第9話 下腕

 リハビリ室のような雰囲気がある。調整室なる場所での拘束を解かれたオレが、小早川に連れてこられた調整室以外の初めての部屋は、様々な器具が設置された広い空間だった。

「ここは……?」

 オレが訊ねると、

「強化室です。任務遂行力を引き出す為、また、それを維持する為のトレーニングルームです」

 と、小早川は答えた。冷たい目つきでオレを睨みながら。『後藤さん。焦る気持ちは分かりますが、しばらくは私たちに従うフリをしてください。洗脳がパーフェクトだと周囲に思われるように振る舞ってください』と小早川に言われた事をオレは思い出す。小早川のその目は昨夜二人きりの時に注意したそれを忘れるなと言っているようだ。オレは思わず人差し指で顔面を掻く。小早川の目は一層険しくなる。あ、そうか。『そういう人間くさい仕草もやめろ』という事か。


 壁面に貼られた鏡の前にオレは立たされた。鏡の中には醜悪な巨大ゴキブリと小早川が並んで立っている。順応などしたくもないが、人生を取り戻す為、オレは改造人間としての能力を受け入れ、引き出す事に決めた。嫌悪と絶望に暮れている訳にはいかない。『後藤さんの生体パーツは保存してあります。後藤さんの洗脳が不十分だった時に、交渉出来るカードとしてとってあります。元に戻りたいのなら従えという手札ですね。ま、生体パーツそのものの商品価値もありますけど』小早川はそう言っていた。人間としてのオレの尊厳などお構いなしといった小早川の喋りはオレをイラつかせたが、この非合法組織がオレの事を無価値だと判断した時には、オレから奪った体の各部分を売りさばき、このオレを廃棄処分するのだろうと気づかせてくれた。洗脳されたフリは大事だろう。有用な改造人間であると組織に思わせる事も必要なことだ。


「ゴグロザ、今触られている感覚はありますか」

 横に立っている小早川が言った。二人きりでない場合、小早川はオレの事を『後藤さん』と呼ばない。鏡の中の小早川は鏡の中のオレの手を握っている。小早川が握っている手とは、カワン……下腕と称されている腕の先だ。オレが人間であった時の両脇にあたる部分、その少し後ろ側から生えている三本目と四本目の腕、それが下腕。その右側の手を小早川は握っている。

「はい。握られている感覚はあります」

 オレは洗脳された改造人間として不自然ではないように応対する。トレーニングルームには、オレたち以外に数人の利用者がいる。白衣を着た者が二名、トレーニングウェアを着た者が三名見える。オレの様な異形の者は見えない。研究者と、改造人間ではない非合法組織の構成員、そういう事だろうか。

「動かせますか?」

 そう言って、小早川は握っていた手を離した。

「いいえ、どう動かせばいいのか分かりません」

 実際にどう動かせばいいのか見当もつかない。

「それでは上の方の両腕を上げてください。そして、私が下腕をブラブラと揺らしますから、その感覚を捉えようとしてみてください」

 オレは小早川のその指示に従う。自由の利く両腕を上げ頭の上で組み、下腕が揺らされる感覚に集中する。

「下腕の芯には骨がありません。人間ベースの動きが出来るように骨のようなフレーム、軸は入れてありますが、人体における骨格という連続性が下腕にはありません。しかし、下腕の人工筋組織、その神経結合は完璧です。下腕の筋肉を感じてください」

 そう言われても、両脇からぶら下がっている下腕とやらは、今のところただの重みでしかない。触れられている感覚や揺らされている感覚は辛うじて知覚できるが、自在に動かせるイメージはまるで湧かない。まだ、犬の尻尾をつけられてそれを振れと言われた方が容易いだろう。

「む、ぐ、ふん」と気合を入れて声を出しても、オレの意思が下腕に伝わる気配はない。


「おぉ、後輩かよ。難航しているようだな。アドバイスをくれてやろうか」

 後ろから声がした。初めて聞く声だ。下腕に集中する事で半ばブラックアウトしていた視覚情報に、声の主の姿が入ってくる。小早川とは反対側――オレの左側――と、鏡の中にその声の主がいる。白衣を着た小早川、人間サイズのゴキブリであるオレ、そこに並んで、ソイツはいた。


 イカ? イカなのか。


 ソイツはどうにも人間サイズのイカに見える。

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