第7話 酩酊
ボスと呼ばれる男の顔が、オレの顔面に近づいてくる。醜悪な顔だ。あらゆる欲が、その肌に、その表情筋に、その皺に塗り込めてあるような顔だ。歳は博士よりは若い。六十代といったところか。
「博士、コイツの今の精神状態はどのようなものか」
「はい。五号は今、初めて自分の姿を見た事で、ひどく動揺し、混乱しています。また、五号に鏡を見せ、動揺が急激に大きくなった頃合いを見て、投薬を行いました。五分程お待ちくだされば、洗脳に丁度良いタイミングになるかと……」
相変わらずオレは台に繋がれたままだ。小早川によって自分の姿を見せられた時と同じように、台は立てられ、正面には鏡がある。部屋はオレが意識を取り戻して以降、初めてしっかりとした明るさの照明が灯されている。これまでの薄暗さとはまるで違った様相を、この部屋は見せている。室内の機器、什器それぞれの色はこんなだったのか。
『洗脳は精神的ショックと、薬による方向づけ、そして、微弱ではありますが脳への電気刺激と共に行われます。それらによって正常な思考を奪いながら、ボスに喜んで隷属するよう、命令を遵守するように、思考と意思を変えられます』オレは昨夜の小早川の話を思い出している。『脳への電気刺激、これは僕以外の人間もモニターしますから、変えられません。ボスによる言葉もどうしようもない。でも、精神的ショックは後藤さんには既に大きく負ってもらってますし、投薬する薬の内容をバレない程度に薄めたものを用意しています。洗脳に耐えられる可能性は高いと思うんですよ』他人の人生を奪った張本人の一人という自覚をまるで感じさせない軽さで小早川は話していた。『どうか、耐えてください。そして、洗脳されたフリをしてください』簡単に言いやがる。『薬が効いてきたら、酒に酔ったような感覚になると思います。酔うというより悪酔いですね。飲み過ぎた時の理性の糸がギリギリ一本切れずに残っている感じ、そんな感じになると思いますので』と言った小早川に『まるで自分で試したような言い方だな』と言ったら、『まさか。酒で悪酔いした時の実体験はありますけどね、こんな洗脳用の薬、自分で試す訳ないじゃないですか。実験と観察と考察こそが研究者の
研究者っていうのは、他人の心の機微には疎いらしい。そんなモノを他人に投薬すると言っているのだからな。
「おぉ、なんということだ。なんと可哀そうなことよ」
突如としてボスは芝居がかった口調で話し始めた。意識を昨夜の小早川との会話に持って行っていたオレはビクリと身体を震わせた。
「意識を失い、気が付いてみれば、名も記憶も何もかもを失っていた哀れな男よ。肉体は変容し、元の社会に戻る術を持たない悲しい男よ。安心するがいい。私がオマエを導いてやる。オマエが欲するモノの全てに私が導いてやる。心を私にゆだねるがいい。私の声に耳を傾けるのだ」
大げさな演技だ。大根役者甚だしい。酒に酔った時のような頭のクラクラを感じながら、オレは小早川の話を思い出す。『ボスの話は長く続きます。その話に後藤さんが心の中で反発したりすると、その反発を機に後藤さんが嬉しくなるような優しい言葉をかけてきたりします。後藤さんの心の動きはモニターされてますので、それを見ているボスの匙加減で洗脳が進められる訳です。ボスの言葉にそこそこ反応してください。でも、聴き入ってはいけません。意識はなるべくボスの言葉以外に向けておいてください。部屋の中の様子を観察するとかがいいかも知れません』小早川はそんな事を言っていた。
「おぉ、おぉ、本当に哀れな男よ。私の言葉で癒されてくれ。私はオマエを救いたいのだ……」
ボスの話している内容を法事の時の坊主の念仏を聞いている時のように、オレは意識から外す。そして、引き続き小早川との会話を思い出す。『オマエの狙いはなんなんだ? オマエはオレの味方になってくれるとでも言うのか?』と、昨夜、オレは小早川に質問をしたのだ。それに対して小早川は、『イヤだな、後藤さん。そんな味方とかなんとか』と笑い、『僕は僕の利益の為に動いているだけです。この世にただただ善意で無条件に味方してくれる人なんています? そんなの、いる訳がないじゃないですか』と言っていた。それはそうかも知れないが、オレは京子と志穂の顔を思い浮かべる。
無条件に味方したい、それこそが愛だ。あの二人の元に帰るんだ。オレは、洗脳など、されない。
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