第3話 さぁ、はじめましょう

 まるで水に一粒の滴りを落したような静寂が広がり、政が振り返る。

 あれほど楽しそうにしていた狸たちすら動きを止め、伺い見る暗闇の奥から、ぬっと、足が生えた。

 次に茶色の毛が見えた。

 ぴょこんと出てきたのは、二足歩行の坊様みたいな姿の狸だった。

 それは政の胴の高さにも及ばないほど小さく、みすぼらしく、毛むくじゃらであるが、不思議なほどの存在感を放っていた。

 身にまとった法衣と、木で出来た細く長い杖はずいぶんと古ぼけている。

 こつん、こつんと杖をつきながらやってくる。

「刑部狸さま」

 六角の、焦った声が耳に届いて政は理解した。

 これが狸の総大将。

 確かにそういわれるほどの何かが目の前の狸にはある。

 こつん。

 また一歩近づいてくる。

 よちよちと赤ん坊のような緩慢な動きで、けれど真っすぐにその足は政に向かう。

「久兵衛殿」

 はっきりと、そう、刑部狸は口にした。

「古き盟約、今果たさん」

 そう口にされた瞬間、横から政は押し倒された。

 なにが、と問いかけるよりもずっと早かった。

 政がいた場所につむじ風が吹いたと思ったときには、大きな獣の爪でえぐられていた。

 ぞっとした。

 それははっきりとした殺意だった。

 視線を向ければ、刑部狸が杖を振る。

「貴様を打つ!」

 牙を剥く狸は、獰猛で、恐ろしい。

 政はただ呆気にとられて見ているしかできなかった。

 理解できるのは目の前にいるのは、確かにバケモノだ――人の手には負えない、神に近く、けれど神ではないためにもっと恐ろしく厄介なものだということ。

 近くにいた三太が咄嗟に飛びついて庇ってくれてなんとか助かったということだ。

「政さん、大丈夫っ」

「三太くん、俺は平気ですが、君が」

「俺も平気だけどさ、やばくない?」

 三太の言葉におそまきに理解する。いま、確実によくない方向にすべてが進んでいる、と。

「お待ちくださいませ、総大将さまっ」

 慌てて六角が駆け寄ってきた。

「この方は、政……犬山政というただの若者ですっ!」

 六角の言葉にそれが片目を開けた。

 毛の塊だと思っていたがちゃんと目はあったらしい。

「久兵衛殿」

 ゆらり、と声を発したあと、動きがぴたりととまった。

 かつ、かつ、かつ、杖で瓦を叩いて近づいてき、細い手を、伸ばしてきた。

 獣の手だ。鋭い爪が生え、触れると、ぴとりと冷たい。かたい肉球の感触がする。

 狸は驚くほどに強い力で政を起こして、三太をどかすようにして膝の上にのってきた。

「……」

 沈黙。

 丸まった狸は動くことはない。

 嵐の前の静けさ、その場にいる全員が細い息を吐いた。

 これはどういうことなのか、唐突に襲われてことも含めて理解が追い付かない政は視線を向けると、三太はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。他の狸たちも触らぬなにに祟りなしとばかりに遠回ししている。

 そのなかで駆け寄ってきたのは猫だ。

 思いっきりジャンプして顔に張り付かれた。

 地味に痛いし、爪が皮膚に食い込んでくる。

「うわあああん、政さん、政さん、政さん」

「離れてください。ふしだらです」

「そういう御話ですかっ!」

 ふっしゃーと猫が毛を逆立てて怒るが、そういう問題だ。

 すーすーと寝息が聞こえてくるのに、見れば、狸は政の膝の上で眠り始めている。なんなんだ。これは

「すいません、政さん、この方は、私らの総大将、刑部狸さまです」

 六角がおずおずと近づいて耳打ちしてくれた。

「これが」

「はい。今は耄碌していることが多く」

「つまりはボケジジイ」

「政さんっ」

「言葉を選んでくださいにゃあ」

 六角と猫、双方にたしなめられた。

 だが唐突に襲ってきた挙句に寝るなんてどう考えてもぼけた厄介ジジイ以外の何者でもない。

「バケモノって、人みたいに年を取るんですか」

「いいえ」

 六角が痛ましげに目を細めて、政の膝の上にいる刑部狸を見つめた。

「我々は本来、人とは違う時間軸で生きております。だから、年を取ることはありません」

「それじゃあ、これは……どうして」

 刑部狸の姿は年老いた老人のそれだ。

 政の言わんとすることを察して六角は力なく微笑んだ。

「心のありようが、見た目に影響するのです。私らバケモノ、神、妖怪といったものたちは、自分の心がそのまま力として現れます。……もっといえば我々は、人の想いに強く影響されるものなのです。恐ろしい神と言われれば、それに似通った力を得ることがある……言ってしまえば、人の信仰も含めて変化をするものなのです」

「……つまり、影響を受けやすい人種ということですね」

「ぷ。ふふ、そうですね。まぁあってます」

 政の言葉に六角が笑い、猫がもうっと頬を膨らませている。

「昔、刑部狸様は人といろいろとありまして、それからこのようなお姿になり、守護している松山城に引きこもっているんです。滅多に顔を出すことはない方ですので、まさか、このように出てくるとは」

 案じる六角につられるようにして政は視線を落とした。

 すやすやと眠るのは、どうみても茶色のしおれた毛玉。

 そっと、手を伸ばして撫でると驚くほどに柔らかい。

 何度も撫でていると、それが動いた。

 顔をあげて、くんくんと鼻を鳴らす。

 その場にいた狸たちがこぞって動きを止めて、視線を向けている。

 政は指先の匂いをかがれて戸惑いながら、ちょいと鼻先をつついた。湿った鼻先は肉球くらい柔らかかった。

 きゅう。

 可愛らしい声が漏れた。

 ゆっくりと狸が顔をあげる。

 狸たちの総大将というにはあまりにも弱弱しく、小さく、とても恐ろしい。

 つぶらな瞳が政を見上げた。

 目が合った。

「何か食べますか?」

 刑部狸の黒々とした目に光を点す。

「久兵衛殿」

 再び、その名が紡がれる。

 けれど、先ほどとは違う。

 確かな確認を持った声で、目には満点の星のように輝かせて、

「あ、ああ、やっぱり、お前は久兵衛殿!」

「違います、俺は」

「探し申した! なんと長きにわたり探し申したことか!」

 満開の桜に似た喜びの声は躊躇うほどの明るさをたたえて。

 先ほどまでの緩慢な動きとは違い、素早い動きで刑部狸は空中に飛ぶ。

 満開の桜の花びらと、星々の輝く夜空に浮かぶ月を背にした狸が実に嬉しそうに笑って告げた。

「さぁ、我が八十八万の配下に告げる! 我らが目標は久兵衛殿! 必ずその身を討ち果たせ!」

 嬉しくて、嬉しくて、本当に心の底からの歓喜の声と笑顔で、とんでもないことを告げられた。

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