第4話 G

「改めて、ご挨拶を。初めまして、後藤喜一さん。僕は博士の助手をしている小早川と言います。色々と聞きたい事もあると思いますが、後藤さん、どうでしょう? まずは、喉に空気を通せていますか? それが出来たら、発声も可能かと思うのですが」

 オレは深呼吸をイメージする。現役時代に得意としていた跳馬の前のルーティーンとコンセントレーションを思い出す。肋骨を広げ、肺を大きく膨らませるあの時の感覚を再現しようとする。胸が動くのが分かる。口の中に外気が取り込まれている。意識をそれと向けなければ出来ないものだったか?呼吸って。しかし、今、オレは意識的に呼吸をしようとしている。呼吸している。いや、待て。さっきまでのオレは呼吸が出来ていなかったのか。

「ギ、ギギ……。あ、あー。うー、おー」

 やった。声が出た。

「声、出ましたね。良かった」

 小早川が言う。だが、内容と裏腹に無機質で事務的な声だ。

「か、カハッ……がぞぐにでをだずごどはゆるさん……」

「え?」

「ガッ、ゴッ……か、家族に手を出すごどはぜっだいにゆ、許さん!」

 喉の奥の妙な粘り気で声が出しにくい。

「あ、ええ。もちろんですとも」

「信じられるか!オレを解放しろ!家族の元に帰せ!」

「んー。それはちょっと難しいですねー」

「何を言っている! 一体ここはどこで、オマエらは一体何なんだ!」

 オレは仰向きで拘束されたまま、見上げた先の小早川に叫ぶ。

「順を追って説明しないといけないんですけどねー。さて、何から話すのがいいのか」

 小早川は頭を掻きながらそう言った。

「ついさっきまで失っていた視覚情報と声を獲得されて、興奮もされてるでしょうし、まだお気づきにはなっていないのかも知れませんが」

「なんだ?」

「後藤さん、後藤さんの今の視覚情報ってどんな感じなんですか?私は研究者として、非常に興味があるのです」

 コイツは何を言っているんだ? だが、そう言われてオレは視覚情報を意識する。目に意識を持っていく。瞼の感覚は相変わらずないし、眼球を動かそうと思うがそれもままならない。しかし、上に見えている小早川以外のモノを見ようと意識する事で部屋の様子が見えてきた。オレの真上には手術室にあるような光源を幾つも備えたライトがある。そいつの電源は入っていない。部屋は薄暗いが、モニターらしきものの背がいくつか並んでいる。オレの寝かせられている台の高さと同じくらいの高さにある机だろうか、その上にモニターの背が並んでいる。数段階段を上がった所に扉がある。あそこが出入口か。博士とボスと呼ばれる男の声と足音は確かにその辺りから聞こえてきていた。


「後藤さん、人間の視野ってそんなに広いと思います? 後藤さんは今、ピクリとも首を動かしていませんけど、けっこうぐるりと見えてるんじゃないですか?」

 小早川の言葉にオレは絶句する。小早川の言う通りだ。なんだ、これは。

「どういうことだ。オレは一体どうなったんだ」

「えーっとですねぇ。後藤さんに聞かれていたかな、聞かれてはないかな。後藤さんはボスからの洗脳を受ける事になってるんですよ。近々ね」

 そう言いながら、小早川は部屋の隅の方に歩いていった。そして、ガラガラと大きな板状のものをオレの足の方へ持ってきた。あれは、鏡か。光やらこの部屋の機器やらをチラチラと映している。

「そして、洗脳っていうのは、その相手が大きな精神的ダメージを受けた直後の方が都合がいいらしくてね。僕はそれをちょっと邪魔したいなと考えてるんです。だから、後藤さん。今のうちにめいっぱい精神的なダメージを負っといてください」

 小早川のその言葉を合図に、オレの下の台が動きだす。今度は上半身だけを立てるのではなく、全身を立てていっている。足元の鏡がその様を映している。オレの身体が垂直に立てられようと動いているその様は鏡を通して見えている。オレが手を動かせば、鏡の中に映っているアレも同様に手を動かす。オレが首を振れば、鏡の中のアレも同じように首を振る。


 まさか、そんな、嘘だろう? いつの間にかオレの真横に立っている小早川が鏡の中でオレと並んでいる、のか? これは、現実なのか。これは、なんなんだ。


 これじゃあまるで。


 これじゃあまるで、オレは、人間サイズのゴキブリじゃないか。

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