第3話 統合

「さて、後藤くん」

 年老いた少し甲高い声でゆっくりと博士はオレに語りかける。

「ワシの顔は見えているかね?」

 目に意識を集中する度に頭の中に流れ込んでくる洪水の様な光と影の情報に、オレは随分まいっていたが、このムカつく声の主の顔をしっかりと見てやろうと、再度目に意識をやった。博士の声の方へ向けて。しかし、見えない。相変わらず数百数千もの似ているようで違う映像が重なり合ったり連続して並んでいたりで、博士の姿らしい影が数百数千ぼんやりとした姿のままで脳を殴ってきているようだ。オレは首を横に振る。

「そうかそうか。しかし、ワシの声は聞こえている訳じゃな?」

 オレは力なく頷く。

「ふむ。良し。ならば、最初に言っておく事は、これじゃな」

 目も見えないオレには出来る事はない。オレは大人しく博士の言葉に耳を傾ける。

「後藤くんの住まいと家族構成はワシらの把握するところじゃ。後藤くんが、ワシらに歯向かった際には、あの綺麗な奥さんと可愛いお嬢ちゃんは……」

 オレの身体は反射的に跳ねる。博士の声のする方へ飛びかからんと身体を揺する。拘束具が邪魔だ。妻と娘をどうするって?ふざけるな。何を言うつもりだ。

「落ち着きなさい。その態度では保障できんぞ? 君が我々に危害を加えない限り、君の家族に手は出さん。それを約束しようと言っているのだ。我々に大人しく従え」

 ふざけるな。しかし、今はどうにもできない。オレは脱力し、身体を繋がれた台に預ける。それでも、肩が興奮で上下しているのが分かる。そして、身体中の至る所から『シュー』という音がしている。小さな穴から空気が漏れ出ているような音だ。

「ほぉ。体節の隙間の気門からの呼吸は良好なようじゃの。コウフンからの呼吸がまだ上手くいっていないが故かの、発声の不具合は。なるほど」

 何がなるほどだ。何を言っていやがる。まずはこの拘束を解け。そして目を見えるようにしろ。


 博士は黙っている。その代わりにオレの身体のあちこちに触れているようだ。目でその様をちゃんと確認する事は出来ないが、頭の中の光と影の群像の中に博士のものと思われる影がせわしなく動いている。

「ふむ。良い感じのようじゃな」

 何がだ。黙れ。オレを解放しろ。家族には絶対に手を出すな。

「ギ、ギギギ……」

 やはり声は出ない。

「よし、話を続けよう。手をグーパー出来るか? 手を握って開いて出来るか? まだ、拘束を解くわけにはいかぬが、グーパーするぐらいはそのままでも出来るハズだ。全ての手のひらでグーパーやってみてくれ」

 コイツの言う通りに動くのは癪だが、今のオレの身体がどうなっているのか、それはオレも確かめたい。手を握り、開く。右手と、左手と。うん。動く。力の入り具合も悪くない。ん?全ての手と言ったか? なんだその言い方。両手はこの通りだ。

「そうか。カワンは今のところ動かないか。これは、気長に行くしかないな」

 カワン?カワンってなんだ?おい、説明しろよ。

「博士」

 小早川が声を上げた。

「五号のストレス値が急上昇しています。少し休ませた方がいいかと」

「そうか。……、急いては事を仕損じる、か。分かった。今日はここまでにしよう。小早川くん、台を戻してご……、後藤くんに栄養補給を。拘束具のチェックは怠らないようにな」

「はい。そのように」

 小早川の返事の後に、博士の気配は消えた。部屋から出て行ったようだ。台がさっきとは逆の動きをして、オレは再び仰向けに寝かせられた。拘束具はそのままだ。

「さて。そろそろ目も見える頃だと思うんだよね、後藤さん」

 小早川の声が近くで聞こえる。オレの頭の右側に立っているようだ。そこに小早川の気配がある。オレの寝かせられている台は小早川の腹くらいの高さだろうか。小早川の声は随分上の方から聞こえる。

「口から息を吸うイメージ、ゆっくりと深呼吸をする感じを思い出してみて。そして、目には意識を集中させすぎないで。ぼんやり前を見ながら視界の端ギリギリのところにある何かを見ている様な、そして、その視界の端の何かの事を思っているようなそんな気持ちでゆっくりと心を穏やかに」

 小早川のその落ち着いた低い声にオレは従う。頭も体も疲れすぎていて、その声のままに体から力が抜けていく。

「無理する事はないんだけど、全天球カメラ……360度カメラの映像や、プラネタリウムのスクリーンをイメージしてみて。そうだな、頭蓋の内側がプラネタリウムのスクリーンだと思ってみるといいかもね」

 脱力の中、オレは小早川の言うイメージを追ってみる。分かるような分からないような感覚だが、なにかの思考実験のようでもある。

「いま、いい感じでリラックスできていると思うなら、僕の声の方向に、ぼんやりと視覚情報を求めてみて」

 言われるままに、オレは小早川の声の方へ意識を向けた。その刹那、光と影と色と空間のイメージが組みあがった。オレを見下ろす小早川の顔が見える。メガネをかけた三十代と思しき男性。白衣を着てオレを見下ろしている。

「認識出来たみたいだね、僕の顔。僕は小早川ヒロキ、よろしくね」

 小早川はそう言って爽やかに笑った。

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