第5話 失踪未満

 胃液が逆流する。食道を通って上がってきた胃液を口から吐き出す。鏡の中のバケモノの口元から液体がこぼれる。マジか。どこかにやってしまいたい現実感が『これは現実だぞ』と胃の底を握って揺らしている。胃と食道がその存在感を吐き気で主張している。

「オゥエ……。ギ、ゴ……。オェ……」

 オレの口からは胃液と妙な音が出ている。鏡の中のバケモノが自分である事を信じたくないが故に、胃液を吐くその擬音を人間らしくわざとらしく発しているようにさえ、自分で思ってしまう。頭が追い付かない。オレがあんなバケモノな訳はない。だが、どうやら空っぽであるらしい胃はムカつきを訴え続け、オレが自覚するオレの動きのままに、鏡の中のバケモノは動いている。なんだ、なんなんだ、これは。そして、今度は急に部屋がその暗さを強めたようだ。どんどん暗くなっていく。「オェ……」


 ---


「カハッ!」と、喉の粘りを吐くようにオレは声を上げた。どうやら気を失っていたらしい。

「気が付きましたか」小早川の声がする。オレを拘束している台はまた横向きにされているようだ。上部に沢山のライトのガラスが見える。あの手術室のようなヤツだ。やはり明かりは灯っていないが。

「気絶されたようでしたので、再びオペ台を横にしました。大丈夫です?」

「大丈夫か、だと? ふざけているのか」

 拘束されている事、手術室ライトがやはり上にある事を確認したオレは、夢じゃなかった事に絶望していた。せめて言葉を投げつけてやりたいが、オレの口から出る言葉は力ない呟きだった。

「今、後藤さんがされた体験をしっかり覚えておいてください。ボスの洗脳はああやって、後藤さんに耐えがたいショックを与えた後に始まります」

「何を言っている?」

「後藤さんには、『そんな事されたらそういう反応をしてしまうのが当然だ』という振る舞いをしてもらいつつ、冷静でいて欲しいんですよ」

「だから、何を言っているんだ」

「洗脳されたフリをして欲しい、そう言っているんです」

 小早川の言葉は事務的な口調で発せられているが、子供がふざけているような雰囲気がある。

「オマエの意図はなんだ。オレがオマエに従う理由なんてないし、オマエを信じる根拠もない」

 視界の端の方に小早川はいる。モニターの向こうに見えている頭が小早川のものだ。そこから声は聞こえている。

「まぁ、それはそうなんでしょうけどね」

 ふっ、とバカにしたような小早川の息づかいが続いて聞こえてくる。

「洗脳されちゃたら、後藤さん、全部終わっちゃいますよ?」

 少年の軽口のように小早川は言う。


「いくつか、確認させろ」

 頭の奥がジンジンと疲労と混乱を訴えている。明瞭な思考からは遠いぼんやりした頭をオレは自覚している。だが、主導権を向こうに持たれたままでいるのは、おそらく、悪手だ。

「ええ。どうぞ」

 小早川は軽く言い放つ。信用など出来る訳もないが、今のオレに出来る事はコイツから情報を引き出す事だけだ。

「ここはどこだ」

「平たく言えば、改造した後の後藤さんの調整を行う部屋ですね」

 改造、という言葉に今更ながら不気味さを覚える。

「そうじゃない。この部屋があるのはどんな組織、団体の、どこにあるどんな建物なのかと、聞いているんだ。それから、今、この部屋にいるのはオレ達二人だけなのか」

「今、ここにいるのは後藤さんと僕の二人だけですよ。組織、団体、場所等はおいおいお話しますよ」

 話す気があるのかないのか、肝心な事ははぐらかされたようだ。

「今日は何日だ」

「えーっと、何日だっけ。とりあえず、後藤さんがここに来てから、およそ一年ってトコですかね」

「なんだと!」

 どういう事だ。オレはこの部屋以前の記憶を思い出そうとする。どうしていた?オレがここにいるのはどんな経緯だったんだ? 毎日会社に向かい、仕事をしていたはずだ。混乱した頭で記憶の糸を手繰ろうとするが、幼少期から大学時代までの記憶がむやみやたらに浮かび上がってくる。オレは、どこで、働いていた?

「オレは、会社員だったハズだ」

「そうですね」

「オレには家族がいる」

「そうですね」

「それならば、失踪したという事になっているんじゃないのか。会社や家族がオレを探してくれている……、今、そういう事になっているハズだな?」

「いやー。それはないですねー」

「何?」

「ちょっと待ってくださいね」

 小早川はそう言って、カチャカチャと音を立てている。キーボードを操作しているようだ。そして、どこかで、ブッと音がした。この部屋の何処かにあるスピーカーか?

「トラブルがあったんだ。済まない、家に帰る事も出来ずに今すぐマレーシアに行く事になった」

 唐突に誰かの声がした。スピーカーから誰かの話し声が聞こえてきた。

「これ、後藤さんの声です」

「オレの声はこんなじゃない」

 それにそんなセリフを吐いた覚えもない。

「まぁ、自分の声って、自分では違って聞こえますからね。でも、今のは後藤さんの声です」

「オレが言った事のないさっきのセリフをオレの声だと言うのか?」

「後藤さんの声と口調を再現するなんて、なんでもない技術ですよ? 現代って、そんな技術、驚く程の事じゃないでしょ?」

「いったい、どういう事なんだ。小早川、何が言いたい?」

 小早川は深い息を吐いている。オレは耳をそばだてる。


「後藤さん、あなた、会社に売られたんですよ」

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