第26話 滝川の過去 ― 大切に ―

 もっと、ようとの時間を大切にしていれば良かった。

 

 後悔の念が怒涛のように押し寄せてきて、葵は溺れそうな息苦しさを感じた。

 息ができない。死にそうだ。

 必死で胸をつかみ、全ての思考を停止した。

 考えるな! 考えたら死んでしまう!

 

 いや、ちがう。死んでいいんだ。死んだら陽の傍にいける。

 暗闇をはらうひかりは―――もういないんだから。


 

 それから十日間ほどの記憶はぽっかりと抜け落ちていた。今でも、何も思い出せない。通夜や葬式にも行ったはずなのだが、何も覚えていなかった。

 記憶が辿れるのは、誰かを殴っているシーンからだ。何で喧嘩になったのかも覚えていないが、他校の生徒と殴り合った。葵の学校は進学校だったから、そんな事件はまず起きない。一週間の停学処分になった。


 ほらな、俺なんて、ようの笑顔を見てなきゃ、こうやってすぐ暴れる危険な奴だ。俺なんか生きていない方がいいんだ。陽の代わりに俺が死ねば良かったのに。


 停学処分が解けても、葵は学校に行かなかった。

 何をする気力も湧かない。昼間は家にこもり、夕方になるとふらりと出かける。そして、喧嘩をしてはけがをして帰って来る。そんな日々を繰り返した。

 そんな葵を、善三じいさんは黙って見守っていた。


 ある日、かなり派手に喧嘩をして、さすがの葵も動けなくなってしまった。


 ああ……これで俺も陽のところに行けるかな。


 朦朧とする意識の中で陽を探したが、陽の姿は現れなかった。


 陽のやつ、こんな情けない俺には愛想つかして、迎えになんかこないか。



「起きろ!」

 低くて有無を言わせない響きの声に、葵は片目を開けた。

 善三じいさんが見下ろしていた。

「帰るぞ」

「ほっといてくれよ!」

「帰るぞ」

「俺はもういいんだよ。ここで野垂れ死にした方が世の中のためだ。どうせ、大人になってもおやじのようにろくな大人にならないんだからな」

「ばかやろう!」

 いきなり胸倉をつかまれて殴られた。


 痛ってえー。じいちゃんの拳、すっげえいてえ。


 その時葵は思い出した。じいさんは今でも現役の大工だ。毎日重い材木を抱えて作業している。鍛え方は半端ないのだ。そりゃ、そんじょそこらのチンピラより、腕力が強いに決まっている。

「モノを粗末にするやつは許さねえ! 例え自分のことでもだ」


 やっぱり、じいちゃんは強くてカッコいいな。

 葵の目から涙が零れ落ちた。


 俺、やっぱり、じいちゃん大好きだ……。


 その時、不意にようの言葉を思い出した。


―——遺伝って隔世遺伝とかいろいろなパターンがあるから、そんな単純な引き継ぎの仕方してないと思うよ―――


 そうか……俺の中には、じいちゃんの血も流れているんだ! 

 俺の中に、じいちゃんの血がいっぱい流れていたらいいな。そうしたら、俺もじいちゃんのように、強くカッコよくなれるはず。


「ほら、起き上がれるか」

 善三じいさんは、葵の手を掴んだ。

 無防備にじいさんの顔を見上げたら、小学生の頃に戻ったような気持ちになる。

 高い背を縮めるように、葵は猫背のまま起き上がった。

「帰るぞ」

「うん……」



 次の日の朝、葵は善三じいさんに叩き起こされた。

 朝食後、一階の作業場へ連れて行かれてかんなを渡される。じいさんが帰って来るまでに、目の前の木を削って滑らかな断面にしておくようにと言われた。


 

 静かな作業場で、無心に木を削っていると、心が洗われていくような不思議な感覚を覚えた。黙々と続ける単純な作業。それが救いになることを初めて知る。


『あおくん!』

 その時、耳元で陽の声した―――


『私は太陽の陽ちゃんだよ。だから、絶対死なないよ!』

 

 導かれるように庭に出て、太陽を見上げる。日差しに全身が包み込まれるような安心感。暖かかった。


 よう


 太陽に手を伸ばす。


 陽! そこにいたんだな―――

 

 葵は初めて、声をあげて泣いた。陽を想って泣いた。


 陽は生きているんだ!

 太陽の日差しの中に、俺の心の中に。

 俺が覚えている限り、陽も死なないんだ!

 

 これからは、心の中のようをそっと抱きしめて。

 大切に、大切にして―――

 生きていこう!



 結局、葵は高校を辞めた。

 本当はじいさんが、高校だけは卒業して欲しいと思っていることは分かっていた。

 でも、葵は陽のいない学校に行きたくなかったし、もう本気で大工を目指すと心に決めていた。

 これからは、真剣に、じいさんの弟子として修行しようと思っていた。

 もう、一日だって無駄にできない。じいさんの技術を受け継ぐんだ。


 それから葵は黙々と、善三じいさんから教わり続けて、じいさんが亡くなった今もこうして大工を続けている。

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