりたい。
出来ないことの悔しさがたまらなくなった。
本当は少し冷静に考えれば、刑部狸すら不可能だと断言したそれを神の使いといえど、出来るはずがないのだ。
政は自分は愚かなほうではないと自負していた。誰かに騙されるようなことは今までの人生、なかった。
ただそれは自分ではどうしもないことに遭遇したことがないった、幸せな人生だっだけだ。猫は政にはどうすることもできない、
小さな光があれば、なんだってすがたりくなる。
「俺は、あなたを自由にしてあげたいっ! だってあなたは、ずっとこんなところに囚われてる!」
声の限り、叫ぶようにして政は猫を見ていた。
「自由になれたらあなたは俺なんかじゃなくて、もっともっといいひとに会えるかもしれないじゃないですか。あなたの生きたいところや体験したいことや」
「政さん、何言って」
「俺はあなたを幸せにしたいんですっ! そのためにも憑き物筋や呪いっていうもので、あなたに妥協してほしくないっ」
「……妥協って、私が政さんを選んだのは妥協じゃなくて」
「契約でしょう」
きっぱりと政は言い返した。
十代先と契る。--そう書かれていた、だから自分は選ばれた。幼いときに猫に出会い、味覚をあげて、猫は受け取った。
「けど、もし、呪いじゃなくなったら、憑き物筋でもないならあなたは俺なんかじゃなくて」
「政さん、私はあなたのこと、そんな風に」
「わからないでしょう! あなたは世界を知らないんだから! 俺は妻に捨てられた男ですよっ」
肩で息をして言い返す。
「あなたにひどいことを口にするし、嘘はつけないし、味覚だってないせいで世間知らずで……っ、あなたが傷ついてるときも言葉が見つからなくて……探したんです。一生懸命」
「なにを」
猫が優しく、探るように問いかけてくる。
「あなたの、名前を」
つるりと言葉が出てきた。
「探したんです。一生懸命、けど、見つらなくて」
「……夜、よく家を探る音がしたのは、政さん……」
「ちゃんと、ちゃんとしたあなたの名前があるはずだと思って探したんです。けど見つらなくて、俺は」
それ以上言葉が出てこなかった。
ただふがいなくてたまらなくて涙が溢れてきたのに、そっと頬に冷たい手が触れた。
猫が泣き出しそうな顔をして自分のことを見つめていた。
「ばか、ばかばかばかばかっ」
猫が声をあげた。
両手で胸を叩かれて政は後ろに転げ、猫がのしかかってきた。
見上げると猫が顔を歪めている。
「ばかっ」
しがみつくようにして猫が罵ってくる。
「私のこと、信じてくださいよ」
「猫」
「あなたのこと、好きだという気持ちも、含めて全部、全部、信じてくださいよ。確かに私は囚われている。けど、あなたがいいと選んだのは私ですよ。そう銀次郎さんも手紙にしたためたでしょう!」
「……はい」
ーーお前がいいとさ
短く、シンプルな言葉にどれだけの気持ちが含まれていたのかはわからない。
政は自分が途方もなく臆病で、傷ついているのだと今更だが知った。
猫を大切に思えば思うほどに、自分でいいのかと二の足を踏んでしまう。だって妻は自分を嫌って背を向けてしまった。とてもとても傷ついて苦しかった。両親のことも。
誰かに捨てられることは、たとえ情がなくなったあとだって傷として残る。いくら周りに大切にされても、自分を捨てた相手じゃないと考えてしまう。
誰かに傷つけられた傷は、その相手でないと満たされないのかもしれない。
もしくは時間をかけて、かさぶたにして気にしないようにと背を向けるしかないのだ。
政には、その時間も、相手もいない。たとえ猫が、三太が、そして狸たちが認めてくれて受け止めてくれても。いや、だからこそいっそう自分でいいのかと不安が付きまとう。
傷つくとは、自分が壊されていくということと同じだ。
泣きながら政は猫を両腕で抱きしめていた。まだ震えていたが、自分をこんなにも大切にしてくれている相手を、自分と同じように傷つけたくなかった。
「私、私、本当にひどいことを」
両手を合わせて祈るように見つめてくるお紅の声に政は顔をあげた。
「ほんとだよね」
横に立つ三太がお紅を睨んだ。
「人の気持ちを利用するっていうのはそういうことだよ。政さんは俺の大切な友達なんだよ。狸だって憑き物筋は容赦なく攻撃できるけど、どうする?」
三太の怒りにお紅は身を縮めている。
「三太くん、いいです。とにかく、猫を……少し、落ち着きたいんです」
「……そっか。そうだよね。ごめん」
三太はあっさりといつもの調子で笑い
「俺たちは席を外すよ。外にいるから落ち着いたら声かけて」
そう口にして、お紅を連れて出ていってしまった。
二人きりになって政は猫の頭を撫でた。
「猫」
「はい、はい。なんですか」
顔をあげてまっすぐに見つめてくる。
「すいません」
「それはなんの謝罪ですか」
「ふがいなくて」
「ばかっ」
間髪入れずに罵られた。
「政さんは本当にバカですね。ふふ、ふふ、政さん、忘れてますよ」
「なにがですか?」
「あなたがここにきて、私と出会ったときのこと……夏の日のことです。私、家の奥に隠れていたけど、あなたが私を見つけたんです。なんででしょうね。あなたってわんぱくで」
「……まったく覚えてません」
「もうっ、そういうときは嘘でも覚えてますっていうんですよっ! ふふ、けど、それが政さんですよね」
笑い始めた猫はよっこいしょっと口にして政の膝の上に腰掛ける。
「政さんが押し入れの私の尻尾をつかんでひきずりだしたんですよ」
「なんですって」
「ふふ、やっぱり覚えてない。そのまま遊ぼうっていいはじめたの」
幼い自分はなんと怖いもの知らずの、恥知らずだったのかと政は頭を抱えたくなった。
「楽しかった。とても、それでおやつのスイカ、一緒に食べたとき、あなたは私に味覚がないって聞いて、あげるって言ってくれた」
「そこはなんとなく覚えてます」
「嬉しかったんです」
猫がしみじみと口にする。
「誰かに贈り物をもらったの、たぶん私は……人のときにはあったけど、呪いとなってからはなかったから嬉しかった。だからああ、この人がいいなって思ったんです。政さんがいいなって、何も知らなくても、私を見つけ出して、ひきずりだしてくれて、贈り物をくれるあなたが」
「バカな子供の悪行ですよ」
政が言い返すと猫が顔をあげて、にこりと笑った。
「はい。けど私は嬉しかったですよ。あなたの贈り物が、あ、けど、尻尾は痛かったです」
「それは……すいません」
「ふふ」
笑っている猫に政ははぁと深いため息をついて後ろかに抱きしめた。腕のなかに抱え込むようにしてすがるようにして、目を伏せる。
「俺でいいんですか」
「あたながいいです」
あの手紙にあった、お前がいいとさ、という言葉の意味がじんわりと心をぬくめてくれる。
きっと祖父も同じことを聞いたのだ。何年も会ってない孫で、いいのかと、その孫の性格に難があることは知っていたはずだ。
けれど幼い頃の出会いを猫はずっとずっと宝ものみたいにしまって、覚えていてくれて、信じてくれていた。
「やっぱり納得できません」
「ふぁい?」
耳がぴこぴこと動いて顎をくすぐってくる。
「あなたは世界を知らない。俺よりいい男は五万といますよ」
「もう、どうして、そこまで卑屈なんですか」
「妻に逃げられた男が、そのときに卑屈にならず、いつなるんですか?」
「う、うーん」
猫が呆れたような小難しい顔をする。
何もおかしなことを口にしたつもりのない政はふんと鼻を鳴らした。
猫がいて、少しだけ心が軽くなった。
何もできない、すすめない自分をそれでもいいと口にしてくれるから、少しだけ過去の傷を乗り越えられた気がする。
「俺も、あなたがいいです」
「ふにゃあ」
猫が声をあげた。
「あなたがいいです。だから、待たせてばかりですいません。必ず探すので、名前はまっていただけませんか、ちゃんとあなたをさがしたいんです」
「私が待てないといっても」
「それは」
うっと政は気まずい顔をした。
「だから一緒に探しましょう」
「……一緒に、ですか」
「はい。一緒に、それで見つかるならいいし、見つからなかったら一緒に名前を考えませんか? 私でいいと政さんは言ってくれた、私も政さんがいいから」
伸ばされた細い腕に、そっと政は手を重ねた。ふわふわの毛の柔らかさとぬくもりがなにもかも溶かしてくれるようで心が穏やかになる。
本当は大切にしたい過去もあるのに、それよりも今をとろうとする猫の強さが好ましいと政は思った。
逆に自分は過去にとらわれすぎだ。もうどうしようもない決定されたことにうじうじと悩んで。
「そうしましょうか」
「はい。あと私のことを考えて、怒ってくれて、ありがとう」
「いえ」
「あの、だからこそ、お紅ちゃんを許しましょう」
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